第103話 迎え船

統一歴九十九年四月十二日、昼 - ナグルファル船上/アルトリウシア湾



 セーヘイムはハン支援軍アウクシリア・ハンによる直接的な被害を受けなかった事もあって、早くも事件以前の日常を取り戻しつつあった。

 もちろん、すべてがそのままという訳ではない。

 セーヘイムの住人の多くは家族や親戚の誰かが海軍基地カストルム・ナヴァリアやその城下町カナバエで生活しており、そこには死者行方不明者が多く含まれている。家族や親戚のうちの誰かの安否が分からないままになっている住民が殆どだ。


 現時点でリクハルドヘイムの郷士ドゥーチェリクハルドによって数千人の避難民が《陶片テスタチェウス》に保護されているという情報だけが入ってきており、住民たちの多くはそこに希望を見出していた。

 ただ、大火災に見舞われた城下町の片付け(特に死体の収容と埋葬)が目下最優先で行われており、海軍関係者や城下町住民の多くが自らそうした作業へ身を投じており、生存者の身元確認や集計が後回しになっている事もあって今誰が生き残っていて誰が死んだかといった詳報はリクハルドもまだ取りまとめていないような状態だった。

 それでも被災地の後片付けで役に立てそうにないと判断した者たちの中から家族や親戚を頼ってセーヘイムへ戻る者が昨日夕方ごろから増え始めており、その中には他の生存者たちから手紙を託されている者も少なからずいた。セーヘイムの住人たちは彼らがもたらす情報に、手紙に、一喜一憂しながら自分たちの仕事へと打ち込んだ。


 セーヘイムはアルトリウシアの台所。セーヘイムが止まれば、せっかく生き残った避難民たちも飢えて死ぬことになるのだ。

 生き残ったアルトリウシアの住民たちのためにも、まだ安否の分からない家族や親戚のためにも、今は目の前の仕事をしなければならない。


 あの子はきっと生きている。

 夫はきっと生きている。

 父はきっと生きている。

 兄はきっと生きている、

 弟はきっと生きている。

 姉はきっと生きている、

 妹はきっと生きている。

 あいつは死ぬような奴じゃない、きっとケロッとした顔してまた戻って来る。


 瞼の裏に近しい者たちの顔を思い浮かべ、その者のためにこそ今自分が働かねばならないのだと自分に言い聞かせ、人々は安否不明者を探しに行きたい衝動を抑え、あえて目の前の仕事に集中し続けたのだった。


 今朝からは本格的に漁も再開している。

 昨日の捕鯨母船『ヒュロッキンホルニ』号による偵察の結果を受け、今朝から漁が全面解禁されたからだ。

 アルトリウシア湾内に『バランベル』号は居ない。おそらく夜の内に湾外に出たのだろう。

 湾内に留まっていたなら危険だが、湾外に出たのなら仮に戻ってきたとしても被害は生じないだろうと思われた。

 湾内東側で操業する漁船は革船コラクルなど足の遅い小舟が多いが、湾内中央部より西側で操業する漁船はそれなりに足の速い船ばかりだ。鈍重な『バランベル』号が相手なら、見つけ次第逃げ出せば追いつかれることは無い。『バランベル』号は帆柱マストも一本失っている筈だから、帆走したとしても逃げ切れる。



 以上のような理由から、ティトゥス要塞とその城下町、そしてアンブースティア地区では今日から新鮮な魚介を食べる事ができるようになっていた。

 表面上だけは以前の活況を取り戻したセーヘイムからは今、湾内で操業する漁船以外の船たちも続々と出港して行く。昨日足止めをくらっていた交易船や湾外で操業する漁船などである。

 いずれもアルトリウシア湾口北側のトゥーレ岬東岸にある船着き場トゥーレスタッドで夜を明かし、漁船は翌朝未明に出航してアーレ岬沖で操業して帰ってくるが、交易船たちはそのまま北上してナンチンやサウマンディウムへ向かう事になる。

 そうしたアルトリウシア湾口を目指す船の中に一隻の巨船が混じっていた。アルトリウシア艦隊旗艦『ナグルファル』号である。


 今日のアルトリウシア湾上空を覆う雲はまだら模様で陽光と小雨とが同時に、あるいは交互に降り注いでいるが風も波も穏やかだ。

 空気は重く湿っているくせに、降り注ぐ雨粒が陽光を反射するせいで妙にキラキラ輝いて見えるアルトリウシア湾を突き進む『ナグルファル』号は他の漁船や交易船と違って、直接アーレ岬沖まで進む予定になっている。

 そこで今日帰ってくる予定の『グリームニル』号や『スノッリ』号、そして一緒に来るはずのサウマンディア艦隊と合流し、サウマンディアの船に水先案内人を移乗させてからセーヘイムまで先導するのだ。



 船首楼せんしゅろうの上では前方を見つめる船長プリンケプスのサムエルの脇で、パーヴァリが櫂のリズムを合わせるための太鼓を叩き続けていた。


「ホントに『バランベル』号のヤツぁいなくなっちまってんだなぁ」


 トゥーレ水道(トゥーレ岬とエッケ島の間の水路でアルトリウシア湾の出入口)の様子がはっきり見えるところまできて、サムエルは独りちた。


「ああ?当たり前だろサムエル、俺たちを信用してねぇの?」


「いや、疑ったわけじゃねえよパーヴァリ。

 『バランベル』の帆柱や帆桁ヤードだって見せてもらったしさ。」


 昨日、『バランベル』号捜索に出た『ヒュロッキンホルニ』号は『バランベル』号を見つけることは出来なかったが、『バランベル』号の物と思われる漂流物を回収し、セーヘイムに持ち帰っていた。

 それらは今もセーヘイムの浜辺に引き揚げられたまま放置されている。


「じゃあ何だってんだい?」


「いや何、あれだけ見事に座礁させたってのに、あいつらハン族はどうやって逃げたのかなって思ってさ。」


 サムエルの予想ではそのまま身動きできなくなった『バランベル』号の船上で、ハン族は攻撃も逃亡もできないまま飢えて最終的に降伏するだろうと思われていた。

 実際、結構な勢いで浅瀬に乗り上げていたし、あの図体であの勢いなら船体に穴が開くほどではないとしても、継ぎ目から浸水が始まっててもおかしくはない。

 既に浅瀬に乗り上げた状態だから沈没する事は無いだろうが、かといって船はもう動かないしゴブリンたちは泳げない。水も食料も手に入らないまま船内の備蓄を食いつぶすまでのわずかの間放置すれば、いくらオツムの弱い彼らでも冷静になるしかなくなる。


 あの時引き連れていた貨物船クナールに便乗して脱出するという方法も無くはないと思うが、どこまで逃げるつもりかはわからないが貨物船七隻に逃亡先までの水と食料を積むことを考えると、乗せられるのは王族とわずかな取り巻きの貴族連中・・・ハン族のホブゴブリンぐらいに限られるだろう。ハン族の大部分を占めるゴブリン兵は置いて行かざるを得ない。



 あれで詰みチェックメイトだと思ったんだがな・・・。


 サムエルは自分の詰めの甘さを反省していたのだ。楽観的過ぎたかもしれないと。


「夜中に潮が満ちた時に脱出できたんじゃねーの?

 知らんけどよ。」


「まあ、そうなんだろうな。

 うん、それしか考えられん。」


「まあ、考えてもしゃあねえよ。

 どうせあいつらハン族船のことも海の事も分かっちゃいねえ。

 遠くへは行けっこねぇさ。

 湾から出て北へ行ったか南へ行ったかわかんねぇが、案外近ぇところに隠れてんじゃねぇの?」


 脱出したハン支援軍がどこへ行ったかは確かに謎だった。

 西へまっすぐ行くことは考えられない。そっちは何もない大南洋オケアヌス・メリディアヌムで対岸は敬典宗教諸国連合の領域だが、ガレアス船に過ぎない『バランベル』号では大南洋を横断できるほどの航洋性もないし、ハン族はそれをできるだけの航海術も持っていない。

 となると北か南に行くしか無いのだが、北へ行けばレーマ帝国の領域であるサウマンディアかチューアのいずれかを通らねばならない。わざわざ捕まりに行くようなものだ。

 南へ行けば南蛮サウマンの領域で帝国の追っ手はかからないかもしれないが、アルトリウスの嫁コトの実家であるアリスイ氏族の領域が広がっている。

 コトが嫁入りして以降、アルトリウシウス子爵家とアリスイ氏族は良好な関係を保っているし、それより何よりハン族にとってアリスイ氏族は不倶戴天の敵だった。

 かつてハン支援軍はレーマ帝国の支配から逃げようと企て、アルトリウシアの南に広がる平原に演習と称して勝手に居座った。そしてうっかりアリスイ氏族の領域に踏み入ってしまい、夜襲を受けて一夜にして壊滅的打撃を被ったのだ。



「いずれ探しに行けってお達しが出るかもな。」


 行くとしたら南だろう。エッケ島とアリスイ氏族の領域の丁度中間地点に二年ほど前まで海賊が拠点を置いていた群島があるからだ。

 おそらく自分たち好みの草原を求めて出て行ったであろうハン族が、草原とは環境の異なる群島に拠点を置くとは思えないが、アルトリウシア湾の外で彼らが行ける範囲にある隠れられる場所としたら、そこぐらいしか考えられない。


「やだねぇ、どうせ生き延びられやしねぇのに・・・ほっといて野垂れ死なせちまえば楽だろうによ。」


「そういう訳にもいかんさ。

 あいつらハン族結構な人数をさらって行っちまったんだ。」


「ああ?

 人が攫われたって噂、アレ本当だったのかよ!?」


「そうじゃなきゃ、あいつらハン支援軍だけで『バランベル』号を動かせるわけ無えだろ?」


 ハン支援軍による拉致について、詳細な公式発表はまだ無かった。実態が掴み切れていないのが理由である。

 ゴブリン兵によって多くの住民たちが攫われたことを海軍基地城下町カナバエ・カストルム・ナヴァリアから脱出してきた住民や水兵たちが目撃していたのだが、現場の混乱やその後の大火災のせいで実際にどれくらいの人数が攫われたのか確認できなくなっていた。

 死者行方不明者の集計さえ済んでいない状態では、推測さえおぼつかない。



「少なく見積もっても百人以上、下手したら三百人ほども攫われたかもしれない。」


「マジかよサムエル、三百人だって!?」


「『バランベル』号の櫂はたしか百四十本だ。

 櫂一本動かすのに二人要るとすれば、二百八十人は必要になる。

 実際に使ってた櫂は下の段だけだったから半分ほどだとしても、百二十から百四十人程度は攫われてると見た方が良い。」


「こ、漕ぎ手が全部攫われた人間だとは限んねぇだろ?

 ゴブリン兵だっているんだしさ。」


「漕ぎ手が逃げださねぇように見張る都合とか考えろよ。

 足らない分をゴブリン兵で補うくらいなら、櫂の数を減らした方が良い。

 それより、太鼓!」


 パーヴァリはサムエルの予想にショックを受けたのか、太鼓を叩くのをいつの間にかやめてしまっていた。


「お、おお、悪ぃ」


「いや、いいさ。ここらで待とう。停船させてくれ。」


 『ナグルファル』号は既にトゥーレ水道を抜けており、その巨大な船体をうねるような波に揉まれ始めていた。

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