第106話 ダイアウルフ被害報告

統一歴九十九年四月十二日、夕 - 《陶片》リクハルド邸/アルトリウシア



「ダイアウルフだぁ!?」


 ヤルマリ橋から子飼いの手下と共に戻ったリクハルドを待っていたのは、放牧中の羊が一頭犠牲になったというパスカルからの報告だった。

 パスカル・レルヒはヒトの男性でリクハルドに家令として仕えている男である。緩いウェーブのかかった黒髪とやや薄い褐色の肌を持つ彼の年齢はおそらく三十代後半だが正確なところは本人も知らない。もちろん本名も不明で、今名乗っている名前はリクハルドと初めて会った時には既に定着していたのだが、いつどういう経緯でその名を名乗るようになったのかは本人も憶えていない。

 寡黙かもくな男で感情を滅多に表に出さないが、仕事ぶりは誠実そのもので、海賊時代からリクハルドの腹心として主に金の管理を任されていた。



「どうやら生き残りがいるようですな。」


「確かなのか?数は?」


 リクハルドは自分の屋敷ドムス玄関ヴェスティーブルムで腰掛に座ったまま洗い桶で泥の付いた足を洗いながらリクハルドは尋ねた。

 脱ぎ捨てられた汚れた履物は既に別の使用人が回収して洗いに行ってしまっている。


「目撃されたのは一頭です。

 直接見たのは羊飼いの少女だけで、『とても大きな狼だった』と言っています。

 角笛の音で駆け付けたラウリが調べたところ、残された足跡からダイアウルフに間違いないだろうと・・・」


 パスカルは答えながら、足を洗い終わったリクハルドに足ふき用の雑巾を差し出した。リクハルドはそれを無言のまま受け取ると自分の足を拭き始める。


「ダイアウルフだけなのか?

 ゴブリン兵は?」


「少なくとも見てないようです。

 ただ、どうやら鞍は付いてたようですね。」


 リクハルドが足を拭いている間に、清潔な上履きをリクハルドの前に揃えながらパスカルは答えた。

 リクハルドは使い終わった雑巾をパスカルへ渡し、上履きに足を通すとそのままの姿勢で一つ盛大な溜め息をついた。


「東から来たゴブリン兵とダイアウルフの死骸の数は?」


「我々が回収したのはどちらも八ずつです。

 あと、聞くところによるとマニウス要塞で四体ずつ。」


「《とりノ門》を襲撃したのは九騎だったが、九騎ともゴブリン兵は乗っていたはずだ。

 取り逃がしたのは?」


「報告では《とらノ門》で五騎、《たつみ門》で十騎ばかりということです。

 しかし、《寅ノ門》は確実なようですが《巽門》の十騎という数は定かでは無いようです。」


 どうやら生き残りが存在する事は間違いないようだった。リクハルドはぼりぼりと頭を掻いてうーんと唸る。


「ゴブリン兵もいると思うか?」


「居てもおかしくはありませんな。」


 こういう時、この男は当たり前な答しか返さない。こいつパスカルはリクハルドの他の手下同様元海賊のくせに、妙に学者じみた態度をとる。


「ラウリは?

 後を追ったんだろ?」


「日のある内に足跡を追ったそうですが、ヤルマリ川で途絶えたそうです。

 どうも、川に入ったようだと・・・。」


 ラウリは武装した手下と共にダイアウルフの足跡と羊の血痕を追ったが、その痕跡はヤルマリ川の河川敷で途絶えていた。

 川を渡ったかのようだったが、対岸は藪が茂っていて死んだ羊を咥えたダイアウルフが揚がったような痕跡はパッと見では見つからなかった。対岸に渡ってみれば何か痕跡が見つかるかもしれないが、最寄りの橋を迂回して対岸に行くまでに日が暮れてしまいそうだった。

 そもそも対岸はアイゼンファウストの領分である。当然だが、勝手に調べたら問題になる。

 それにもしかしたら対岸には渡らず、一旦川に入ってから上流か下流へ進んで再上陸したのかもしれない。そうすれば血痕や足跡や臭いといった追跡するための痕跡を断つことができるからだ。



 だが、いくらダイアウルフの頭がいいって言っても、そこまで頭が良いのか?


「少なくとも、アイゼンファウスト卿に通報はしておいた方が良いかと思いますが?」


「ああ、そうしてくれ。

 被害は羊だけなのか?

 羊飼いの娘ってのは大丈夫か?」


 今度はパスカルがため息をついた。


「何だよ?」


 リクハルドは思わずパスカルの方を見た。あいかわらずの仏頂面が見下ろしている。


「いえ、少女は大丈夫ですが、牧羊犬が一匹やられました。」


「死んだのか?」


「生きていますが重症です。肋骨をやられたようですね。

 少女自身は無事ですが、牧羊犬がやられたことにかなりショックを受けているようです。」


 表情は鉄面皮そのものだし口調も事務的だったが、話す速度が先ほどよりも若干早くなっていた。

 この男パスカルはこういうところがある。

 態度はいつも固く感情を外に出さず容易に腹を割ったりはしないが、決して冷徹なわけでも無感情な訳でもない。

 先刻のため息もリクハルドが真っ先に聞くべき少女の安否を後回しにした事に対する不満の表れだった。



「助かりそうか?」


「厳しいでしょう。

 自力で起き上がることもできないようです。

 運ぶのに難儀したとラウリが言ってました。」


 この世界ヴァーチャリアも《レアル》からもたらされた様々な知識や技術がある。顕微鏡も無いが細菌やウイルスといった病原体の存在は知られているし、栄養学や薬学、人体の解剖学的な知識も知られている。

 だが、だからといって高度な外科手術が出来るわけでは無い。この世界ヴァーチャリアで安価に生産可能で、なおかつ副作用の少ない実用的な麻酔薬はまだ発見されていなかった。

 この世界ヴァーチャリアの外科手術と言えば、手や脚の切断と、鉄砲玉の摘出、傷口の縫合ぐらいのものである。そしてその際に用いられる麻酔は麻薬のような危険な副作用を持つ怪しげな薬だけだ。

 多くの場合、怪我は自然治癒に任せる他治療方法は無く、せいぜい治癒魔法やポーションで苦痛の軽減と自然治癒力の増幅を促す事が出来る程度だった。

 人間の治療でさえその程度なのである。犬ごときにまともな治療など施せるわけがなかった。


「ふーん・・・手の空いた坊主(神官)がいたら回してやりな。」


「よろしいので?」


「他にする事がねえんならいいんじゃねえの?」


 やれやれとばかりにリクハルドは立ち上がって伸びをした。


「・・・・・」


「何だよ?」


「いえ、そのように手配します。」


 リクハルドは家の奥へ向かって歩き始めた。

 家は大きく二つに分かれており、表側が郷士ドゥーチェとしての仕事をするための公務エリア、奥側が私的な生活空間である。

 公務エリアはレーマ風の様式でつくられているが、奥の方はセーヘイムのブッカと同じ様式と南蛮サウマン様式の組み合わせである。これはリクハルドが海賊になる前までずっと南蛮豪族のもとで育てられた経歴ゆえだった。



「それよりも放牧だよ、どうすっかなぁ?」


 放牧はしない訳にはいかない。しないでも羊が死ぬわけでは無いが、外で草を食べさせない以上は飼料代がかかる。

 まだ秋口だというのに早くも飼料に手を付けたのでは、冬に飼料が足らなくなってしまうかもしれなかった。



「放牧するとしたら、誰か見張りを付けてやるか、羊飼いに銃を貸し与えるかしなければならないでしょうね。」


 パスカルは仕事のできる男だが、こと戦事いくさごとに関してはセンスが無かった。


「馬鹿言え、素人に銃持たせたところでダイアウルフ相手に役に立つもんかよぉ。」


「では武装した見張りを?」


「何人割かなきゃいけねぇんだよ。

 今、手が足らねぇ事くらいわかんだろぉ?」


「しかし放置するわけにもいきません。

 今はまだ羊と牧羊犬しか被害にあってませんが・・・」


 二人は公的エリアの最奥にあるリクハルドの執務室に入った。


「分かってる、皆まで言うな。」


 リクハルドはそう言うと自分の椅子に腰かけた。

 パスカルはその対面にスッと立ってリクハルドの次の言葉を待つ。


「いずれは狩らにゃならん。

 だが今はダメだ。せめて死体の処理が終わるまではな。

 ひとまずヤルマリ川付近には誰も行かせない様にしろ。」

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