第69話 燃えるアルトリウシア

統一歴九十九年四月十日、午後 - ナグルファル船上/アルビオン海峡



 アルビオンニウムの湾口から続く高さ五十ピルム(約九十三メートル)を超える白亜の断崖絶壁はアルトリウシア湾の北側を形成するアーレ半島の付け根辺りから少しずつその高さが低くなっていき、半島なかばあたりから西になると高さ四から九ピルム(約七メートル半から十六メートル半)ほどのどこにでもあるような灰色の岩肌を持つ岸壁が続くようになる。

 ここらまで来ると大陸側の陸地が大きく北へ離れていくため海峡幅もだいぶ広くなっており、東向きに流れる海流はかなり穏やかになる。


 一度低く下がって奥に広がる緑の大地を見せていた岸壁が再び高くなり、岩しか見えなくなったらもうアーレ半島先端のアーレ岬であり、そこから先はアルビオン海峡ではなく大南洋オケアヌス・メリディアヌムとなる。

 ここを北から南下してくる暖流の一部がアーレ岬にぶつかってアルビオン海峡を東へ向かうわけだが、アーレ岬より先へ進むと南へと進み続ける暖流の本流に乗ることになる。


 アーレ岬を左に眺めながら大きくぐるっと左へ旋回し、そのまま東へ進んでトゥーレ水道を抜ければアルトリウシア湾、そしてアルトリウシア湾の最奥さいおう東岸がアルトリウシアである。



 ヘルマンニたちは当初、海峡を出れば大南洋オケアヌス・メリディアヌムを行き来する交易船もあるので、もう目立たぬように精霊エレメンタルの加護なしに航行する腹積はらづもりでいたのだが、相変わらず帆は張ったまま《風の精霊ウインド・エレメンタル》の起こす風に頼っての航行を続けていた。

 速度記録挑戦の際にあまりにも強い風を長時間受け続けたため、あらゆる張綱はりづな策具さくぐに無理な力がかかって結び目が固く締まってしまい、ちょっとやそっとじゃ緩まなくなってしまったのだ。

 帆の向きを調節するどころか、帆の揚げ降ろしすらままならない。もう帆を降ろすには揚げ策ハリヤードを切るしかないのだが、そうするとアーレ岬を回って進路を東へとって進む際に帆を張りなおすことができなくなる。

 予備のロープが無いわけでは無いのだが、船体規模のわりに巨大な横帆おうはんを使うロングシップでは帆を降ろして張綱を交換する作業は結構な場所を必要とする。帆桁ヤードが船の全幅より長いので、甲板上で作業するには斜めにしなきゃならないし、他の策具も結び目が締まってしまって張綱の長さ調整が一切できなくなってしまってる状態では余計に場所を食う。

 甲板上に素人の軍団兵レギオナリウスがすし詰め状態になってる現状では色々不都合があってそんな作業やりたくなかった。


 それで結局、そのまま《風の精霊》の力を借りての帆走を続けようということになったのだった。

 幸い、見える範囲に船影は無く、目撃される心配はない。

 アーレ岬周辺の暗礁を避けるため、距離をとって大きく旋回する。



「あれがアーレ半島の先端、アーレ岬です。

 あれを目印に折り返し、アーレ半島の南側を東へ進めばアルトリウシアです。」


 ルクレティアが説明した。


『随分、距離をとるんですね。』


 リュウイチの疑問にはヘルマンニが答えた。


「あの岬の周辺には暗礁があるんですわ。

 このあたりは大南洋を北から海流が南下して来とります。

 アーレ岬にぶつかった海流はそのままアルビオン海峡へ流れ込むんですが、岬をかすめた一部は岬を巻くように流れますもんで、下手に船で近づいてその流れに捕まると、船が岩に叩きつけられちまうんです。」


 実際、ここで難破する船は少なくない。

 アーレ岬に灯台を造ろうという計画はあるが、最寄もよりの人家まで五マイル(約九・三キロ)以上離れていることもあって予算すら付けられていなかった。


 船がアーレ岬を回り進路を東にとると、右手には海上に浮かぶ山が見え始める。正確な測量は未だなされていないのだが標高はおおよそ百八十ピルム(約三百三十三メートル)、周囲およそ十五マイル(約二十八キロ)ほどと見積もられる島である。


「エッケ島です。

 あそこと左手に見えるトゥーレ岬・・・あの間を通り抜ければアルトリウシア湾ですわ。

 あの島も昔は海賊がみ付いていた時期がありましてな。

 あれには往生しました。

 レーマ帝国がアルトリウシアにカストルムを築いてから私らの村が襲われることは無くなりましたが、ここにおられたんじゃ漁も交易も安心してできませんでしたからな。

 先代のアルトリウシア子爵様・・・アルトリウス様の御父上ですな・・・それが傭兵を六百近くもかき集めましてな、私らも総出で手伝てつどうて総勢八百近い軍勢で攻めて追い払いました。

 もう十四・・・いや、十五年も前になりますかのぉ・・・あの島は天然の要塞だもんで、味方も大勢倒れたもんです。」


 ヘルマンニの解説は大きく脱線し、話題は彼の武勇伝へと発展する。

 普段は口下手なはずの爺さんの昔ばなしは少なからぬ誇張を含んでいたが、意外と軽妙でテンポがよく、少なくとも初めて聞くリュウイチを飽きさせることはなかった。興味深げに耳を傾けるリュウイチの様子に気を良くしたヘルマンニの戦談義いくさだんぎは絶好調だった。


「そいで主力は島の南側に兵を揚げましてな、数に頼んでの力攻めですわ。

 海賊の方は二百ばかり、我らが主力は五百かそこらですわ。

 数は倍はおりましたが、あっちは地形を巧妙に利用して陣地を張っておりましたからな、攻め手は三倍おっても攻め切れんような要害ですから、実は攻め手の方が不利だったんですわ。

 そこで一計を案じましてな、六十か七十しちじゅうほどの強者つわものを選んで島の北からこっそり揚げることにしたんですわ。

 北は御覧の通り断崖といそですからな、下手な船乗りじゃ近づく事もできません。

 そこで私らの出番ですわ。

 船の扱いに関しちゃ私らの右に出る者はおりませんからな。

 主力が南で総攻そうぜめをして海賊どもを引き付けとる間に、小舟で乗り付けて揚げさせたんですわ。

 そん時私らが運んで陸揚げした兵も元海賊でしてな、私らほどじゃありませんでしたが上陸の手際は中々のもんでしたわい。」


 ヘルマンニは島を指さして、あそこへ船を乗り付けただのあそこから山を登っただのと臨場感たっぷりに語って聞かせる。

 そうこうしているうちにナグルファルがトゥーレ岬とエッケ島に挟まれたトゥーレ水道を通り過ぎてアルトリウシア湾へ入ると、それまで大きくうねる様だった波は嘘のように急に穏やかになった。


「そいで主力が我が身を省みず不利を承知の無理攻めで敵を引き付けてくれておったおかげで、私らは海賊の本陣の背後へ回り込むことが出来たんですわ。

 あとは無防備な後ろから一気に攻められたもんだから海賊もたまらんですわ。あっという間に親分が捕まりましてな。

 海賊どももコリャかなわんと手を挙げた次第ですわ。」



 ヘルマンニの戦談義が盛況のうちに幕を閉じようとしていたころ、船首楼せんしゅろうで操船の指揮をとっていたサムエルは水平線の向こうに見えるアルトリウシアの異変に気付き始めていた。


 アルトリウシアの空が灰色にぼやけ、西山地ヴェルトリヒバーグが見えなくなっている。

 最初、それはアルトリウシアへ降り注ぐ雨であろうと思っていた。 

 しかし、距離が縮まりハッキリと見えて来るにつれ、次第に違和感が強まり、雨などではないという確信へと変わっていく。それを決定づけたのはウオレヴィ川付近から突如立ち昇った爆炎だった。


「アルトリウシアが・・・燃えている!?」


 地表の炎はまだ遠すぎて見えないし、かなりな広範囲から立ち昇る煙が一様に空を曇らせ、遠目には雨のように見えていたがその上空に雨雲など無い。上空にあるのはどう見ても雨など降らせそうにない薄雲だけだ。


「・・・若大将サムエル、どうします?」


「どうって・・・」


 これが海賊の襲撃なら海賊を見つけ出して戦い、追い払えばいい。

 だが、あれはなんだ?

 ただの火事があれだけ広範囲に燃え広がるなんて考えられない。あの火災で燃えている地域の間は大きな川が流れてるんだ。自然に川の対岸まで燃え広がるなんてあり得ない。アレは間違いなく人為的な火災だ。


 じゃあアレはなんだ?海賊の襲撃か!?

 あんな広範囲を火の海にするほどの規模の海賊がこの辺にいるなんて聞いたことも無い。


 じゃあ、南蛮サウマン軍の襲撃!?

 そんな馬鹿な、アルトリウシア子爵家はアリスイ氏族ともアサヒナ氏族とも婚姻関係を結んで以来良好な関係を保っている。アルトリウシア子爵領の南で領土を接するアリスイ氏族に気付かれる事なく他の南蛮氏族の軍勢がアルトリウシアへ襲撃できる可能性は無いし、アリスイ氏族がアルトリウシアを攻める事も考えにくい。


 正体は不明だがかなりな規模の軍勢であることは間違いない。

 軍勢!?

 そう、あれはきっと戦争だ。あそこで戦争が起こっているんだ。

 だがどうすればいい?戦う?

 今こっちナグルファル賓客リュウイチを乗せてるんだ。ホームが襲われてますからといっておいそれと戦闘に参加する事なんてできないぞ。

 どうすりゃいいんだ?


 サムエルは悩んだがいくら考えても正解は導き出せそうにない。こういう時は素直に相談すべきだ。

 サムエルは船首楼にいた水兵に命じた。


「クィントゥス殿をお呼びしろ!

 ここへ来ていただくんだ。」



「どうかなさいましたか、サムエル殿?」


 伝令に出した水兵を介しての呼び出しに応じたクィントゥスが船首楼に姿を現すまでにさほど時間はかからなかった。


「ああ、クィントゥス殿、大変です。見てください!」


 クィントゥスの顔を見てやや大仰おおぎょうに安堵の表情を浮かべたサムエルは前方を指さした。


「・・・あれは!?」


 クィントゥスは示された先に見える筈のアルトリウシアが普段とは明らかに異なる様相を呈している事に気付き表情を曇らせた。


「アルトリウシアが燃えています。」


「燃えている!?」


 サムエルの説明にクィントゥスはあからさまに顔をしかめる。そんなことは見れば分かる。説明するならもっと詳細を説明して欲しい。


「さっきは爆炎が上がりました。ほら、またアソコ!!」


 確かに煙と炎が噴きあがるのが見えた。


 いったい何がどうなればあんな炎が噴きあがるんだ?火薬を爆破させたってあんな風にはならないし、ただの火災であんな炎の噴きあがり方はしない。

 ひょっとして《火の精霊ファイア・エレメンタル》が発生して暴れ出したのか?


「あれは、海軍基地カストルム・ナヴァリアのあたりですか?」


「おそらくそうでしょう。

 でも、燃えてるのはアルトリウシア全部みたいです。」


 さっきからお互いに見れば分かる程度の事しか言っていない。


「どうなってるんです?」


「わかりません。でも、どうしましょう?」


「どうしましょうって・・・何がどうなってるか分からないんじゃあ何とも・・・」


「分からないから状況を知るためにも行くしかないとは思うんですが・・・ほら、今この船はお客さまリュウイチを乗せてるじゃないですか?

 行っちゃって良いモノかどうか・・・」


「ああ、そういうことですか。」


 ここへ来てようやくサムエルが何故自分に話を持って来たのかクィントゥスは理解した。同時に、あまりにも想定外の出来事で何をどうしていいか頭が回らなくなっている自分自身に気付いた。


 確かに、賓客ひんきゃくを自宅に招待するように言われ、いざ連れてきたら自宅が燃えていたなんて状況に易々やすやすと対応できる人間なんてまず居ないだろう。

 消火作業もしたいがそれよりも賓客の安全も確保しなきゃならないし、それだけじゃなく失礼があってもいけない。しかも、今乗っているのは船だ。

 賓客の安全を確保するためには陸に近づくわけにはいかないし、かといって陸に近づかなきゃ消火活動どころか状況の把握すらできない。

 サムエルが悩むのは当然だったし、クィントゥスにしても簡単に答が出せるわけではなかった。


若大将サムエル、船が来ます。」


 見張り員の一人がアルトリウシアからこちらへ向かって来る船団を見つけ報告してきた。見ると大きなガレアス船が一隻と、貨物船クナールが七隻がこちらへ向かって櫂走しており、どうやらアルトリウシアから出港してきたようだった。


「サムエル殿、ひとまず彼らなら状況を知っていよう。彼らに訊いてみよう。」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る