第90話 虎穴に入る

統一歴九十九年四月十一日、朝 - セーヘイム/アルトリウシア



 セーヘイムはいつものこの時間なら朝の漁から帰ってきた漁師たちが漁船と漁具の片付けで騒がしくしている筈の船着き場は人もまばらで、これから行商へ行こうとしている魚売り達も用意しているのは普段のようなその日獲れたての鮮魚などではなく燻製や干物などの昨日以前に獲れた海産物ばかりだった。

 昨日のハン支援軍アウクシリア・ハンの叛乱事件後の『バランベル』号の消息が不明なままであるため、昨日からの出漁禁止が解かれていなかったからである。


 それでも船着き場の漁師たちが皆無では無いのは、何かあってもすぐ帰って来れる近場や河口付近で自分たちが食べる分だけの漁をする者たちがいたのと、あとは習慣的にどうしてもいつも通りに行動しないと落ち着かない者たちが何をするでもなく船の周辺をうろついているからだった。


 そんな彼らの見守る中で捕鯨母船『ヒュロッキンホルニ』号が『バランベル』号捜索のため出港していくのと入れ替わるように、ティトゥス要塞カストルム・ティティ方面から一台の臚車ろしゃがセーヘイムに入って来てそのままヘルマンニ邸へ向かった。



 馬車等駄獣によって牽引される旅客車両は税金が高く、普通の一般人は荷馬車は持っていても人が乗るための馬車は持っていない。持っているのは税金を受け取る側である上級貴族パトリキか財力のある豪商か、免税特権を持った特権階級だけである。

 アルトリウシアの場合ならそれはアルビオンニア侯爵家かアルトリウシア子爵家か、軍団幕僚トリブヌス・ミリトゥム、御用商人、そして免税特権を有する高位の神官等に限られていた。

 彼らの乗る馬車は家族や客人を乗せるため四人乗り以上のキャビンを備えているのが常であり、今しがたセーヘイムへやってきたような一頭だての二人乗り二輪車カブリオレみたいな小さい車を乗り回している酔狂な人物はアルトリウシアでは一人しかいなかった。ルクレティアである。


 父のルクレティウスがアルビオンニウムに居た頃、あちこちに仕事で行くときに便利がいいからと使っていたものをルクレティアが引き継いだものだった。実際、小さくて取り回しが楽であり、驢馬ろば一頭でけるので気に入っている。



「ロシウ、ここで大人しく待っててね。」


 広場からちょっとだけ高くなっているなだらかな丘の上に建つヘルマンニ邸の入り口付近の邪魔にならないところに臚車を停めたルクレティアは、敷地を囲う柵に驢馬を繋ぐと玄関へと急いだ。


 ヘルマンニの家は東西に十二ピルム(約二十二メートル)、南北四ピルム(約七メートル半)ほどもあるセーヘイムでもっとも大きな家だ。腰折れ屋根ギャンブレル・ルーフに似た巨大な屋根を持ち、屋根の頂点は二ピルム(約三・七メートル)ほども高さがあるが内部は平屋だ。南北の壁は低く高さが一ピルム(約百八十五センチ)も無い。

 ヘルマンニに限らずセーヘイムのブッカの家は大小の差はあれど、だいたいこのような特徴ある形状をしている。


 屋根は腰折れ屋根のようだが実態としては船首と船尾を切り取った船体をひっくり返したような、なだらかに湾曲した面で構成される巨大な屋根だ。実際、屋根部分は船と同じ構造をしていて同じ要領で作られる。

 船の肋材リブのように外側に向かって湾曲した樽木たるきを二本一対で組み合わせて並べていき、その頂点に船の竜骨キールのように棟木むなぎを乗せるように組み合わせる。そして棟木に沿うよう樽木の上に鎧張り構造クリンカービルドの要領で屋根板を少しずつ重ねながら張っていく工法はヴァイキング船と全く同じだ。隙間には「」を詰め、さらに上から全体にタールを塗り掛けて防水している。

 タールは定期的に重ね塗りしていくのだが、最近はタールの塗りなおしの必要のないことから、スレートや焼き瓦などの屋根材を張り付けるのが流行り始めている。


 このような構造の住居が普及しているのはもともとブッカたちがこの地に流れ着いた時、彼らの中にいた大工と言えば船大工ばかりだったことが最大の原因だろう。

 自分たちの造船技術を継承するために都合が良かったし、結果的にたまに降る大雪や時折吹く強風にも強く、意外と冬暖かく冷えにくい家になった。冬冷えにくいのは内部容積に対する表面積の比が小さいのが理由だろう。


 東に面した正面玄関前に立ったルクレティアは深呼吸を繰り返して気持ちを整える。



 昨日、セーヘイムに上陸したのは仕方の無い事だった。

 海軍基地カストルム・ナヴァリアを失ったアルトリウシアにはセーヘイムの他に『ナグルファル』号が接舷できる船着き場は無い。

 リュウイチの存在と降臨の事実を秘匿するため、ティトゥス要塞から侯爵家の馬車を直接桟橋に乗りつけてもらい、リュウイチが人目に付かないように最大限の努力を払った。しかし、秘匿を徹底するためにはここセーヘイムの情報網のトップに君臨するインニェルとメーリの協力を取りつけねばならない。


 ホントは昨夜のうちに二人に会って話をしなければならなかったが、残念ながら時間をとることができなかった。

 港からティトゥス要塞へ行く前に話をしたかったがクィントゥス達がやたら急いでいて時間を貰えなかったし、要塞内の軍団幕僚トリブヌス・ミリトゥム宿舎プラエトーリウムの一つを与えられている父ルクレティウスの元へ戻って手紙を渡し、ルクレティアが父と話をしている間にエルネスティーネとルキウスはリュウイチを迎えに行ってしまっていた。おかげであの後セーヘイムに戻ってくることすらできなかったのである。


 だからせめて今、出来る事ならヘルマンニやサムエルの口から秘密が漏れる前にこちらから打ち明ける事で信用を得、協力を取りつけねばならない。

 そのために、リュウイチの朝のお世話をルキウスにお願いして無理やり時間を作ってここまで来たのだ。


 いいことルクレティア、昔から言うでしょ、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」って。今日は何としてもインニェルさんとメーリさんを味方につけるのよ。



「あら、お早うございます。」


「ヒッ!」


 覚悟を決めてドアをノックしようとした矢先に背後から声をかけられたルクレティアは飛び上がらんばかりに驚いた。


「イ、インニェルさま、おはようございます。」


「どうなすったの、そんなに驚いて?」


 振り返ったルクレティアの視線の先にはインニェルとメーリが呆れたような驚いたような顔をして立っていた。

 彼女たちは偵察を命じた捕鯨母船『ヒュロッキンホルニ』号の出港を見送り、ちょうど今戻ってきたところで玄関前で深呼吸しているルクレティアを見つけ声をかけたのだった。


「いえ、いきなり後ろから声をかけられたので、ちょっとビックリしちゃって。」


「そう、それはごめんなさい?

 それにしても、こんな時間から珍しいですね。

 ウチの人ヘルマンニに何か急ぎの御用かしら?」


「いえ、ヘルマンニ様とサムエル様はいらっしゃいますか?」


 「いえ」と否定しながらヘルマンニとサムエルの在宅を確認するとはどういうことだろうか?未だ混乱から立ち直れていないのか、ルクレティアは自分の言動がいささか不審なものになっている事に気付いていない。


「生憎と二人ともまだ寝てますわ。

 酷い二日酔いで・・・叩き起こしましょうか?」


 よし、間に合った!と、心の中でガッツポーズをするルクレティア。


「いえっ!大丈夫です!!

 今日はその・・・インニェル様とメーリ様に御相談がありまして。」


 さも意外そうにインニェルとメーリは目を丸くすると、お互いの顔を見合わせた。


「あら、私たちに?」


「はい、ちょっと折り入って御協力いただきたい事がございまして、お伺いした次第です。」


 いかにも恐縮している様子のルクレティアを数秒黙ったまま見つめたインニェルはかすかに悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「まあ、私たちにの御力になれる事なんてあるのでしょうか?

 ひょっとして夕べの・・・名前の頭に『リュ』の付く高貴な高貴な御客人のことかしら?」


 早速ばれてる!!!!!

 しかも普段はルクレティアと呼ぶのに今朝に限って「スパルタカシア様」だなんて既に距離を置かれちゃってる!?

 何を知ってるの?どこまで知ってるの?誰から聞いたの?

 それよりもこの二人はこのことを既に誰かにしゃべっちゃったの?

 まだ間に合うの!?


 ちょっとカマをかけただけで顔に笑顔を張り付けたまま見る間に青くなっていくルクレティアを見て、この子も不器用ねと二人は半ば呆れ、半ば面白がった。


お義母さまインニェル、ここでは何ですし中にお入りいただいてはいかがでしょうか?」


「それもそうね、メーリ。

 どうぞ中へ、落ち着いて話しましょう、

 安心なさい、ウチの人ヘルマンニの事なら出来る限りのことはさせていただきますわ。」

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