第76話 死地からの離脱

統一歴九十九年四月十日、夕 - ナグルファル号船上/アルトリウシア湾



 『ナグルファル』号後甲板こうかんぱんに立ち昇った巨大な火柱は突如消失した。

 リュウイチの言葉から真意の在処ありかを見定めきれずにいたクィントゥスはしばしの間言葉を失ってしまっていたのだが、改めてリュウイチをテントへ戻らせねばならない事を思い出した。


「・・・リュウイチ様、ここは・・・ここは、人目に付きます。

 どうかテントの中へお入りください。」


『その前に、テントに鉛玉が飛び込んできたんですが・・・』


 ホラここ・・・とリュウイチが指差す先を見ると、テントの帆布はんぷに二インチ(約五センチ)ほどの穴が開いており、前甲板ぜんかんぱんにいたせいで被弾した事自体に気付いていなかったクィントゥスは驚愕のあまり目をいた。

 よりにもよってテントに被弾し、それで降臨者リュウイチに被害があったとなればただでは済むまい。報復を求められれば、せめて《暗黒騎士リュウイチ》が自ら戦わないよう、『ナグルファル』を反転させて自分たちが降臨者リュウイチの代わりに『バランベル』号への攻撃を開始する事も視野に入れねばならなくなる。


 サムエルの指揮するこの『ナグルファル』号で『バランベル』号を撃沈げきちんすること自体はおそらく難しくないだろう。最早大砲の使用を制限する必要は無いのだから、機動力で圧倒しつつ『バランベル』号の船体に大砲を撃ち込んで大穴を開けてやればいい。通常ならそれで終わる。


 だが、実際にはそれでは済まないだろう。

 アルトリウシア湾は非常に浅い。そして今現在『バランベル』号は既に座礁ざしょうしているのだ。船体に大穴を開けて浸水で浮力を奪っても、船が水面下に没することもないし、転覆すらしない可能性が高い。『バランベル』号は船体を海底に着底ちゃくていさせたまま弾が尽きるまで大砲を撃ち続けるに違いない。

 となると、『バランベル』号を炎上させるか、乗り込んで乗員を皆殺しにでもしなければ収まらなくなる。


 今『ナグルファル』に乗っている軍団兵レギオナリウスはクィントゥスが直卒する重装歩兵ホプリマクス百人隊 ケントゥリア一個と、便乗している軽装歩兵ウェリテス十人隊コントゥベルニウム二個の合わせて百人だけだ。船乗りのブッカを入れても戦えるのは百二十人かそこら・・・それで四百人は乗っているであろうハン支援軍アウクシリア・ハンのゴブリン兵を殲滅せんめつする?

 冗談じゃない・・・が、リュウイチに求められればやらねばならなくなる。



「まさか御怪我を!?」


『いえ、大丈夫です。』


 まさか砲弾が頭に直撃したけど無傷ですんでいたとは想像だにしないクィントゥスはリュウイチの言葉に安堵した。

 だが、それで済むわけでは無い。護衛対象を危険にさらしたのは事実なのだ。


「それは・・・申し訳ありません。

 ですが、ご安心ください。もうそのような事は無いよう致しますので・・・」


『あの盾で?』


 リュウイチは盾を持って舷側げんそくに並ぶ軍団兵たちを見て疑問を呈した。

 確かに知らない者にとっては何の変哲もない只の薄っぺらい盾にしか見えないし、いぶかしむのも無理はない。

 もしかしたら、馬鹿にしてると思われているかもしれない。


「はい、あの盾は魔道具マジック・アイテムで砲弾ぐらい防ぐことが出来ます。

 先ほどは盾を持った兵士の展開が間に合わなかったため防ぎきれず、御身辺をお騒がせ致せし事は我々の落ち度、いえ、私の責任です。

 罰をとおぼさるるならば、どうか私一人にお与えください。」


『いえ、それには及びません。』


「はっ、御寛恕ごかんじょ たまわり、感謝申し上げます。」


『それはそうと、あなた方は反撃しないのですか?

 それともしたくてもできないのですか?』


 リュウイチは今度は船尾の大型艦載砲かんさいほうをチラッと見ながら質問した。

 艦載砲としてはかなりな大型の部類であり、攻城砲こうじょうほう並みの大きさがある。だが、全体を海水から守るための革製のカバーがかけられ、砲車ほうしゃも堅く縛られたまま戦闘準備すらされていない。


 リュウイチ様は反撃を、『バランベル』号への攻撃を望まれているのだろうか?


 クィントゥスは本日何度目になるかわからぬ嫌な汗が背中を伝うのを感じながら、どうやって攻撃の必要性が無い事を納得させればよいか考えた。


「あ・・・あの船バランベルは既に座礁させました。」


『座礁させた?』


「はい、サムエルの計略によって浅瀬へ誘いこみ、乗り上げさせてあります。

 これ以上の反撃は不要と考えております。」


『もう撃ってくることはないということですか?』


「撃ってきたとしても、我らが盾で防いで御覧に入れます。」


 そこへ遅れて駆けつけてきたサムエルが加わった。クィントゥスの横に跪き、安全を宣言する。


「既に、敵船からは既に安全な距離をとりました。

 まだ弾は届きますが、ここまで離れれば命中させることなどまず出来ません。

 仮に砲弾が飛んできても、軍団兵の盾で防がれましょう。」


 クィントゥスは実に心強い助け舟を得られた気持ちにさせられた。

 十ノットもの高速で疾走する『ナグルファル』は既に『バランベル』から優に三百ピルム(約五百五十五メートル)以上の距離を開けていた。それは艦載砲にとっても旋回砲にとっても有効射程の外であることを意味する。

 土台のしっかりした陸上から撃つならともかく、たえず揺れ動く船の上からこの距離で船相手に砲撃を命中させることなど、まず誰にもできないだろう。


『ふむ・・・わかりました。』


 リュウイチがそう言って二人を安心させると、今度はルクレティアの方から緊迫した声が聞こえた。


「サムエルさん・・・サムエル様!

 こちらへ!御急ぎください。」


 切羽詰まった声色にただならぬものを感じたサムエルがそちらを向くと、そこには今にも息絶えようとする父親ヘルマンニの姿があった。


「お、親父ヘルマンニ!?」


 理由も聞かされることなくただ後甲板に来てくださいと、やけに深刻な顔の水兵に呼ばれただけだったサムエルにとって、それは全く予期せぬ状況だった。

 サムエルは血相を変えて駆け寄り、滑り込むように枕元に跪くとヘルマンニの左手を取ってその顔を覗き込んだ。

 ヘルマンニは息も絶え絶えに、薄目を開けてサムエルの顔を見る。顔からすっかり血の気が引いており、口が微かに動くがどうやらしゃべることができないようで声が出ていない。


親父 ヘルマンニ・・・ああ、まさか、そんな・・・」


 ヘルマンニが助からない事は一目で理解できた。サムエルの目に涙が浮かぶ。



『あれ、治癒魔法をかけたんじゃなかったんですか!?』


 この世界ヴァーチャリアの魔法の実情を知らないリュウイチが近くにいたクィントゥスに小声で問いかけた。


「あれでも治癒魔法をかけているのです。

 でもあれほどの重症となると治癒魔法でも治せません。

 せめて家族サムエルとの最期の挨拶のためにわずかな時間延命し、苦痛を和らげるのが精いっぱいなのです。」


 答えるクィントゥスの声も周囲の船員たちの表情同様重く沈んでいた。


 ヘルマンニは、船を愛し、海を愛し、酒を愛し、魚を愛し、同胞を愛した。

 彼はセーヘイムのブッカたちを良くまとめ導いたき族長であり、郷士ドゥーチェであった。

 彼は船を任せれば危機を避ける術に長け、航海の絶対の安全を保証し、必要とあらば如何いかなる難所であろうと乗り切るき船乗りであった。

 彼は艦隊を率いれば配下の船を自在に動かし、敵船を翻弄し、まるで狼の群れのごとく統率する優れた提督プラエフェクトゥスであった。

 そして彼は両親の期待に応え続けた善き息子であり、妻を愛する夫であり、家族を守る家長であり、二十年に渡り息子サムエルを立派に育て上げた偉大な父であった。

 彼は真に尊敬されるべき海の男であった。

 それが今、戦いの中で砲弾に倒れ、自らの血の海の中で息子と部下たちに看取られながらヴァルハラへと旅立とうとしている。


「・・・親父ぃヘルマンニ・・・」


 彼の最期の言葉が何だったのか、残念ながら誰にも聞き取ることができなかった。

 ワルキューレの乙女が迎えに来るのを待つ彼の周囲には、サムエルと船乗りたちの涙と嗚咽とが満ちていた。

 空にはただ風音だけが物悲しく響き、ヘルマンニの代わりに最期の別れを告げているかのようであった。



『パーフェクト・ヒール』


 背後からリュウイチの場違いなまでに落ち着いた声がすると、ヘルマンニの身体が緑色の光で包まれた。


「「「え!?」」」


 周囲の戸惑いをよそに、一度は甲板に染み込んだ血が浮き出し、血液の雫が水銀の粒のようにコロコロと転がってヘルマンニの傷口へ戻って行く。飛び散っていた肉片も体毛も、まるで意思を持っているかのように独りでに動いてヘルマンニのもとへ戻って行く。それはちょうど時間の流れが逆流しているかのような有様だった。

 そしてあっという間に傷口が塞がり、変な角度にねじ曲がっていた右肩も音もなく独りでに元通りの形に戻っていた。

 ヘルマンニを覆っていた緑色の光が消えた時、気づけばヘルマンニの顔の血色もすっかり良くなり、ただ身に着けていた衣服と鎧に砲弾が通り抜けた穴が開いているのみだった。見れば服に染み込んでいたはずの血痕も綺麗に無くなっている。

 ヘルマンニは目を開け、身体を起こした。


「え?あ、あれ?」



 一瞬、何とも言えない気まずさが後甲板を支配した。

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