第83話 ヒールポーション

統一歴九十九年四月十日、夕 - ナグルファル船上/アルトリウシア



「ではルクレティアはやはり・・・」


 ヴァナディーズがクィントゥスといっしょにティトゥス要塞カストルム・ティティに行くことが決まったので、ルクレティアはやはりリュウイチの側に留まろうと決めた。しかし、次の瞬間リュウイチの口から出た言葉は彼女の期待を裏切るものだった。


『いや、何がどうなるか分からないし、こういう時は一度全員で当たれるところに当たっといた方が良い。

 リュウイチは待ってるからお父さんの所へ一旦帰りなさい。』


「そ、そうですか・・・でも・・・」


 なにか突き放されるような感覚がしてルクレティアはひどくガッカリした気持ちを抑えきれなかった。

 そんなルクレティアの姿をリュウイチの身を案じてのことだろうと誤解したヘルマンニは慰めるように言った。


「何、リュウイチ様の御夕食はヘルマンニんトコで御用意しましょう。

 今から領主ドミヌス様のとこへ行ってそれから準備じゃ遅くなっちまう。

 命を救っていただいた御礼もせねばならんことですし。」


『いや、礼なんてそんな気にせんでください。』


 経験することになった怒涛の御礼攻勢を思い出したリュウイチはややながら遠慮した。


 リュウイチからすれば何かをやったという印象は無い。いや、人命を救ったという事実もその価値も意味も理解はしているのだが、特に体を動かしたという訳でも金を使ったというわけでもなかったし、そのために自分の何かを犠牲にしたり費やしたりしたという訳でもない以上、あまり変に恩に着られても困るのだった。

 やった成果だけを見れば確かに凄い事をやったかもしれないが、その成果のために費やした労力という点では、今日ここまで船を運航してきたヘルマンニの方がずっと大きい。リュウイチはメニューの中から一番効果の高そうな治癒魔法を選択したにすぎず、そのために費やした魔力も《暗黒騎士ダークナイト》の魔力量からすれば微々たるものだ。

 自分よりよっぽど大変なことをやってきた人から、大した苦労もしていない自分が感謝されることに対し、リュウイチはむしろ罪悪感すら覚えていた。



「いえ、そういう訳にはいきません!

 親父ヘルマンニを助けてくださった御恩には及びませんが、せめてなんぞさせてください。」


「そうですわい。

 幸いここセーヘイムは漁師町、アルトリウシアの海の幸は当家の自慢。

 お昼の黒ビールもサムエルの嫁が作ったもんです。

 どうか馳走ちそうさせてくだされ。」


「待ってください!

 リュウイチ様を人目にさらすわけには・・・」


「なあに、ウチのもんらには口止めしときます。

 リュウイチ様も単なる旅人とでもしとけば大丈夫でしょう。」


「そうですよ、ルクレティア様。

 客人のことを外に吹聴したりはしません。」



 まったく信用できなかった。

 確かにかもしれない。だが、セーヘイムの女たちはに対しては口が軽く、あらゆる情報を共有する。そしての線引きが個人ごとに異なるうえ、に含まれる人間の範囲がバカにならないくらい広いのだ。

 そしてに含めるか否かを線引きする上で、相手が女性だとその基準がゆるくなりやすく、相手が男性だと話の内容次第では自分の夫であっても含めない事が多い。


 さらに言うとセーヘイムの女たちは知らないふりが上手く、セーヘイムの男たちは小さい事を気にしない事をの基準の一つにしており、あまり他人を詮索したり女を追及したりしない。

 だからセーヘイムの男たちはセーヘイムの女たちがどれだけ広い範囲で情報を共有しているか知らないのだが、仮にヘルマンニの家で何かハプニングがあればその事実は三日以内にセーヘイム中のすべての女たちに知れ渡るのだ。


 さらに最悪な事にそのセーヘイムの女たちの情報網の中心となっているのがヘルマンニの妻インニェルとサムエルの妻メーリだった。

 実際、ルクレティアは本人サムエルが自覚しだす前にサムエルがメーリに好意を抱いているという話をインニェルから聞かされていたし、本人は誰にも知られていないと思っているがサムエルがメーリと付き合う様子もリアルタイムで克明にインニェルから聞かされていた。そしてサムエルがメーリにプロポーズする前からサムエルが誰にも内緒で結婚を申し込む準備をしている事も、彼らの両親が影で結婚式の準備を勝手に始めていた様子もインニェルの口から聞かされていたのだ。

 ルクレティアはよく憶えているが、当時サムエルとメーリのロマンスはセーヘイム中の女たちの話題の中心であり、当事者よりもセーヘイムの女たちの方が彼らの恋愛事情に精通していたのだ。


 セーヘイムの事はもちろん、アルトリウシアの貴族や有力者の話なら本人から聞くよりインニェルかメーリに聞いた方が早くて詳細で正確だったりする。

 そんなアルトリウシアいちのゴシップ情報の中心地にリュウイチを連れこんで秘密が守られるわけがない。



「いえ、ヘルマンニ様の御宅までの移動中に人目に付くこともありましょうし、ヘルマンニ様の御宅の使用人の目もありますし・・・」


「なあに、この格好ならせいぜいどこぞの貴族としか思われません。降臨者だと気づく者などおりませんよ。」


「そうですよ、それに使用人たちにもちゃんと口止めします。」



 ヘルマンニとサムエルは気楽だった。男たちは何も知らないのだから仕方ない。

 なんとか阻止したいルクレティアだが、セーヘイムの女たちの情報網についてここで話してセーヘイムを丸ごと敵に回すようなことはしたくない。それは却って秘匿の妨げになる可能性の方が高く、ルクレティアの今後のアルトリウシアでの活動にとっても支障が大きい。


 どうせこの父子は隠し切れないのだ。奥さん二人には絶対気づかれる。

 情報を秘匿するならむしろインニェルとメーリは味方に付ける必要があるし、インニェルとメーリを味方につけて秘匿に協力してもらうにはいきなりリュウイチをヘルマンニ邸へ連れて行くのはダメだし、ここでヘルマンニ父子にセーヘイムの女たちの情報網について教えるのもダメだ。

 ヘルマンニ父子に内緒のままで、リュウイチをヘルマンニ邸に連れ込む前に、ルクレティアの口からインニェルとメーリに事前に根回しをしておく必要がある。そのためにこそ時間が欲しい。



 ルクレティアの焦燥をよそにリュウイチが口を開いた。


『食事はどのみち全員この港でった方いいでしょう。

 話を聞く限りでは他はどこも自分たちの食事どころですらないでしょうから・・・

 ああ、そんなことよりも、随分と多くの死傷者が出ているそうですが、そちらの対応は良いのですか?』


「ええ、お気遣いありがとうございます。

 かなりの人数が被害を受けているらしいのは確かなのですが、何分情報が錯綜さくそうしていて被害の実態を誰も掴めていないのが実情です。

 今はまず情報を集めて状況を把握しなければなりません。

 それにそれとリュウイチ様の御世話は別問題です。両立はできますし、しなければならぬものと心得ます。」


『お役目は理解しますが、今こうしている間にも苦しんでいる人がいる。命を落としそうになっている人もいるでしょう。

 私の方は放っておいても誰かが死ぬわけじゃありません。

 ひとまず手の付くところから救援した方がよくありませんか?』


「お気持ちはありがたく存じますが、我々にできることは限られます。」


『皆さん御覧になったように私は治癒魔法が使えます。

 お役に立てると思うのですが・・・』


 このリュウイチの申し出にはさすがに全員が慌てた。


「いえ!これは我々のこと。

 リュウイチ様の御手をわずらわせるわけには参りません。」


「リュウイチ様の治癒魔法の凄さはこの私ヘルマンニが良く知っております。なんせその恩恵にあずかった身ですからな。

 ですが、その力は強力すぎます。この世界ヴァーチャリアでは考えられんほどです。

 リュウイチ様がその力を振るわれたとなれば、御身がいくら変装しようと降臨の事実を伏せることなど出来なくなります。」


「そうです!

 それに今は御身リュウイチの降臨の事実が明らかになっては困ります。

 どんな混乱が起こるか分かりません!」


『しかし、今何万人かが被害にあって、おそらく何千人もの人々が重軽症を負って苦しんでおられるでしょう?

 多分、死にひんしている人も何百人単位でいるはずだ。

 これ以上の混乱など心配する必要ないでしょう?』



 そう言われてしまうと、確かに既にこれ以上ないくらいの混乱に陥っているアルトリウシアはまさに魔女の鍋のようなものだ。これ以上どんな混乱が起こるのかと訊かれてもちょっと想像できない。

 思わず皆が黙り込んでしまったところで、ヴァナディーズが落ち着いた口調で説明を始めた。



「リュウイチ様、この世界ヴァーチャリアには大協約という大きな決まり事があります。

 そこには降臨者の恩寵おんちょうを独占してはならないと定められています。

 もし恩寵を独占したと見なされれば、それが一つの街であれ国であれ、世界の敵となってしまうのです。

 もしアルトリウシアがそうなれば、犠牲は何万人では済みません。

 リュウイチ様の御慈悲は大変ありがたく存じますが、どうか御自重ください。」


『・・・じゃあ、私が身を隠したまま範囲治癒魔法エリア・ヒールをかけるとか?』


「いえ、それでもあり得ないことが起きてしまうわけですから・・・」


『じゃあこの世界ヴァーチャリアにポーションはありますか?』


 一同は顔を見合わせるとクィントゥスが答えた。


「あることはありますが、高価ですし軍の備蓄を除けば貴族や豪商しか持っていません。軍は軍でいくさに備えねばなりませんからすべてを放出することは出来ませんし、必要とする全員に行きわたらせることは出来ないでしょう。」


「それらはゲイマーガメルが持ち込んだものをこの世界ヴァーチャリアで複製したものですが、おそらくリュウイチ様が知っているポーションよりも質はずっと低いと思われます。」


 クィントゥスの回答をヴァナディーズが捕捉した。


 実際この世界ヴァーチャリアのポーションの品質はかなり低くルクレティアの治癒魔法と同じくらいの効果しかない。

 しかし、低位治癒魔法が患者の魔力を消費してしまうのに対してポーションであれば魔力を消耗する事が無いため、ある程度以上裕福な人々にとっては治癒魔法よりはポーションの方がまだ親しみがあるだろう。

 ただし、魔法は元手が無く術者の手数料ぐらいのコストしかかからないのに対して、ポーションは一回分の使用量で平均いちデナリウス程度かかる。いちデナリウスと言えば軍団兵の一日分の給料に相当し、薬代としては決して安くない。

 その上、長期保存が利かないため大規模な戦争が計画されている場合は事前に集積する事もあるが、平時ではたとえレーマ帝国の近衛軍プラエトリアニであってもあまり多く備蓄していないのが実情だ。

 ましてや辺境地域では都市部の製造元から運ばれてきた時には既に製造日から一年以上経過していて、納品されてから半年以内に使わないといけなかったりすることもある。



『じゃあ、せめてこのポーションを被災した怪我人に使って欲しい。』


 リュウイチがそう言うと、リュウイチのすぐ前に突然木箱が現れた。

 例の金貨が入っていた木箱と同じで、それだけでかなり価値がありそうな見事な出来栄えの箱であったが、リュウイチが蓋を開けると中は縦六列、横十列に細かく仕切られ、各仕切りに一本ずつキラキラと輝く宝石のようなガラス瓶が納められていた。


 皆が息を飲んでその宝石箱にも等しい木箱に目を奪われているうちに、リュウイチは同じ木箱をさらに九つ積み重ねた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る