第81話 セーヘイムの妻たち

統一歴九十九年四月十日、夕 - セーヘイム港/アルトリウシア



 ハン支援軍アウクシリア・ハンがアルトリウシア中に災禍を及ぼした中で、地理的要因から唯一被害をまぬがれていたセーヘイムも決して平穏だったわけではない。

 セーヘイムは先住のブッカたちによって作られた港町であり、住民たちの多くをブッカが占めている。そして、少なからぬ人数が家族や親戚が海軍クラッセムで働いていて、叛乱事件の中心地である海軍基地城下町カナバエ・カストルム・ナヴァリアに親戚や家族が住んでいるという者がほとんどだったからだ。


 女たちは漁師である夫や父が獲ってきた魚介を売りに行く準備だけはしたものの、行商に行くこともできずセーヘイムの中央の広場に集まっていた。

 男たちはいつも通り漁具の片付けをしていたが、それが終わった者から順に家に帰って古びた武器を持ち出し、戦に備えている。

 しかし、彼らに出来る事はあまりなかった。


 南東の空へ立ち昇るおびただしい量の煙と散発的に響く銃声や爆発音は住民たちの不安をあおった。だが、アンブースティアやティトゥス要塞城下町カナバエ・カストルム・ティティから入って来る情報はどれも錯綜さくそうしていて詳細は何もわからず、郷士ドゥーチェであるヘルマンニは艦隊クラッシスの主要なメンバーを率いてアルビオンニウムへ出払ってしまっている。

 セーヘイムに戦える男たちはほとんど残っておらず、ハン支援軍がここセーヘイムにも押し寄せて来たら防ぐ手段がろくに残されていない。

 憶測が憶測を呼んでいつパニックが起きてもおかしくない状態だった。



 それでもセーヘイムでパニックが起きずに平静が保たれていたのは、ヘルマンニの妻インニェルとサムエルの妻メーリが民衆をまとめ上げていたからだろう。

 彼女たちが町の広場に顔を出すと、騒いでいた住民たちが一斉に静まり、彼女たちに注目したものだ。インニェル自身、不安が無いわけでは無かったが彼女は自らの立場と役割をわきまえていた。


 彼女インニェル領主ドミヌス様たちにつかいをやったことを告げた。

 そして女たちには今日は行商に行くことを諦めるように言い、新鮮な魚介類は悪くなる前にすべて塩漬けにしたり干物にしたりして保存が利くように加工するよう指示した。

 男たちには今日は湾外への出漁を諦めるように言い、代わりに武装を整えて守りを固めるように指示を出した。


 セーヘイムは動き出した。

 インニェルが長年妻としてヘルマンニの愚痴を聞き、尻を叩いていたのは伊達では無かったのだ。

 人間は何もしていない時、何もできない時にこそ不安を募らせてしまうものだ。忙しくしていればそれだけで不安を紛らわせることができる。

 不安そのものが解消されたわけでは無いが、セーヘイムの人々は少なくとも表面上は落ち着きを取り戻すことができた。



 やがて昼近くになってようやくティトゥス要塞カストルム・ティティとの連絡体制が確立し、ティトゥス要塞を通じて他の地区の様子も知れるようになったが、それは最悪の状況を伝えるものだった。

 魚の加工作業も一段落付き始めたころ、海軍基地城下町や海軍基地から煙が上がり始めたことで再び住民たちの不安が高まった。

 家の軒先からそれを眺め、インニェル自身崩れ落ちそうになるのを必死に堪えていた。そこには彼女自身の兄弟を始め親戚たちが少なからず居たはずだからである。


 だが彼女は郷士ヘルマンニの妻だった。

 彼女以上に不安を募らせる広場の住民たちを見降ろし、彼女は気丈に声を張り上げた。



「落ち着きなさい!

 今から領主様からうかがった状況をお話します!

 アンブースティアとアイゼンファウストを荒らしていたゴブリン兵は追い払われたわ!

 ウオレヴィ橋が落とされたから、叛乱軍ハン族こっちセーヘイムに攻めて来ることはもうありません!

 海軍基地城下町の住民は殆どが《陶片テスタチェウス》へのがれたそうです!!

 そして、リクハルド卿が軍勢を率いて叛乱軍討伐に出たそうです!

 今頃は叛乱軍と戦っていることでしょう!

 リクハルド卿は我が夫ヘルマンニも認める戦上手、必ずや勝利するに違いありません!!

 お前たちは魚を運ぶ準備をなさい!

 戦を逃れ生き延びた人たちも、戦った勇者たちも、みんなお腹を空かせてセーヘイムの魚を待ってるのですからね!!」


 インニェルの姿は威厳に満ちていた。だが彼女の声が震えていたことに気付かぬ者はあまりいなかった。

 しかし、そうであるからこそ、住民たちは彼女の指示に従った。

 彼女も不安と戦っているのだ、自分たちと共に・・・その共感が住民たちを奮起させる起爆剤となったのである。



 そこからセーヘイムは大車輪で動き出した。

 セーヘイムはアルトリウシアの台所。セーヘイムが動かなければアルトリウシアの住民たちは飢えて死ぬのである。

 自分たちこそがアルトリウシアの住民の食を支えている・・・その誇りが彼らを動かしていた。いや、その誇りにすがることで不安に立ち向かっていたというのが本当のところかもしれない。


 いずれにせよ、それによって彼らは今日と言う一日を乗り切った。そして、アルトリウシアの住民たちは今日と言う混乱を極めた一日の終わりに、まともな食事にありつくことが出来たのである。

 これは疑いようもなくインニェルの功績であった。仕事を作り出し、それに人々を導くことで混乱を未然に防ぎ、なおかつそれを避難民救済へと結び付けた。それを成すために、二人の領主や各地の郷士たちに避難民用として食料をまとめて買い上げるよう持ち掛け、交渉を成立させたことが何より大きかったと言えるだろう。



 やがて日が傾き、雨で大きく火勢を殺がれたとはいえ未だアルトリウシアの各地から昇り続ける煙が夕日で不吉なまでに真っ赤に染め上げられると、セーヘイムの港に一隻の巨船が入ってきた。言わずと知れた『ナグルファル』号である。


 その力強い雄姿に安堵を覚えるべきか、帰ってくるはずのない船がたった一隻で帰ってきたことを不吉ととらえるべきか、セーヘイムの住民たちは誰もが迷った。

 言い知れぬ不安が再び住民たちの心を満たす。

 その不安は乗員たちが全員元気で無事な姿を見せてからも晴れることは無かった。上陸してきた彼らは乗員たちも軍団兵レギオナリウスたちも、何故か何も言ってくれなかったからだ。

 それどころか再会を喜び合うのもそこそこに、軍団兵たちは『ナグルファル』号が接舷した桟橋から人々を追い払って封鎖線を敷き、人々が『ナグルファル』号に近づくのを厳重に禁じた。

 異様といって良かった。



 インニェルは納得が出来なかった。

 何があったかは知らないが予定より早く帰って来てくれたことは嬉しい。まして、こんな大変なことがあった日なら猶更なおさらだ。

 なのにヘルマンニもサムエルもやけに素っ気ない。

 何があったか話もしてくれないし、出迎えたインニェルにキスも碌にしてくれなかった。やけに急いでいる様子で、肩に腕を回して二回ばかりポンポンと優しく叩いて・・・もっと何かあってもいいだろうにそれだけだ。

 何があったか状況だけ訊くと、「賓客ひんきゃくだ、御馳走を用意してくれ」とだけ言ってヘルマンニもサムエルもとっとと船へ戻ってしまった。

 そして船の周りは軍団兵が警備していて誰も近づけてくれない。


 そりゃ用意しますよ、客なんかいなくったってそれくらい・・・。


 インニェルは不満だった。

 今日一日だけであんなに色んなことがあったのに、あんなに不安だったのに、あんなに頑張ったのに、せっかく帰って来てくれたのに、なのに全然話を聞いてくれない。何も話してくれない。

 色々聞いてほしかった。色々話してほしかった。大変だったねと言ってほしかった。頑張ったねと褒めてほしかった。

 もう孫さえいる中年ブッカは年甲斐もなく生娘のような気持ちを持て余している自分を自覚していたが、だからといってこの気持ちをどうにかできるわけでもなかった。


 まったく、男どもときたら!!


 

 ふと隣を見るとメーリが赤ん坊を抱いたまま不満そうな顔をして『ナグルファル』号へ戻るサムエルを目で追っている。


 多分、今の私もこのと同じ表情かおしてるのね・・・。


 思わずため息が漏れる。


「メーリさん、ああ言ってるし、御馳走の用意をしましょうか?」


「はい、そうですねお義母さまインニェル


 二人は連れ立って家路を歩く。


 やっぱり女の気持ちは女同士でないと共感できないのよ。


 二人の距離はこの日この時を境に大きく縮まっていくことになる。

 別に、二人の仲は特に悪かったという訳ではない。ただ、やっぱり嫁であるメーリは姑であるインニェルのことがちょっと苦手だった。

 家事の多くを使用人や奴隷がやってくれる郷士の家では未熟な嫁の不始末がそれほど目立つわけでもなく、使用人や奴隷もメーリをフォローしてくれる良質な人間ばかりだったので、嫁姑の仲は一般の家庭よりよほど良好だったと言えるだろう。それでもやっぱり嫁が姑に対して何か苦手意識を持ってしまうのは避けようがない。

 だが、今日一日、自身も不安に押しつぶされそうになっているというのに気丈に振る舞い続けたインニェルを見ていて、そしてそれをそばで実際に支えてみて、メーリはインニェルに対して素直に尊敬の念を抱くようになっていた。

 そして、お互い夫と再会したというのに素っ気なく扱われてしまったことで、お互いの気持ちを共有することにもなった。


お義母さまインニェル、いっそ羊を一頭潰しましょうか?」


 勿論もちろん冗談である。もう日が暮れるというのに今から羊一頭潰して間に合うわけがない。


「そうね、ウチの人たち、父子そろって羊の胸肉の香草焼きが大好きですものね。」


 二人は歩きながらフフフと笑った。


 ヘルマンニとサムエルが自分たちの家庭内で嫁と姑の強力な同盟関係がいつの間にか成立している事に気付くのは、かなりずっと後になってからのことだった。

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