第75話 荒ぶる炎

統一歴九十九年四月十日、午後 - ナグルファル号船上/アルトリウシア湾



 リュウイチを追いかけて外に出たルクレティアの目の前に広がっていたのは、極めてささやかではあったが彼女が初めて目の当たりにする戦場のほんの一端であった。

 戦場と呼ぶにはあまりにも普段と変わらないように見える状況を初めての戦争体験として迎える事が、果たして当人にとって幸福な事なのかそれとも不幸な事なのかは一概に断ずることの出来ない問題であろう。

 ただ、この時のこの場を戦場であったと彼女が認識するようになるのは、ずっと後になってからの事だった。少なくともこの時、彼女はここが戦場であるという認識をもっておらず、どちらかと言えば一種の事故現場のように感じていたと後に述懐している。



 後甲板こうかんぱんに転落したヘルマンニの周囲で騒いでいた船乗りと軍団兵レギオナリウスの一部はテントから現れたリュウイチの姿に気付くと一斉に黙り込み、リュウイチの顔を見上げた。

 その外側ではスクトゥムを持った軍団兵が更なる追撃を防ぐべく、百人隊副長オプティオの指揮の下ゴリゴリと軍靴カリガの底の鋲が立てる甲板を削るような音を響かせながら船尾楼せんびろうの上に駆け上がったり、船尾楼下の舷側げんそくへと駆け寄って盾を並べていた。

 ホントに慌てて盾だけを用意したのであろう、彼らは盾を手にしているだけで鎖帷子ロリカ・ハマタはおろかガレア鎧下イァックすらも身に着けていない。

 ともかく、彼らが船の後部を盾で覆うべく展開していたので、後から出てきたルクレティアの目には海面上で静止してしまった『バランベル』号の姿は映っておらず、彼女には今何が起こっているのか状況を把握しかねた。



「あ、ルクレティア様!どうかこちらへ!!」


 船員の一人の声のする方へ眼を向けると、そこには船尾楼の登り口付近に横たわるヘルマンニの姿があった。


「!!」


 そこから見ても右肩が凄い事になっているのが明白だった。

 思わず息を飲み、立ちすくむ。


「ルクレティア様、お願いします。」


 船員の一人に再び促され、一歩、二歩、戸惑うように足を踏み出し、一度息を吸ってから小走りでヘルマンニの下へ駆け寄った。

 右肩が変な角度になっていて、その付け根辺りからとめどなく血が溢れていて、周囲は既に血の海だ。どう見ても致命傷だが、まだかすかに息があった。


「こ、このような怪我では治癒魔法でも・・・」


「分かってます!

 今ウチの若大将サムエル呼んでますんで、それまで命を持たせてやってくだせぇ。」



 ルクレティアが使える治癒魔法はかなり効果の限定的な低位の魔法だった。

 降臨者の血を引く聖貴族コンセクラトゥムは高い魔力と精霊エレメンタルとの親和性を持っており、精霊魔法を自在に扱えていたのだが、代を重ねてが薄くなるにしたがいその魔力も精霊との親和性も失われてきている。

 降臨者スパルタカスの末裔というこの世界ヴァーチャリアでもかなり古い血筋のルクレティアの力は一般人と大差ない程度にまで衰えており精霊魔法は全く使えない。辛うじて精霊の存在を感じる事が出来る程度である。

 一応、ゲイマーガメルもたらしたスクロールウォルーメン作成技術によって複製されるマジックマギカエスクロールウォルーメンを使って魔法の収得自体は可能なのだが、ゲイマーが使っていたのとまったく同じ魔法を使えるのかと言うと残念ながら一般人と同レベルの魔力では魔力不足で魔法を起動できない。


 そこでスクロール職人や魔術研究者たちの長年の研究と解析によって、弱い魔力でも起動できる低位魔法マギカエ・ルミナーレが開発された。

 ルクレティアが使える治癒魔法はその類のものである。

 術者の魔力を呼び水として起動し、あとの不足分を患者の魔力で補うというもので、使いすぎると患者は魔力枯渇に陥って死亡する。


 治癒魔法をかけた事で死なせてしまっては元も子もないので、魔力の消費そのものを軽減する工夫を重ねた結果、治癒効果もかなり限定的なものとなってしまった。

 このため、魔法をかけさえすれば出血が止まるとか、あっという間に傷口が塞がるとかいうような劇的な効果は無くなり、せいぜい苦痛を和らげるとともに新陳代謝を加速させて自然治癒力を増幅する・・・というような効果しかない。

 治癒効果としては・・・例えば小指の第一関節から先を切り落としてしまったとして、ルクレティアの魔法を毎週一回のペースで半年くらいかけ続けると元通りに戻るぐらいの効果だ。

 ゲイマーの伝承で伝えられる治癒魔法のような劇的な効果には遠く及ばないが、それでも自然治癒に任せたり怪しげな薬草を使う迷信じみた民間医療よりは遥かにマシである。


 当然だが、今のヘルマンニのような重症を治すことなど到底できない。周囲の船員たちもそれくらいはこの世界ヴァーチャリアの常識としてわきまえている。

 ただ、息子サムエルに最期の挨拶をさせてやりたいから、それまで死なない様に治癒魔法で苦痛を和らげ生きながらえさせてほしいということだった。その後は、苦痛から解放するために誰かの手でトドメが刺されることになるだろう。



「わ、わかりました。」


 ルクレティアは青い顔をしたまま震える声でそう言うとヘルマンニの枕元に両膝を突き、船員たちが見守る中で傷口に両手をかざすと治癒魔法を使い始めた。



 その背後では《火の精霊ファイア・エレメンタル》が意気を上げていた。


『見よ、あるじよ!あれが敵だ!!

 さあ、命じよ!

 あのような船など主様の手をわずらわすに及ばぬ!!

 が力で中のゴブリンともども丸ごと焼き払って見せよう!!』


 要するに自分が燃やしたくて仕方ないのだ。

 実は『ナグルファル』に乗り込んでいる中で一番最初に『バランベル』の存在に気付いたのは《火の精霊》だった。『バランベル』の中で渦巻いている敵意を察知し、ワクワクしていた。

 そしてリュウイチにだけ聞こえるように念話でその様子を教え続けていた。『バランベル』が最初に発砲した時なんかは踊り回らんばかりに狂喜していた。


 いよいよ、われの出番!!


『攻撃してきたぞ』『さあ、今度こそ本当に戦闘だ。』『敵はこの船のゴブリンたちより多いぞ』『さあ、われを解き放て!』『また撃ってきた』『やつら船をぶつける気だぞ』・・・と、リュウイチを散々けしかけ続けていた。


 戦況は《風の精霊ウインド・エレメンタル》も教えてくれていたから、リュウイチの頭の中は精霊二柱の言葉がワイワイガヤガヤでやかましいことこの上ないくらいだった。


 そして今、リュウイチは後甲板まで出てきた。

 《火の精霊》はすぐにでもリュウイチから攻撃許可が得られるものと期待をたぎらせ、即座に炎の魔人イフリートへ変じて『バランベル』に襲い掛かれるよう、『ナグルファル』後甲板でその身を前段階である巨大な火柱へと変化へんげさせた。



 急に背後からの強い光と熱気を感じたルクレティアは振り返って驚いた。


「リュ、リュウイチ様!?」


 《暗黒騎士リュウイチ》の戦闘への介入は何としても阻止しなければならないが、ヘルマンニに対する治癒魔法を止めるわけにもいかず何もできない。いや、ヘルマンニと《暗黒騎士》の戦闘阻止では後者が優先されるべきである。

 だが、ルクレティアが治癒魔法を中断する前に、ちょうど前甲板から駆けつけたクィントゥスが巨大な火柱と化した《火の精霊》とその脇に佇むリュウイチを目にとめるやいなや慌てて駆け寄り、膝をついて制止を試みた。


「リュウイチ様!どうか御平おたいらに!!」


 それ以外の船員や盾持ち以外の兵士たちは腰を抜かさんばかりに驚き、ただ目の前で起こっている事に圧倒されてしまっている。

 それは今朝、アルビオンニウムの廃墟から見上げたケレース神殿に立ち昇る火柱と同じもののように見えた。



「やめれ。」


 その冷静な一言と共にリュウイチの右手が《火の精霊》を叩いた。


『ぐはっ』


 物理攻撃が通じない筈の《火の精霊》だったが、その一撃によって変身をくじかれてしまう。各種属性攻撃無効化と各種属性防御無効化のスキルの影響だろうか・・・リュウイチのは精霊にモロに効き、《火の精霊》は瞬く間に元の姿に戻った。


『な、何をする!われはただ・・・』


 狼狽うろたえる《火の精霊》に対し、リュウイチはあくまでも冷静だった。


「お前が大きくなっちゃったらこの船ナグルファルのロープとか帆とか燃えちゃうでしょ?」


『だからってまた戦わんつもりなのか!?

 敵だぞ!』


「ここの人たちが反撃してないんだから、何か事情があるんだろ?

 お前みたいにすぐ反撃しちゃう奴は一番危ないんだぞ?」



 自衛隊が初めて国連のPKO活動に出される時だったか、人選の際に実施されたアンケートで「攻撃を受けたらどうするか?」という質問に「即座に反撃する」と答えた隊員については「こういう奴が一番危ない」と真っ先に跳ねられたって話が当時のTVドキュメンタリー番組で報道されていたのをリュウイチは思い出していた。



 なるほど、アレってこういう奴ファイア・エレメンタルの事なんだな。


『ひ、火は元々危ないもんだわい!!』


 子供みたいに抗議する《火の精霊》を無視して、リュウイチは周囲に向かって話しかけた。


『ああ、驚かして済みません。

 《火の精霊こいつ》が勝手に舞い上がっちゃっただけです。』

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