第92話 利益代表
統一歴九十九年四月十一日、朝 - ティトゥス要塞/アルトリウシア
小麦粥が作られているのはパンほど手間がかからない事と製粉機やパン焼き窯が不足している事、そして野菜や乳製品等を混ぜることで一品でも栄養バランスを確保できる事などが理由となっている。多くの避難民は着の身着のままで逃げて来ていて食器類が絶対的に不足しているため、一つの皿で全部をよそえるメニューであることも求められていた。
実際、作られた小麦粥の中には刻んだ野菜やチーズ、魚や貝やベーコンなどもゴチャゴチャ入っている。具沢山というわけではないが、具の種類だけは多い。
使われる小麦も製粉せずに粒のままフスマごと粥にしているので、見た目や味や臭いはともかく栄養価は高いといえるだろう。
侯爵夫人らしからぬエプロンドレス姿で配給場で働くエルネスティーネのもとに衛兵隊長のゲオルグが現れたのは、避難民の行列がピークを過ぎて配給場の雰囲気が落ち着きを取り戻し始めたころの事だった。
老兵はいつも通りビシッと見事に制服を着こなしていたが、その態度はいつもと違ってどこか少し縮こまったような雰囲気を漂わせていた。
「奥様、申し訳ありませんが少しお時間を頂いてよろしいでしょうか?」
普段、高圧的な物言いをする軍人がこうした丁寧にへりくだった態度を取った時、じゃあ断ってもいいんだなと判断してしまうのは危険である。特に有能で自らの判断で様々な物事を処理してきた人物がこういう態度をとってくるという事は、当人の処理能力の及ばない・・・つまり深刻な問題が発生している事を暗示している。
ましてやそれが軍人であるならば、その問題はほぼ間違いなく安全保障に関係するのだから
エルネスティーネは使いまわすために洗っていた皿を水桶に戻し、手を拭いた。
「何かあったのですか?」
「は、申し訳ありません。ここではちょっと・・・」
ゲオルグの顔には憂慮の念が浮かんでいる。エルネスティーネは隣で洗い物をしていた女性に「少し失礼します」と一声かけて配給場を離れた。
エルネスティーネが案内されたのは要塞司令部内にある一室だった。普段使われておらず、テーブルと椅子だけが置かれているだけで、応接や面談に使われる簡素な部屋だった。
部屋の中にはゲオルグのと同じ制服を着た衛兵が一人おり、エルネスティーネが入室すると椅子から立ち上がって姿勢を正し、挨拶をした。
「お時間を頂き有難うございます、侯爵夫人エルネスティーネ様。
自分は衛兵隊利益代表のヨハンと申します。」
「利益代表ですって!?」
アルビオンニア侯爵家ならびに
しかし敬典宗教諸国連合陣営では彼らは肌の黒さゆえに人間ではなく亜人の一種であるとされ、常に亜人差別の対象でありつづけた。大戦争で彼らの先祖の部隊は常に最も危険な戦場へ送り込まれ、戦争を通じて捕虜になったり過酷な差別からレーマ帝国側へ亡命したりした者も少なくなかった。
そんなレーマ帝国側へ渡った捕虜や亡命者たちがレーマ帝国側で生き残るために結集してできたのが義勇兵団『ランツクネヒト』だった。彼らは後に帝国に正式に認められ
大戦争を通じて勇名を馳せたランツクネヒト支援軍はその功績を認められ、大戦争終結後に帝国版図の最南端にある未開の大地アルビオン島を安住の地として約束された。そして当時の傭兵隊長だったヨハン・ハッセルバッハが新属州アルビオンニアの領主として爵位を賜り、初代アルビオンニア侯爵ヨハン・フォン・アルビオンニアとなして赴任してから属州アルビオンニアの歴史が始まっている。
そんな彼らが《レアル》
《レアル》中世欧州で最強の呼び声高いスイス傭兵は強力で頼りになるが、同時に実に口やかましくて使いにくい戦力であることでも知られていたのだ。
《レアル》
敵の陣地に突撃するのだから突撃一回に付き兵士にいくら払え、敵騎兵突撃の
利益代表との交渉が成立しないと、指揮官や雇用主がどれだけ命令しようが兵士たちは
《レアル》世界の
しかし、
それでも戦う前にイチイチ指揮官が利益代表との話し合いの場を設けていては
しかし、利益代表の習慣そのものは残っているので、そうした事前の取り決めにない事象が発生すると、こうして利益代表が選ばれて領主や指揮官の下へやってくるのである。
「いかなる御用件でしょうか?
要塞内に多くの避難民を収容した事で衛兵隊の皆さんに大きな負担をおかけしていることは承知していますし、衛兵隊の御協力には心から感謝もしています。
しかし、
利益代表という存在について一応聞かされて知ってはいたが、実際に相対した経験のなかったエルネスティーネは若干身構えつつ話を切り出した。
「はい、苦しむ領民を救うため御自ら先頭に立たれる
まさに貴婦人の
そのような
「そのことでは無いのでしたら御用件は一体なんでしょう?」
「我々としても明確に利益を損ねられたという認識は持っていません。
ただ利益が損ねられるのではないかという懸念があり、確認させていただきたいのです。」
「と、申されますと?」
「懸念というのは昨夜のことです。」
利益代表であるヨハンが語ったのは昨夜の
衛兵隊は侯爵家を守るために存在する。侯爵家の人間がどこかへ出かければ当然ながら護衛する。
しかし、侯爵家以外の者を護衛するのであれば、それは正規の任務の対象外であるから、侯爵家の人間を護衛する場合の手当てとは別の手当てが支給されなければならない。
ところが、今回は客人の存在そのものも、二人の領主が客人を迎えにセーヘイムに行った事実さえも秘密にするよう命令されていた。このため、本来払われるべき手当てが支払われないのではないかと言う懸念を衛兵たちが抱いたと言うのだった。
エルネスティーネは一度ゲオルグと顔を見合わせてから、ヨハンと名乗った利益代表に向き直った。
「ヨハンとおっしゃいましたね?
結論から言いましょう。
昨夜の分につきましては、
ヨハンは表情を曇らせた。
「すると、御客人の護衛手当ては支払われないのですか?」
予想通りの反応だった。エルネスティーネは気持ちを整え、言葉を間違わないように慎重に話し始めた。
「あなた方は
「いいえ、子爵閣下は我々とは別に御自身の護衛を引き連れておいででした。」
「その通りです。そして昨夜の御客人も御自身の護衛を引き連れておいででした。」
「あの場には我々の他は子爵閣下の衛兵と
「そのアルトリウシア軍団の軍団兵が御客人の護衛任務についていたのです。
ですから、昨夜の護衛手当ては
ヨハンは何か言いたげではあったがそれっきり口を
外部の貴人の護衛任務、それに夜間手当ても付くとあれば一日分の日当にも相当する結構な額になる。それだけの額が期待されていたにも関わらず空振りに終わったのだから、意気消沈するのも無理はない。
だが規定に反する部分が一つもない以上、そこから更に何かを要求する事はできないのだ。
しばらくエルネスティーネの目をまっすぐ見つめていたヨハンだったが、一言そうですかと小さく言って視線を落とした。
「ですが、昨夜の客人は特別な事情を抱えておいでです。
きわめて重要な理由により秘密は絶対に厳守されねばなりません。
ゆえに、今回だけ特別に秘密保持手当てを支給します。」
「奥様!」
エルネスティーネの思わぬ言葉にゲオルグが驚きの声をあげ、ヨハンはパッと顔をあげる。
「二セステルティウスで良いですか?
御客人は本日
昨日の分で二セステルティウス、そして今日の分で二セステルティウス。合わせて四セステルティウスです。」
それは彼らが期待していた金額にほぼ相当していた。もう一度マニウス要塞まで護送する事を考えると期待値の半分でしかないのだが、それでもヨハンが同僚のもとへ戻って説明する際に恥ずかしい思いをしなくて済むだろう。
ヨハンは満面の笑みを浮かべて立ち上がった。
「奥様、感謝申し上げます。」
エルネスティーネも立ち上がって釘を刺した。
「あくまでも今回だけの特別です。この手当てがあったこと自体も秘密にするのが条件です。いいですね?」
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