第67話 進路、アルトリウシア

統一歴九十九年四月十日、午後 - ナグルファル船上/アルビオン海峡



 駿馬や戦車チャリオットに乗ったとしても体験することのできない程の速度で周囲の景色がまるで後方へ飛んでいくかのように流れていく。

 強風も水しぶきも冷ます事の出来ない熱気に包まれた『ナグルファル』の甲板上では、今まさに自分たちが体験しているこの未知の領域を記録にとどめようと、船速の計測が試みられようとしていた。



 計測一回目・・・ハンドログを持っていた船員が手を火傷したため計測失敗。

 ハンドログのロープはリールに巻かれており、使用する際はリールの両端から出ている軸棒を両手で持つのだが、ロープを引っ張られる速度があまりにも早く、軸棒が高速で回転したため持っていた手が摩擦熱で火傷してしまったのだった。

 手を火傷した船員はついリールを手放してしまい、あやうくハンドログが丸ごと海へ流されそうになったところで近くにいた船員が転がるリールとロープを踏んづけて抑えたので、寸でのところでハンドログは失われずに済んだ。

 手を火傷した船員は後でルクレティアの治癒魔法による手当てを受けることになった。


 計測二回目・・・今度はハンドログを保持する船員は火傷しない様に革手袋をはめた。

 今度こそと万全を期して計測開始したが、水時計の水が抜けきる前にハンドログのロープが伸び切ってしまった。

 ハンドログは帆船用の速度計測器である。そして帆船なんてどれだけ頑張ったところで二十ノット(時速約三十七キロ)も出ないのだ。

 《レアル》世界での帆船の最高速度記録はリュウイチがこの世界ヴァーチャリアに来る前の時点で六十五ノット(時速約百二十キロ)だったが、それは実用性を完全に無視した一人乗りの速度記録挑戦用のヨットで波のほとんどない海面を走って出した記録だ。実用帆船としては十九世紀末から二十世紀初頭のカティ・サーク号やサーモピレー号が有名だが、どちらも二十ノットの壁を超えるところまではいっていない。

 そして、この世界ヴァーチャリアの帆船は未だに十五ノット(時速約二十八キロ)の壁を超えられないでいる。


 このような世界で使われているハンドログであるから、ロープの長さが二十ノットまでしか対応してないのだった。

 付け加えると、現在『ナグルファル』の周辺は《水の精霊アルビオーネ》の加護により潮目が追い潮になっているため、ハンドログのログシップをその外側へ投げ込まねばならず、計測開始の時点で一ノット分余計にロープを流さねばならなかった。

 つまり、十九ノット(時速約三十五キロ)までしか計測できない。


「どうする親父ヘルマンニ?」


「水時計の水が出切ったのはハンドログが伸び切ってだいぶ経ってからだった。

 これじゃあ目安にもならねぇ。

 少なくとも十九ノットは出てるってことでええんじゃないか!?」


「こいつぁ十九ノットどころじゃねえぞ!

 何か悔しくねぇのか親父ヘルマンニ、せっかくスゲェ速度が出てんのに、何ノット出てるか分かんねぇんじゃ自慢のしようがねえや!」


 豪風の吹き荒れる後甲板でヘルマンニ親子が大声で話しているとクィントゥスが加わってきた。


「水時計の水を半分にしてはいかがですか!?」


 甲板上で強風に耐える軍団兵レギオナリウスを気遣ってそろそろ止めてくれと言いに来たのかと思いきや、酔狂にもヘルマンニ親子へのアドバイスをしに来たのだった。


「水時計の水を半分に!?」


「そうすりゃ時間が半分になるでしょ!?

 測った速度の値を二倍にすれば今の道具でも測れるんじゃないですか!?」


「そりゃいい考えだ!

 サムエル!やるぞ!!」


「わかった、親父ヘルマンニ!」


 一旦水時計に規定通りの海水を入れ、その後水時計の下に空の桶を置いて水を抜く。そしてもう一つ用意した空の桶で水を受け、それを半分に分けて水時計に入れなおした。

 目分量で分けたから正確ではないが、この際仕方が無い。


 そしていよいよ三回目の計測・・・結果は十五ノットと四分の三だった。

 計測時間は半分だったので計測値を二倍した値が現在の船速ということになるので、三十一・五ノット(時速約五十八キロ)出ていることになる。それはこの世界ヴァーチャリアの船乗りが誰も破った事のない十五ノットの壁・・・それに倍する速度を叩き出したことを意味した。

 ブッカたちの興奮は最高潮に達した。今彼らは世界最高の頂へ到達したのだ。

 その興奮冷めやらぬ中、さらに二回の計測が試みられた。


 二回目・・・三十一ノット(時速約五十七キロ)。


 三回目・・・計測中にハンドログの先についていたログシップが壊れてしまった。

 木製のログシップが古くなっていた事もあって、三十ノットの水圧に耐えられずに割れてしまったか、あるいは何かの漂流物に当たってしまったのかもしれない。

 いずれにせよ最高速度の計測はそれで終了となった。


 水時計の使い方が変則的で計測時間の正確性を担保できないため、計測結果に対する信頼性はあまり高くは無いのだが、それでも三十ノット(時速約五十六キロ)に達していたであろうことはほぼ間違いなかった。

 ブッカたち船員は歓声を上げて喜び、ヘルマンニは《水の精霊アルビオーネ》と《風の精霊》に感謝を捧げるとともに、《風の精霊》に頼んで風を弱めてもらった。



 風も船足ふなあしも落ち着いたところで、船尾楼せんびろう下の大砲の間で身を寄せ合って風を防いでいたルクレティアとヴァナディーズへクィントゥスが声をかけた。


「ルクレティア様、ヴァナディーズ女史、もう出ても大丈夫ですよ。」


「もう終わったのですか?

 まだ、風が強いようですが・・・」


 不安げに立ち上がるルクレティアに手を貸しながらクィントゥスが続けた。


「ええ、そこで相談なのですが、ヘルマンニ殿はこのままアルトリウシアへ行ってしまおうとおっしゃっておられるのですが、ルクレティア様の御意見を伺いたいと存じまして・・・」


「このままアルトリウシアへ?

 《海賊洞窟スペルンケム・ピラータ》へ一泊するのではなかったのですか?」


「実は既に《海賊洞窟》は通り過ぎました。」


「!?」


 アルビオンニウムからアルトリウシアへアルビオン海峡南側を直行する場合、どうしても櫂走するしかないのだが、アルビオンニウムから海峡出口までは距離がありすぎて一気に進むことは出来ない。

 ロングシップは櫂走でも短時間なら八ノット(時速約十五キロ)近く発揮できるが、そんな高速が出せるのはぎ手の体力上の限界からせいぜい半時間程度だ。一時間乃至ないし二時間で漕ぎ手を交代させながら頑張ったとしても長時間安定的に発揮できる速度はせいぜい五ノット(時速約九キロ)といったところである。


 しかしアルビオン海峡の南側には東へ向かって二、三ノット(時速約四~六キロ)の海流が流れているため、外洋航海可能な櫂船としては高速な部類に入るロングシップといえども頑張っても二、三ノットしか出せず、日の出前からアルビオンニウムを出港したとしても日没までに海峡出口に到達することなど出来ないのだ。


 そこで途中にある《海賊洞窟》で一泊する。

 アルビオン島の北岸、白亜の岸壁に開いた船が丸ごと出入りできるほどの巨大な鍾乳洞で、アルビオンニウムと海峡出口の丁度中間あたりにあり、かつてそこを根城にしていた海賊が退治されてからはアルビオン海峡を航行する船舶の休憩所兼避難場所になっている。


 しかし、アルビオンニウムから《海賊洞窟》まででも結構な距離があり、風も海流も穏やかな日で五時間以上かかる。アルビオンニウムを昼に出たなら、日没前にたどり着ければラッキーなくらいの位置関係だ。


 『ナグルファル』はアルビオンニウムを昼すぎに出航しており、まだ日は傾いていない。なのにとうに通り過ぎたという・・・驚かない方がおかしい。


 唖然とするルクレティアをそのままに、クィントゥスは続けた。


「これから《海賊洞窟》へ引き返すのもなんですし、時間もまだ早く船足も余裕があるので、おそらくこのまま直行しても日が暮れるまでにアルトリウシアへ入港できそうだと・・・ヘルマンニ殿がおっしゃっておられるのです。」


 クィントゥスがルクレティアに説明している間、ヘルマンニたちは現状での速度を計測していた。壊れてしまったログシップの代わりにロープの先に木桶を結び付けて応急修理したハンドログを使って速度を計測したら十二ノット(時速約二十二キロ)だった。

 通常ならどれだけ頑張っても十ノット(時速約十九キロ)も出ないロングシップ『ナグルファル』にとっては、これでも十分すぎるほど高速である。

 アルトリウシアからアルビオンニウムへ向かう際、海流と風の両方を受けたとしても『ナグルファル』は過去十ノットまでしか出したことが無い。

 海峡出口までこの速度を維持できるのであれば、ヘルマンニらの間隔ではアルトリウシアに入港するのは日没前かちょうど日没ぐらいか・・・いずれにせよ明るいうちには入港できそうだった。


 《海賊洞窟》へ寄らないで済むのであれば、リュウイチへ提供する食事や今夜の寝所についての心配がなくなる。

 アルトリウシアにはアルビオンニア侯爵夫人もアルトリウシア子爵も居るのだから、貴人の接遇に必要な最低限度の準備くらいは容易に整えられる筈だからだ。


 ルクレティアに反対する理由は無かった。


「いいわ、ではアルトリウシアへ直行しましょう。」

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