第123話 新たな船出

統一歴九十九年四月十四日、午前 - セーヘイム/アルトリウシア



 漁師の朝は早い。

 日の出る前に出港し、漁場で魚を獲るか獲り終わる頃に東の西山地ヴェストリヒバーグ稜線りょうせんから日が昇り始め、朝日を浴びながら帰港する。

 漁師たちの朝がこんなにも早いのは、魚の生態に合わせた結果だ。日の出の頃や深夜がもっとも魚の活動が活発で獲りやすいからだ。明るい昼間に頑張るよりも、早起きした方がずっと効率よく魚が獲れる。

 獲った魚介は帰港し次第水揚げし、一部は競りに出され、一部は漁師の女房たちがまとめて行商へ持って行き、一部は干物や塩漬け等に加工され、一部は漁師宅の台所へ運び込まれる。

 水揚げした後、漁師たちは船を浜へ引き揚げ、漁具を片付ける。傷んでいる漁具があれば手入れもする。


 そうした一連の朝のルーチンも終わってセーヘイムの港の主役が漁師から交易商人たちに入れ替わった頃、交易船と共に出港準備を完成させた二隻の軍船が桟橋から離れようとしていた。

 アルトリウシア艦隊の旗艦『ナグルファル』号と僚船『グリームニル』号である。出港の目的はもちろん逃亡した叛乱軍、ハン支援軍アウクシリア・ハンの『バランベル』号と彼らに強奪された貨物船クナールの捜索である。

 『ナグルファル』号にはアルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアサウマンディア軍団レギオー・サウマンディア軽装歩兵ウェリテス百人隊ケントゥリア一個ずつ、『グリームニル』号にはアルトリウシア軍団の軽装歩兵の百人隊一個が乗船している。これらはハン支援軍が潜んでいると思われる島嶼とうしょを捜索するための兵員であり、同時に海戦になった場合の接舷移乗白兵戦戦力でもあった。

 ただし、サウマンディア軍団の軽装歩兵はこの後トゥーレスタッドで待機しているサウマンディア艦隊のスループ艦に移乗する予定だ。


 もやいを解いて離岸する船を多くの人たちが見守っている。

 搭乗するアルトリウシア軍団の軍団兵レギオナリウスや船乗りの家族たちが多くを占めていたが、いつもと違って仇を取ってくれと応援に来た犠牲者遺族たちも数多く含まれていた。

 船着き場で彼らの船出を見送る人々の中にヘルマンニとその家族の姿もあった。



あなたヘルマンニ、ホントに今回は行かないんですね。」


 『ナグルファル』号の船首楼せんしゅろうから手を振る息子サムエルを見ながら、インニェルが隣に立っているヘルマンニに今更のように訊く。


「ん?・・・ああ、

 あいつサムエルも艦隊指揮くらいできるだろうしな。」


 そんなこと訊いてるんじゃありませんよ。


 呆けたように答えたヘルマンニにフンッと鼻で笑うみたいに溜め息を吐くと、インニェルはあえて厭味ったらしく続けた。


あなたヘルマンニが船から降りるのはもっと先かと思ってました。」


「別に降りたわけじゃないさ。

 ただ、今は郷士ドゥーチェとしての仕事もせにゃならんからな。」


 女房インニェルの言葉にトゲのようなものを感じたヘルマンニは少し反発するように、しかし半ば笑うように答える。

 言ってることは至極当然のことだ。しかし・・・


 今まで郷士の仕事をほったらかしにしてでも船に乗ってたくせに。


 そうは思ったが、インニェルは口に出さなかった。

 いつも他人任せにしがちだった郷士としての仕事に向き合ってくれるようになったのは確かかもしれない。彼女自身、それを望んでいたし何度かヘルマンニにそう小言したこともあった。

 だが今日のヘルマンニの態度を嬉しいとは思えなかった。何となく、海を諦めてしまったような寂しさみたいなものが感じられたからかもしれない。

 櫂走を始め遠のいていく息子たちの船を見送るヘルマンニの姿は、インニェルが惚れた男のそれではない気がした。



「じゃあ、今日の会議は出られるんですね?」


「当然じゃ。

 そのために残ったんだからな。」


「じゃあ、急いで支度しませんとっ。」


 この時、ようやくヘルマンニはインニェルの顔を見た。


「ああ?

 あれは午後からだぞ、まだ早いじゃろ?」


 インニェルは今度こそ呆れたようにため息をついた。


あなたヘルマンニのその三つ編み、全部編みなおさないとダメでしょ。」


「むっ・・・乱れとるか?」


 虚を突かれたヘルマンニは豆鉄砲を食らった鳩のように目を丸くし、顎髭あごひげをさすった。

 セーヘイムのブッカは男も女も魔除けとして髪の毛やヒゲで三つ編みを作る習慣があった。ヘルマンニも普段から顎髭で七つの三つ編みを作っているのだが、インニェルの知る限り、帰港してから手入れした様子はなかった。

 帰港してから五日目、もしセーヘイムから前回出港した日からずっと手入れしてないとしたら八日はほったらかしになってたことになる。



「ええ、三つ編みの間から編まれていない新しい毛がピョンピョン飛び出てましてよ?

 まるで海賊みたい。

 三つ編み全部解いて、一度お風呂で全部洗いなおすとこから始めないと!」


「む、むう・・・」


 ヘルマンニは顎の三つ編みの間から確かに短い毛がはみ出ているのを指の感触で確認してしまい、言葉にきゅうしてしまった。



 船は既に港口に達しており、見送りの人たちも三々五々立ち去り始め、船上の人たちも手を振るのをやめていた。

 それでもメーリは抱いた我が子をあやしながら、赤ん坊の小さな手をとって船に向かって振らせながら、離れていく船を見送り続けている。

 その姿にヘルマンニを送り出した昔の自分を重ねたインニェルは、優しく声をかけた。


「メーリさん、そろそろ行きましょう?

 この風は赤ちゃんには寒いわ。」


「はい、お義母さまインニェル


 放っておけば見えなくなるまでここで見送り続けかねないメーリだったが、さすがに赤ちゃんが冷えると言われれば家に帰らざるを得ない。後ろ髪を引かれるような想いを抱いてはいたが、それでもようやく家路へと足を運び始めた。

 近場で操業する漁船や渡し船はともかく、遠洋を航海する交易船などは十隻出港すれば一隻は遭難し二度と帰ってこない。船で遠出する者がいれば、その見送りが最後の姿になるかもしれないという不安はどうしたって抱かざるを得ないのだ。例えそれが海に強いブッカだろうと、腕利きの船乗りだろうと同じだ。

 だからこそ、こうして多くの人が見送りに来る。

 だからこそ、メーリの気持ちはインニェルには痛い程よくわかる。

 だからこそ、インニェルはあえて気持ちを逸らせようとメーリに話しかけた。



「ねえ、メーリさんも見て、この人ヘルマンニのヒゲ・・・あら、髪の毛もだわ。

 酷いありさまでしょう?

 これで領主様や他の郷士様たちとの会議に出ようって言うのよ。

 とんでもないと思わない?」


 やけにあっけらかんとした義母インニェルに戸惑いながらも、メーリが「え、ええ」と相槌を打つとヘルマンニはめんどくさそうに反発した。


「ええぃ、もうわかったわぃ!」


 ヘルマンニに女たちの気持ちはわからない。彼はいつだって送り出される側だった。海に挑み続ける者だった。船出する際に見送り、見送られる者たちの顔が、これが最後かもしれないなどとが付いていた。

 だから、インニェルがメーリを元気づけるためにヘルマンニをダシに使ってるなんて思いもしなかった。


「まあ、ちょっと聞いたメーリさん?

 まるで子供みたい!」


 インニェルはメーリにそう言うとコロコロと笑い、メーリと共にヘルマンニに続いて家路につくのだった。

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