第89話 一人きりの食卓

統一歴九十九年四月十一日、朝 - ティトゥス要塞内子爵邸/アルトリウシア



 ゴブリンにもその亜種たるホブゴブリンやブッカにもコボルトにも髪の毛はある。ただ、男でも女でもだいたい一ぺス(約三十センチ)ぐらいまでしか伸びない。

 アルトリウシア子爵夫人アンティスティア・ラベリア・アヴァロニア・アルトリウシアのまるで頭がもう一つ乗っているかのように大きく盛り上げられた髪の毛は勿論カツラである。

 朝から専属美容師オルナートリクスが奴隷二人に手伝わせながら半時間もの時間をかけ、彼女アンティスティアの自毛とカツラを編み合わせて違和感なく盛り上げた髪型は彼女たちが研鑽けんさんを重ね続けたヘアスタイル研究の集大成とでも言うべきものだった。


 衣装も負けてはいない。

 肩口の黒から裾に行くにしたがい明るい青へとグラデーションを描くシルク製のストラをまとい、胸のすぐ下で濃紺の生地に水色の糸で刺繍を施された帯紐タエニアで締めてストラの裾に緻密にドレープを波打たせると、それはシルクの光沢と合わさってまるで紺碧の海をそのまま衣装にしてまとっているかのようだ。

 そして上から淡い薄紫色の生地に無数の小さな花模様を散らす様に染め上げた南蛮製のパルラを羽織っている。

 ストラの裾からわずかに覗く足元のサンダルは漆黒の革製だが、艶やめくほどきれいに磨き抜かれていて、足の甲の真ん中あたりに純白の真珠が一粒ずつ、しとやかにかがやきを放っている。


 きらびやかな宝飾品をこれでもかと飾り付けるような悪趣味な真似こそしてはいないものの、今アルビオンニアで彼女以上に貴族らしく着飾る女性は他に存在しないだろう。

 日の出と共に起き出して以来、総勢八名の使用人が一時間あまりをかけてバッチリと着飾った彼女が食堂に姿を現した時、そこにいる筈のルキウスの姿は無かった。



「・・・子爵ルキウスはどうなされたの?

 朝食イエンタークルムを御摂りになられないのかしら?」


「客間にて御客様と御一緒に御摂りになっておいでです。」


「御客様?」


 レーマでは家族だけでの食事や、何か特別なイベントの際は男女で食事を共にするが、そうではない場合は男女別々に食卓を囲う習慣がある。

 客人がいるとなれば夫婦でも食卓が分かれるのは仕方ないにしても、彼女は昨夜の夕食も一人だった。ルキウスは夜遅くなるまで帰ってこなかったのだ。

 そうと知っていれば彼女は彼女で同性の客人を招いて誰かと夕食を共にしたかったが、あいにくと昨日はハン支援軍アウクシリア・ハンの叛乱という事件のせいで誰も招待できなかったのだ。


 レーマでは一人で食事をするのは恥とされている。一般人でもだ。ましてや裕福な貴族となればなおさらである。

 金持ちなら表に出て誰か適当に声をかければ、必ず誰かが御相伴ごしょうばんにあずかろうと応じるのが普通だ。実際、他人に食事を御馳走するくらい苦にならない程度に財力のある富裕層なら、誰からも招待されない日は誰かを・・・それこそ知人が見付からなければ通りすがりの赤の他人でも・・・招待して一緒に食卓を囲むものなのだ。

 そして、そのように見知らぬ人と食事を共にしながら見知らぬ世界の話を聞いて見分を広めるのがレーマの文化人の間ではいきな振る舞いとされ、ある種のステータスにもなっている。そうやって見知らぬ客人から集めた話をまとめた本が時折ベストセラーになることすらあるのだ。

 それなのに一人で食事をするという事は、誰からも招待してもらえない、招待しても誰も来てくれない寂しい奴か、あるいは金がある癖に使わないドケチということになってしまう。


 下級貴族ノビレスですらない家柄の出身で上級貴族パトリキの家に嫁ぎ、誰よりも貴族たらんとしている彼女にとって、一人きりの食事なんてものは実に屈辱的な事だった。

 思わずパルラの裾をキュッと握りしめてしまうが、アンティスティアは努めて平静を保ちながら再び侍女に尋ねた。


「そう、なら仕方ないわね。

 ・・・その、御客様とはどなたかしら?」


「申し訳ありません奥様、我々は聞かされておりません、」


「どういう方かも、わからないのですか?」


「生憎と厳重に人払いが徹底されており、私共は近づく事もできませんので」


 申し訳なさそうに答える侍女だったが、その言葉にアンティスティアは驚きを隠せなかった。


「人払い?では、誰が御客様の御世話をなさっているの?」


 客人自身が使用人を引き連れてきていて、身の回りの世話をさせているというのならわかるが、そのような大勢の人が来ているような気配はまるでない。だが、当家の使用人が近づけないとなれば、誰も世話をしていないという事になる。

 だとすれば大問題だ。客人を招き入れながら碌に世話もしなかったなどという話が広まりでもすれば、貴族としての体面が保てない。


おそれながら、どうやらスパルタカシアルクレティア様と子爵ルキウス様御自らがなさっておいでのようです。」


スパルタカシアルクレティア様と子爵ルキウスが御自らですって!?」


「は、はい。」


 ルクレティアは権勢こそ衰え、勢力も財力も下級貴族並しかないとはいえ降臨者スパルタカスの血を引く聖貴族であり、家格だけで見ればアヴァロニア・アルトリウシア家など比べ物にならない血統である。そのルクレティアと子爵であるルキウスが自ら世話をしているとなると、相当高貴な人物ということになる。


 そんな高貴な賓客ひんきゃくを招いているというのにアンティスティアには何も知らされていない!?


 何かが崩れていくような頭がぐらぐらと揺すられるような感覚に襲われ、目の前が急激に暗くなる。


「奥様!」


 侍女の声が聞こえ、誰かが身体を掴むような感覚がした。

 気が付くと侍女がすぐそばに居り、彼女は侍女に完全に寄りかかっていた。倒れそうになったところを支えてもらったらしい。


「ご、ごめんなさい。もう大丈夫よ。」


 アンティスティアはそう言うと足に力を入れて一人の力で立った。侍女は尚も心配そうではあったが、アンティスティアから手を離すと皺が寄ってしまった衣装のドレープを再び整えはじめた。


 ドレープを整え終えた侍女が一歩下がり、お辞儀をするとアンティスティアは小さくお礼を言って食卓に付いた。

 だが、気持ちはまだ収まらない。



 夫婦仲は確かにいいとは言えない。その自覚はある。

 卑しい平民の出自だからだろうか?まだ先妻に及ばないところがあるのだろうか?いつまでも子供ができないせいだろうか?

 高貴な出自の歳の離れた夫に少しでも近づけるように、その隣に立つ妻としてふさわしい女になるように、これまで不断の努力を重ねてきたつもりだ。言葉遣いも立ち居振る舞いも必死で直したし、こうして身だしなみにも最大限気を使っている。

 なのに、ルキウスは一向に心を開いてくれない。

 ルキウスはどこかいつもよそよそしく、常に距離を置かれてしまう。新婚当時の方が二人の距離はずっと近かったんじゃないかと思う。

 近頃は特にそれが顕著になった気がする。そう、ルキウスが子爵になってからというもの、二人の間に大きな溝が出来てしまっているようだ。

 何か気に入らないところでもあるのだろうか?あれば言って欲しい。あの人ルキウスとの距離を縮めたい。なのにどんどん距離を置かれるようだ。



 よりにもよって、大事な賓客に紹介しても貰えず、それどころか来客があった事すら教えても貰えないなんて・・・。


 ルキウスは酷い腰痛持ちで、ホントは立ち歩くだけで辛い筈なのだ。それでも大事な賓客の世話を自らしている。それなのに妻である自分はこれだけ豪華に着飾りながら、一人寂しく食卓に向かっている。


 アンティスティアは何なの?

 あの人ルキウスの妻じゃないの?


 自分がみじめで仕方なかった。

 やるせない気持ちがこみあげて来てどうしようもない。

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