第85話 不意の来客
統一歴九十九年四月十日、夕 - ティトゥス要塞/アルトリウシア
野外に設置された炊き出し用の調理場にアルビオンニア侯爵家に仕える衛兵隊長のゲオルグが侯爵夫人エルネスティーネを呼びに来た時、彼女は避難民のための夕食を作るべく使用人や有志の女たちとともに小麦と水の入った銅の大鍋を火にかけたところだった。
厚ぼったい唇の周りに茶褐色の肌とは対照的に真っ白に染まってしまったモジャ
「身だしなみを整える時間くらいいただけるかしら?」
「いえ、どうぞそのままで構いません。」
彼女は自分の顔がおそらく汗と
とにかくお急ぎくださいとやたら急かすゲオルグに伴われてエルネスティーネが
「アルビオンニア侯爵夫人エルネスティーネ様、御入来~ぃ」
会議室出入口に立っていた衛兵が戸を開け、声高らかに宣言すると会議室にいた全員が起立して姿勢を正し、出入口に注目した。
次の瞬間、入室したエルネスティーネの姿に全員が思わず目を丸くし、中には声を漏らすものもあった。
だから身だしなみを整えたかったのに、ゲオルグったら!
自分を見た者たちの反応に思わず立ち止まってしまったエルネスティーネだったが、態度だけは
「このような姿で失礼します。
大至急とのことでしたので・・・それで、何かございましたか?」
その気丈な声色はこの羞恥に対する反発ゆえに発せられたものであったのだが、室内にいた者たちはむしろその気高さに畏怖の念を覚えていた。
自分の席に向かって歩きながら汚れたエプロンドレスを脱ぐと、急いで追いかけてきた侍女がそれを受け取り、代わりに暖かく湿った布巾を手渡した。エルネスティーネはそれをありがとうと小声で言って受け取り、汚れた手を拭き、次いで顔を・・・化粧が落ちないようにポンポンと優しく叩くように拭いて煤を落とした。
拭き終わった布巾を見て煤と一緒に化粧も少し落ちてしまっている事に気付き、眉が寄ってしまうのを辛うじて
エルネスティーネが自分の座るべき席、ルキウスのすぐ近くまで来るとルキウスが口を開いた。
「
「
「御紹介しましょう、
ルキウスが紹介すると、見覚えのないホブゴブリンの百人隊長が一歩前へ出てエルネスティーネに対してお辞儀する。
その隣にはルクレティアとヴァナディーズが控えていた。
「
貴女方はアルビオンニウムへ行ったはず・・・帰っていたのですか?」
「ご機嫌
ええ、予定より早く着くことができました。」
エルネスティーネが驚きの声をあげると、ルクレティアは苦笑いを浮かべて挨拶をした。
予定では明後日まで帰ってくるはずの無いルクレティアがここに居る。その事実からアルビオンニウムで何かがあったらしいと予想するのは難しくなかった。
「ということは、
そなたもアルビオンニウムから?」
「まずは
お前は退室しなさい。
衛兵!しばらく誰も入れるな!!」
エルネスティーネの問いに答えようとしたクィントゥスをハンドサインで制止したルキウスはエルネスティーネにアルトリウスからの手紙を手渡し、未だ室内に留まっていたエルネスティーネの侍女を追い出してしまった。
侍女がお辞儀してエプロンドレスと布巾を持って退室するのを見届けると、エルネスティーネは改めて受け取った手紙を見た。手紙の
それはエルネスティーネとルキウスの両領主に宛てた手紙であり、そこにはアルビオンニウムで降臨が起こった事、降臨者が伝説の
読み進めるにつれ彼女のいつも半眼気味の半月形をした大きな目が丸く見開かれ、手紙を持つ手が小刻みに震えだす。
「こ、これに書かれていることは事実なのですか!?」
エルネスティーネはルキウス、ルクレティア、そして室内に控える
そもそもそんなことは問うまでもない。地理的に帰って来れる筈の無い人物がここに帰って来ている時点で疑う余地の無い事だった。
「おお、何という事でしょう。」
エルネスティーネは手紙を机に置き、胸の前で十字を切ると胸に下げていたロザリオを両手で取って祈った。
その間にルキウスがクィントゥスに問いかける。
「それで、その降臨者様は今セーヘイムにいらっしゃるのだな?」
「ハッ、『ナグルファル』号の船室に残られ、おそらく今頃はヘルマンニ卿の御用意された
「船上でか!?」
クイントゥスの答えにルキウスは思わず大声を上げた。エルネスティーネも幕僚たちも目を丸くしてクィントゥスに注目する。
クィントゥスはその様子に
「
「それにしたところで、何も船上で召し上がる事はあるまい。」
「それは、御自身と降臨の事実を秘匿するのにはそうするのが良いと仰せられましたものですから・・・」
「だからと言って!
いや、今からでは遅いか。」
ルキウスは叱責を思いとどまった。
今頃、夕食を食べているどころか、とうに食べ終わっていてもおかしくはない。
「今は私たちにできることをしなければなりません。
今夜の降臨者様の御寝所はまだ用意されていませんね?」
「はい、それにつきまして
エルネスティーネからの問いにクィントゥスが答えた。
アルトリウシアに貴族の滞在に対応できるだけの建物は限られている。現在、アルトリウシアの妻コト・アリスイア・アヴァロニア・アルトリウシアのために造営中の
軍団長用宿舎はティトゥス要塞とマニウス要塞に二つずつあるが、ティトゥス要塞の二つはエルネスティーネとルキウスがそれぞれ使用中であり、マニウス要塞の一つはアルトリウスが使っている。残っているのはマニウス要塞で使われないままになっている一軒だけだ。
「他に選択の余地はありません、順当なところでしょう。
準備を急がねばなりませんが、できますか?」
「先ほど、早馬を出したところです。
しかし、まもなく日が沈みます。長く使われていなかった家屋を点検し、必要な
それを夜中にとなりますと・・・」
エルネスティーネの問いに幕僚の一人が心苦し気に答えた。
この時の会話を聞いてクィントゥスやルクレティウスは責任を感じていた。予定通り《
アルビオンニウムから放った鳩によって第一報が伝わって明日の今頃到着していれば、マニウス要塞の受け入れ態勢もある程度整った状態でリュウイチを迎え入れる事が出来たであろうし、せっかく
いや、おそらく
クィントゥスが、ルクレティアが、ただ早く帰れるなら帰ってしまえばあとは両領主が何とかできるだろうと気楽に考え、安易にアルトリウシアへ直行する判断を下したばっかりにとんだ大ごとになってしまった。
「仕方ありませんね。今夜だけティトゥス要塞に御宿泊いただきましょうか?」
マニウス要塞の準備は間に合わないと判断したエルネスティーネはそう言ってルキウスの顔を見た。
エルネスティーネはそう言ったものの、エルネスティーネが使っている方の宿舎は部屋の空きがない。子供たちが使ってしまっているからだ。要は妻はあれども子供のいないルキウスに客間を提供できないか
ルキウスからすれば嫌も応もない。溜め息一つ付いて承諾した。
「分かりました。大至急、客間を用意させましょう。」
「では、今宵はこちらへ御宿泊いただき、準備出来次第マニウス要塞の方へ御運びいただきましょう。」
問題が一つ解決したかに見えたが、先ほどの幕僚が口を開いた。
「その、それなのですが・・・」
「まだ何かあるのですか?」
「
その・・・降臨者様をお迎えするにあたって・・・秘匿上避難民が・・・」
幕僚が言わんとしている事を理解したエルネスティーネは手を
痛い問題だった。
相手は名にし負う降臨者、しかも《暗黒騎士》その人である。仮に秘匿の必要がなかったとしても、想定外の事態を防ぐためには訳の分からない庶民を近づけさせるわけにはいかない。何かの間違いで《暗黒騎士》の
「避難民を追い出すしかないか・・・」
ルキウスが深いため息を吐きながら言った。
一日二日ならともかく、長期に渡って降臨者に滞在してもらう近くに庶民がウロチョロしていては秘匿どころか安全の保障ができない。
「あの、その避難民のことなのですが・・・」
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