第72話 アルトリウシア湾海戦
統一歴九十九年四月十日、午後 - ナグルファル船上/アルトリウシア湾
湖のような静かな海面を突き進むロングシップ『ナグルファル』の
「
バカ、
そんなもの、使わないぞ!?」
その様子を尻目にクィントゥスは
テントと船尾楼の間の後甲板にいた軍団兵の何人かは先ほどの砲撃による水柱に気付いており、何やらざわめいていたがクィントゥスの姿に気付くと気まずそうに急に口を閉ざす。
「クィントゥス様、何かあったのですか?」
船尾楼の
「いえ、何でもありません。
ですがそろそろ港が近くなり他の船も航行しています。
心苦しくはありますが、リュウイチ様には人目につかぬよう
クィントゥスは船尾楼まで登ると一旦そこにいた一同を見回し、ルクレティアに向かってそう言った。彼も
ルクレティアはクィントゥスの態度に何となく釈然としない物を感じたが、そこから具体的な何かを察することもできなかったので「わかりました」と素直に応じた。
ルクレティアがリュウイチにテントに入るよう促している間、リュウイチはクィントゥスをジッと眺めており、クィントゥスは何やら後ろめたいモノを感じさせられたが、リュウイチは特に拒むようなことはせず『わかった』とだけ言った。
ただその後、テントに向かう途中でクィントゥスのすぐそばを通り過ぎる際にふと立ち止まり、クィントゥスをドキリとさせた。
『世話になる身ですからできるだけ協力はします。
何かあるなら遠慮なく言ってください。』
リュウイチはそう言ってニッと笑うと、そのままルクレティアに導かれるままテントへ入って行く。
何か気付いているのか?そう思わずにはいられない。
ただ、船尾楼からは帆が邪魔で前方の様子は全く見えない。『バランベル』号の姿も、アルトリウシアから立ち昇る煙も、まったく。
大丈夫だ、多分。
いや、気づいてるだろうか?
仮に何かに気付いていたとしたなら、あれは多分すべてを任せるという意味だ。
なら大丈夫、大丈夫なはずだ。
「
背中に嫌な汗がつたうのを感じながらテントへ入っていくリュウイチを見ていたクィントゥスは、背後からヘルマンニに突然大きな声をかけられて飛び上がらんばかりに驚いた。
「!!・・・ヘルマンニ殿、驚かさないでください。」
「驚かすも何も、ワシャずっとここにおったじゃないかい。」
自分と言う存在を忘れ去られていたような気がしてヘルマンニは少し嫌な気になった。ブッカの族長でありセーヘイムの
「そうですけど・・・すみません、いきなり話しかけられたものですから。」
「歌でも歌ってろってのか?」
「いえ、すみません。」
「それはそうと
クィントゥスは声を小さくして話そうと思ったが、ヘルマンニの耳がだいぶ遠くなっている事を思い出し、ヘルマンニのそばに寄って耳打ちするように話しかけた。
「前方、何があったか分かりませんが、アルトリウシアが燃えています。」
「アルトリウシアが!?」
思わず大声を出しそうになるヘルマンニに対し、クィントゥスは人差し指を立てて口に当て、静かにするよう合図してから話を続けた。
「何があったか分かりませんが、見渡す限り煙が上がってます。
ああ、セーヘイムは大丈夫そうですが、少なくともアンブースティアからアイゼンファウストまで全域から煙が上がってます。」
どうやら深刻な事態が生じているらしい事を理解したヘルマンニは表情を硬くし、声を低くした。
「なんじゃそら、大火か?」
「詳細は分かりません。
ですが、前方から『バランベル』号が来てます。」
「ああ!?
あのオンボロがぁ?」
ヘルマンニはあのガレアス船が嫌いだった。思わず素っ頓狂な声を出してしまう。
クィントゥスは慌ててテントの方へ一旦視線を送ると、再び人差し指を口に当ててヘルマンニに静かにするよう促した。
「ええ、で、先ほど『バランベル』から砲撃を受けました。」
「!!・・・さっきの水柱がそうか?」
「はい。」
「で、どうすんじゃ?」
ヘルマンニ本人にその自覚は無いだろうがクィントゥスには心なしかヘルマンニの目が輝き、声も喜色を帯びているように感じられた。
「今、我々はリュウイチ様を御運びしています。
間違ってもあの《
ですから、サムエル殿には戦闘を避けるようにお願いしました。」
「戦闘を避けるって、もう撃たれとるじゃないか?」
「ええ、ですが、だからといってリュウイチ様に戦闘させるわけにはいきません。」
「そうじゃろうのぉ・・・じゃあ、どうする?」
「サムエル殿に一任しました。」
それじゃ答えになっとらんだろう・・・とヘルマンニは呆れたが、同時に息子の力量を試す機会かとも内心で思い始めていた。
「
「軍団兵に盾を構えさせて船とリュウイチ様を御守りしつつ、『バランベル』号をどうにかするつもりのようです。」
「どうにかとは?」
「そこまではわかりません。」
「ふーん、わかった。
大砲は?」
「・・・極力撃たない方向でお願いします。」
「反撃するなと?」
「・・・リュウイチ様に気付かれない様にお願いします。」
ヘルマンニは顔を
クィントゥスはそれに気づかないふりをして「じゃあ」と後甲板へ降りて行き、そこにいた軍団兵たちにも前甲板に居た兵士に出したのと同様の指示を出した。
それを受けて後甲板にいた軍団兵たちは前甲板の戦友たちから数分遅れで同じ作業を始めた。
その頃、船首楼のサムエルは『バランベル』を
火力は
これはもう逃げるしかないわけだが、帆が張りっぱなしで降ろせない。その上に、
かといって、『バランベル』を
アルトリウシアへ逃げ込むなら、
サムエルは『バランベル』と『ナグルファル』の間の海面を眺めた。
もう彼我の距離は最初の砲撃を受けてから半分ぐらいに縮んでおり、『バランベル』はまっすぐ
よし、やってみるか・・・。
「
「
サムエルが号令をかけると後方で水兵が次々と
過去最大の船体に相応しく大き目に作られた舵櫂は船速が速くなればなるほど強く水圧を受けるため、操舵には相応の力を要する。それでいて操舵席付近にはバカでかい
現在、最大船速の十ノットで疾走している『ナグルファル』の舵櫂は、ブッカの船乗りたちの間で怪力で知られている操舵手であっても、渾身の力を込めねば動いてくれないほど重くなっている。そして、操舵手はその力を船の向きが変わるまで維持しなければならないのだ。
意外にも大型ロングシップの操舵手は出来る人間の限られる重労働であった。
『ナグルファル』は軽く船体を傾斜させると、その巨体をゆっくりと右へ向きを変えていく。
その間、再び『バランベル』の船首楼が白煙に包まれた。
「また撃ってきた!!」
だが今度は『ナグルファル』のずっと前方に水柱が立ち上がり、その直後ぐらいに発砲音が
間違いない、やつら素人だ。
サムエルは確信した。
たとえ静かな湾内であっても多少の波は発生しているし、船もその波に合わせて常に揺れている。だから艦載砲は陸上砲とは違ってよほどの至近距離でない限り当たらない。
大砲というものは角度が一度でもズレれば、一キロ先では十七メートルも着弾点がズレてしまうものなのだ。精密な
船から遠距離で大砲を命中させようと思ったら船の動きに合わせて砲の姿勢を完璧に制御し安定させるか、船が水平になった瞬間に撃たねばならないだろう。だが正確な
つまり、遠距離砲撃で命中を期待する等、最初から無理なのだ。だからこそ、艦載砲は相手の船の乗員を
実際、『バランベル』は最初、船が船首を持ち上げた瞬間に発砲したため、大砲も上向きになってしまい砲弾はすべて
そして次の弾は火薬を減らした上に船首が沈んだタイミングで撃ってしまっていたから、大砲も下向きになってしまって全部手前の海面に
船乗りにとっては当たり前のことが分かっていない。てことは、乗ってるのはハン族か・・・ド素人め。なら、やれる。
サムエルはこれからやろうとしている事に対する自信を深めた。
最初、真正面よりやや右寄りに居た『バランベル』が右旋回によって十一時の方向に見え始めたのを見計らってサムエルは直進を命じた。
「
「
復唱によって命令が伝達され、舵が中央に戻される。
『バランベル』の左後方(『ナグルファル』から見て右側)には、『バランベル』に付き従う
「様子はどうですか?」
船首楼に戻ってきたクィントゥスが問いかける。
「多分、いけますよ。
『バランベル』の方を見つめたまま答えるサムエルの表情は背後からは見えないが、その声には自信が感じられた。
クィントゥスが『バランベル』を見ると、『バランベル』は『ナグルファル』に向かうべく左へ進路を変更しているところだった。
「盾を全部引っ張り出すのは間に合いそうにありません。
左側に並べればいいですか?」
このまま『バランベル』の右側をすり抜けるのだろうと予想したクィントゥスが尋ねると、サムエルからは真逆の答が返ってきた。
「いえ、
「右舷?」
「ええ、まあ見ててください。
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