第104話 ダイアウルフ

統一歴九十九年四月十二日、午後 - リクハルドヘイム/アルトリウシア



 ファンニは農家の娘で今年で九歳になるブッカである。

 ゴブリン系種族であるブッカはヒトより成長が早く、ヒトならば十二歳ぐらいに相当する年頃だが、ヒトよりは小柄なブッカの彼女の身長はようやく三ペス半(約百五センチ)を超えたぐらいだ。ちなみに成人ブッカの平均身長はホブゴブリンと同じくらいで男性の場合は五ペス(約百五十四センチ)で女性の場合はだいたい四ペス半(約百三十九センチ)ぐらいである。


 この世界ヴァーチャリアでは子供も大事な労働力である。勉学ももちろん大事だが、ファンニくらいにもなれば家の仕事を手伝うくらいは当たり前だった。

 一般庶民の子弟が義務的に通う学校教育というような制度は無いが、レーマ帝国の諸都市では辻々つじつじで子供を集めて読み書きや計算を教える青空教室のようなものがある。このため、庶民の間でも識字率は高くアルトリウシアでは七割を超えている。貴族階級では十割近い。

 《陶片テスタチェウス》で生まれ育ったファンニも青空教室で読み書きや計算を習ったから、ラテン語の読み書きと整数の四則計算ぐらいは出来るようになっていた。農家の娘としては勉学はそろそろ十分だろうと思われているのか、最近では青空教室で勉強する日よりも家の仕事を手伝う日の方がずっと多くなってきている。


 ファンニが羊を連れて《陶片》の外に出るのは四日ぶりのことだった。

 一昨日は戦があり、その前の日は戦の準備で、昨日は片付けがあるからということで、放牧が禁止されていたせいだ。この三日間は《陶片》周辺の放牧地のあちこちに罠が仕掛けられていたための処置だった。

 まあ、それらの罠は結果的に無駄に終わったわけだが。


 今は何もなくなり、安全になった放牧地に羊を放ち、草をませている。

 羊を見ている以外特にすることは何もないが、だからと言って腰を下ろすことは出来ない。ここら一帯は水けが悪いというか、湧き水が多く、常に地面がぬかるんでいるからだ。

 おかげで野菜や穀物といった農作物は植えても根腐れして育たない。

 それでも一応、草は生えるのでこうして羊を放って草を食べさせているが、歩くたびにビチャビチャと湿った足音がする。一見乾いて見える草でも、踏みつけると潰れた草の下から水が染み出てくるのだ。

 こんなところに腰を下ろしたら、着ている服も下着もお尻も濡れてしまう。だから、ずっと立ちっぱなしでいるしかない。


 退屈。みんなどうしてるかな・・・?



 大人たちは皆、海軍基地城下町カナバエ・カストルム・ナヴァリアの片付けか《陶片》へ逃げてきた人たちのお世話に駆り出されている。よくわからないが大変らしい。ファンニみたいな女の子が一人で羊の番なんかさせられるくらいなんだから大変なんだろう。

 まあ、リクハルドヘイムは狼などの危険な獣も出ないし、マニウス街道やマニウス街道と《陶片》を繋ぐ『巽門』街道ウィア・タツミモンは人通りが多いので、それらの街道とヤルマリ川に囲われたこの放牧地に、羊やファンニを襲おうとする犯罪者がやってくる恐れも無いと考えられるので問題も無いのだが。


 退屈だ、川の方へ行ってみようかな・・・。


 ファンニは行ったことは無いがヤルマリ川を越えればアイゼンファウスト地区で、向こうもたくさん被害が出たらしい。以前は家が沢山並んでいた筈の場所が真っ黒な荒地になっている。

 しかし、ヤルマリ川よりこっち側は以前と同じで何も変わってない。川の側には背の高い草が沢山生えている。

 対して、ファンニが今いる場所は背の低い草がほんの数種類生えているだけだ。


 羊だってきっといろんな草食べたいよね。


 今居る場所からヤルマリ川まで見渡せるし、《陶片》も街道も見渡せる。なら、川岸まで行っても大丈夫だろうと判断したファンニはちょっと川まで行ってみる事にした。

 もうお昼は過ぎてるけど、あの距離なら行っても直ぐに戻ってくれば日が傾く前に《陶片》へ戻れるはずだ。



 川のそばの背の高い草の生えた場所まで半時間とちょっと・・・かかっただろうか。

 ファンニのおかげで普段あまり食べない草にありつけた羊たちは随分喜んでいるように見えた。まあ半分以上は枯れてるか枯れかけた草ばかりだったが、遠目には見えなかった蔓草つるくさなんかもあって、羊たちはがっつくように食べ始めた。

 もっとも、その勢いも短時間で衰えてしまう。はやり枯草は味気ないようだ。

 物珍しさが失われれば、不味い枯草に魅力は無い。干して発酵でもさせてあればまた別なのだろうが、ただ立ち枯れているだけの草は繊維ばかりで味が弱いのだ。中には早くも地面に生えている背の低い草に食指を戻す羊も現れ始めた。


「もう戻ろっか」


 失敗だったかもしれないと素直に認めたファンニは鈴を鳴らし、牧羊犬に命じて羊たちを連れて歩き始めた。

 日が暮れる前に羊小屋に羊たちを戻し、家に帰らねばならない。


 さっきまで羊たちが草を食んでいたやぶから十ピルム(約十八メートル半)ほども離れただろうかというところで、ガサガサッと音がした。


「!?」


 ファンニは思わず立ち止まり、音がした方を見るが何もいない。

 すると今度は別の方向からガサガサッと音がした。

 背の高い草が揺れている。


「何?」


 牧羊犬のカルロがファンニのそばまで駆けよると、藪に向かって唸り始めた。

 羊たちは一塊になって藪を見つめている。

 今度はまた全く別のところで草が揺れガサガサッと音がした。


「誰?誰かいるの!?」


 ファンニが大きい声を出して訊いてみるが、返事はない。

 牧羊犬カルロは相変わらず藪を睨んで唸っているが尻尾を丸めている。


 何かいる、何かは分からないけど、藪の中に隠れている。


 ファンニはクルークを両手で構えた。


 また別の方向で草が揺れ、ガサガサッと音がする。

 ファンニは思わずヒッと小さく声を漏らしそっちを見るが、やはり何物も見えない。

 牧羊犬カルロは尻尾を丸めて藪の方へ唸りながら、身体をファンニに押し付けてきた。胸の横あたりでファンニの身体をグイグイと押す様に。


「何、カルロ?逃げろっていうの?」


 ファンニが戸惑っているとそのうち牧羊犬カルロが激しく吠え出す。


 どうしよう、どうしたらいいんだろう?


 ファンニは何をどうしていいか分からず、ジリジリと後退あとずさりし始めた。

 牧羊犬カルロはその場にとどまって吠え続けていたが、ファンニがある程度離れるとサッと駆け寄って再びファンニの前で盾となって立ちはだかるように身構え吠え始める。

 その間も間欠的に草がガサガサと音を立てて揺れた。


 何かが藪の中に、あるいは向こうに、潜んでこっちの様子をうかがっている。

 そいつはだ。


 ファンニは油断なくクルークを構えて藪の方を警戒しつつ、牧羊犬カルロに守られながら後退を続けた。

 気づけば、藪でガサガサと音が鳴るのは止んでいた。距離もだいぶ空いている。


 もう大丈夫?


 そう思って振り返った時、そこに奴はいた。


「!!!!」


 それは馬のような巨体を持った狼、ダイアウルフ!!

 藪の向こうで音を立ててファンニと牧羊犬カルロの注意を藪に惹き付け、その間に気配を消して風下から背後へ回り込んでいたのだ。

 ファンニに見つかったと気づいたダイアウルフは姿勢を低くした忍び足スニーク態勢を解いて猛然と襲い掛かる。


「カルロ!」


 ファンニが叫ぶと牧羊犬カルロはダイアウルフに向けて吠えながら駆けだした。

 しかし、相手は一頭とは言えイヌ科最大最強のダイアウルフ、その図体は小型の馬と同じくらいあり、背中に人間だって乗せて走れるほど大きいのだ。突進して体当たりすれば、大柄なコボルトだって突き倒すほどの力がある。牧羊犬ごときが叶う相手では無かった。


「ギャンっ!!」


 勇敢な牧羊犬は無謀にもダイアウルフと羊たちの間に立ちふさがり、そして盛大にね飛ばされた。


「カルロ!!!!」


 六ピルムは離れていた場所から弾き飛ばされた牧羊犬カルロが宙を舞い、ファンニのすぐ目の前にドサリと落ちる。


「カルロ!カルロぉ!!!」


 ファンニは牧羊犬の名を呼びながら駆け寄り、跪いて覗き込んだ。死んではいないが息も絶え絶えで、声も碌に出せないようだ。ファンニが撫でると弱々しく尻尾を振り、甘えるように鼻を鳴らす。


「カルロ、ごめんなさい。カルロ」


 羊たちのメエメエ鳴く声が極大し、ファンニの前を群れごとさっと逃げるように横切る。

 そのあまりの近い足音と羊の鳴き声に驚き、ファンニが立ち上がると羊たちの群れの向こうで、ダイアウルフが一頭の子羊を咥えていた。その子羊はもう死んでいる。


「!」


 ファンニはグッとダイアウルフを睨むと、胸に下げていた角笛を掴んで思いっきり吹いた。

 緊急事態を告げる角笛は高く、三回連続で鳴り響く。


 ダイアウルフは一種ビクっとしてファンニの方を見た。

 ファンニはダイアウルフを睨みつけたまま再び三回連続で角笛を吹き鳴らす。


 しばらく周囲の様子を窺っていたダイアウルフはしかし、新たな敵が現れないと判断すると羊を咥えたまま悠然と歩き始め、藪の向こうへと姿を消した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る