第68話 バランベル号出港

統一歴九十九年四月十日、午後 - バランベル船上/アルトリウシア



 出港準備作業が最終段階に入った『バランベル』号船尾楼せんびろうの『玉座ぎょくざ』では、ハン族をべるエラクムズクが弟オクタルの死の衝撃から立ち直ろうとしていた。


「オクタルの遺体はどうなっておる?」


 ムズクの下問をディンキジクが中継する。


「ドナートよ、王弟オクタル殿下の御遺体はいかがしたか?」


おそれながら、未だ現地に・・・」


 この回答にはディンキジクも驚き、再度問いただした。


「回収しなかったのか!?」


「ハッ、生存者の過半数が負傷しておりました故、その収容で手一杯で・・・」



 ドナートが部下と共に海軍基地カストルム・ナヴァリアの正門へ戻った時、生きているゴブリン兵で歩ける者は土塁どるい上に居た兵も含めて二十人と居なかった。しかも歩ける者の中には負傷により目の見えなくなった者や、爆音で耳をやられた影響で平衡感覚へいこうかんかくがマヒし、まっすぐ歩けなくなってる者も居た。

 ドナートたちはダイアウルフから降りて全く歩けない負傷兵を乗せ、かろうじて歩ける負傷兵を担いだり肩を貸すなどしてようやく全員での撤収を果たしていた。

 オクタルが死んでしまっていた事には当然気づいていたが、その遺体を運ぶ手段も人手もなく、どうにもできなかったのだった。


 ドナートの回答をディンキジクがムズクへ中継する前に、イェルナクが再び吠えた。


「このたわけが!!

 おそれ多くも王弟オクタル殿下の御遺体より下民ゴブリンごときを優先させたと申すか!?」


 これまでのイェルナクの叱責や罵倒は事実誤認に基づくものだった。

 だからこそドナートも何でもないとでもいう風に受け流すことが出来ていたが、こればかりは否定のしようのない事実だったし、ドナート自身もオクタルの遺体を放置してくることに少なからぬ罪悪感を抱いていた事もあり、イェルナクの叱責はドナートの心にモロに突き刺さった。


「ハッ、申し訳ございませぬ。」


 ドナートの謝罪にイェルナクが更なる追い打ちをかけようとした寸前、ムズクがイェルナクを制した。


「イェルナク、よい!」


「よいではありませぬ、王陛下!

 この者ドナート王弟オクタル殿下の御遺体を・・・」


「良いのだ、イェルナク!

 今、我らはこの呪われた地に来て以来十分の一にも減ってしまっているのだ。

 平民ゴブリン貴族ホブゴブリンの別なく、生者は一人でも惜しい。

 この者ドナートの行いに間違いはない。」


「しかし陛下!」


「言うな!

 ・・・ディンキジクよ、今からオクタルの遺体を収容する事は可能か?」


 食い下がるイェルナクを退しりぞけたムズクはディンキジクに向き直って問いかけた。

 イェルナクの罵倒が停まった事に一瞬安堵を覚えたディンキジクだったが、同時に彼の忠節を尽くすべきエラクからの問いに対し残念な答えしか用意できない事には忸怩じくじたる思いを抱かざるを得なかった。


おそれながら陛下、それはかないませぬ。

 我らはこれから何日続くやもしれぬ航海に出るのです。御遺体に防腐処理を施すこともできませぬのに、御遺体を船に御乗せしては王弟オクタル殿下が不死者アンデッド化してしまう恐れもございます。」


「せめて、出港前にとむらってやることは出来ぬか?」


「残念ながら時間がございませぬ。

 もう急いで出港せねば、日のある内にアルトリウシア湾より脱する事はかないませぬ。」


 ディンキジクがそう答えるとムズクは黙って天井を仰ぎ目を閉じた。唇がわずかに震えているのをムズクの忠臣たちは見逃さなかった。


 この世界ヴァーチャリアでは死体を放置し腐敗が進むとゾンビ化してしまう。腐敗とゾンビ化には密接な関係があるとされ、同じ放置するにしても寒冷地や湖沼の底など腐敗が進みにくい環境ではゾンビ化しない。また乾燥しきった砂漠でもゾンビ化しない。


 ゾンビ化を防ぐためには何らかの方法で防腐処理を施すか、焼いて灰にするか、地中深く・・・少なくとも一ピルム(約百八十五センチ)以上深くに埋めてしまわなければならないとされている。


 今の彼らにはそのいずれの方法も採ることが出来なかった。

 防腐処理を施す技術は彼らには無かったし、遺体を焼却する時間も墓穴を掘る時間も無かった。第一、海抜ゼロ地帯に建てられた海軍基地カストルム・ナヴァリアの周辺はどこであろうと半ピルム(約九十三センチ)ほども掘らない内に海水が染み出してくるのだ。一ピルムも穴を掘るなんてとんでもないし、染み出た海水に浮きあがらないように死体を沈めて埋めるのも手間だ。高貴な王族の遺体を棒で水底みなそこへ押し付けながら土をかけるなど、想像するだけではばかられるものがある。

 そしてハン族には水葬すいそうという文化も知識も無かったし、アルトリウシア湾は水葬するには浅すぎた。


 また、あまり遅くまでとどまっているとアルトリウシア海軍セーヘイムのブッカたちの反撃を受ける危険性が想定されていた。

 海軍基地にある接収した以外すべての船は壊すか焼くかしたが、まだセーヘイムの港には漁船や貨物船が数多く残っている。

 ブッカたちがそれらを使って攻めてきたとして、昼間なら『バランベル』号の大砲で蹴散らすこともできるだろうが、船の扱いに不慣れなハン族が夜間の洋上で襲撃を受ければ、それがまともな軍船でなかったとしてもただでは済まない。

 ブッカたちの夜襲を防ぐためには日のある内にアルトリウシア湾外へ出るしかない・・・それが脱出成功のための絶対条件と考えられていた。



「オクタルよ・・・済まぬ。そなたを置いていく不甲斐ないムズクを許してくれ。」


「陛下、御心痛お察し申し上げます。」


「ディンキジク、そしてイェルナクよ、オクタルとその部下たちの死を無駄にしてはならぬ。

 速やかに出港し、新天地へ向けて船をぎ出すのだ。

 ドナートよ、そなたに落ち度はない。

 残った兵をまとめ、良く帰ってきてくれた。これからの戦働いくさばたらきも期待する。

 追って褒美をとらすゆえ、下がって今日は休むが良い。」


「「「ハハッ」」」

 


 ガレアス船『バランベル』号を先頭に、接収した大小の貨物船クナール七隻が海軍基地の船着き場から離岸りがんした。最後の一隻が離岸する際、海軍基地に火がかけられた。

 基地内にあるすべての建物には油や火薬樽かやくだるが仕込まれている。建物の周りも藁束わらたば帆布はんぷ、薪といったが積み上げられており、同時に建物同士をつなぐようにもは置かれていた。一つの建物に火が付けば、そのを介して隣の建物へ火が燃え移るように・・・


 最初に水兵が立てこもっていた建物はとうに屋根が焼け落ちており、レンガの壁を残して燃え尽きようとしつつあったが、それ以外の建物はこれから数時間遅れで同じ運命をたどろうとしている。

 目論見では火災は基地全体にゆっくり、だが確実に広がり、紅蓮ぐれんの炎が基地内各所に仕掛けられた火薬を爆発させる前には、ハン族の船団はウオレヴィ川を下ってアルトリウシア湾へと達することができている筈であった。


 八隻の船の漕ぎ手たちは全員、今日、海軍基地城下町で人狩り部隊によって捕らえられた住民や水兵たちである。

 中には怪我人もいたが、ゴブリン兵達は剣や短小銃マスケートゥムで脅して彼らをまるで奴隷か徒刑囚とけいしゅうのように扱い、櫂を漕がさせ続けた。



 『バランベル』号出港は予定より二時間ちかく遅れていた。

 それでも夕方というにはまだ日は全然高く、日没の一時間以上前にはアルトリウシア湾から出る事が出来る筈だった。


 レーマ帝国の支配を脱し、ハン族の誇りと自由を取り戻す。


 大きな犠牲は払わされたが、その崇高な目的は達成されつつある。

 ウオレヴィ川の河口からアルトリウシア湾に出た時、『バランベル』号の周囲に配置された旋回砲の射程圏内に船舶は存在しなかった。


 日のある内にアルトリウシア湾から出てしまえば、もう『バランベル』号の行く手を阻む敵は存在しない。

 アルトリウシア海軍の軍船は全てアルビオンニウムへ行ってしまっていて、あと二日は帰ってこない筈だったし、セーヘイムに残された小舟では外洋までは追ってこないだろう。


 ハン族は、勝利したのだ。



 アルトリウシア湾へ漕ぎだしたハン族の勝利を祝うかのように、海軍基地では建物が次々と大爆発を起こしはじめていた。

 延焼を促進するように火薬樽の上や周囲に置かれていた油壺あぶらつぼ油樽あぶらだるが爆発によって吹き飛び、火災の炎で予め熱せられていた油は上空で着火して火柱を作り出す。そして次の瞬間、引力に従い上空から炎の雨となって周囲に降り注いでいった。

 ヨルク川からセヴェリ川の間にある見渡す限りすべての街が燃え、空に向かって盛大に煙を噴き上げる様は壮観そのものだ。


 船上のハン族はこれを花火のように見あげ、歓声を上げて喜んだ。その陰でハン族以外の者たちは地獄の業火を連想し絶望に打ちひしがれた。



 しかし、ハン族のその歓喜の時は一時間と続かなかった。

 水平線上、アルトリウシア湾口付近に一隻の船影を発見した見張り員がもたらした報告は、『バランベル』号船上のすべてのハン族に冷水を浴びせるものだった。


「『ナグルファル』号だと!?」


 船尾楼の甲板上から王族とともに炎上するアルトリウシアを眺めてこれまでの留飲りゅういんを下げていたハン族の貴族や将校たちは、報告に驚愕したディンキジクが思わず漏らした一言によって一気に顔を青ざめさせた。


「ディンキジクよ、どうした?何があった!?」


 ざわめく一同を代表するように、ムズクが訊ねる。

 これまで積み重ねてきたエラクとしての威厳いげんを保つ努力はこの状況でもなお彼に堂々とした立ち居振る舞いをとらせてはいたが、その声色ににじ狼狽ろうばいを隠しきることまでは出来なかった。


「はい、見張り員が・・・前方に船影を発見しました。

 それが、どうやら『ナグルファル』らしいのです。」


「馬鹿な!『ナグルファル』はアルビオンニウムに行ったはず。

 帰ってくるのは明後日以降ですぞ!

 今朝アルビオンニウムを発ったとして、どれだけ急いだって明日までは帰ってこれるはずがない!

 その見張り員の見間違いではないのか!?」


 ディンキジクの報告に激しく反応したのはイェルナクだった。

 アルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアの主力が船でアルビオンニウムへ行ってしまうという情報を持って来たのは、他でもないイェルナク自身だった。

 そして、その情報があったからこそ、ハン族は今日と言う日を選んで蜂起ほうきしたのだ。

 ここでアルトリウシアの艦隊が現れでもすれば、彼らの計画はすべて瓦解する。


「わからん。だが、大型船が一隻、前方に居る事だけは確かだ。

 行って確認してくる。」


「まて、私も行く!」


 ディンキジクとイェルナクは連れ立って船首楼せんしゅろうへ向かって走って行った。

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