アルトリウシア湾海戦

第64話 ドナート召喚

統一歴九十九年四月十日、午後 - バランベル船上/アルトリウシア



 基地カストルム外で活動していたハン支援軍アウクシリア・ハンのゴブリン兵は撤収を完了し、さらって来た住民ともども乗船作業を完了している。

 アルトリウシア全域を見渡しても人間同士の戦闘行為はすべて終息していたが、ここ海軍基地カストルム・ナヴァリアは脱出前の放火と爆破の準備作業が最終段階に差し掛かっており、担当する作業員ゴブリンが殺気だって駆けずり回る様は死者こそ出ないが戦場そのものと言ってよいものだった。


 脱出に使われる各船では攫われてきた住民たちや捕虜となった水兵たちに短小銃マスケートゥムや剣を突きつけ、無理やり所定の場所に座らせ、オールを握らせる作業が続いていた。

 そして『バランベル』号の甲板上では収容したはいいがあまりにも多すぎる負傷兵の手当てのため阿鼻叫喚あびきょうかんの地獄絵図が現出してしまっている。

 実際何人かは数人がかりで押さえつけられ、猿轡さるぐつわを噛まされて、負傷した腕を、脚を、切り落とすが施されていた。

 一応、切断手術前に痛み止めの薬と酒を飲ませてあるが、マンドレイクから作られた鎮痛剤は麻薬作用があり、幻覚、幻聴、嘔吐おうとといった副作用が強く出るため、絶叫したり舌を噛んだりしない様に猿轡を噛ませ、暴れない様に数人がかりで押さえつけねばならないという点では、薬の使用不使用にかかわらず同じである。当事者はもちろん、近くにいる者にとっても、それは地獄のような光景だった。



 太古の昔、ハン族のもとに降臨した偉大なる指導者の名を冠したガレアス船『バランベル』号の船尾楼せんびろうに設けられた『玉座ぎょくざ』はそうした外部の喧噪けんそうからは隔絶されていたが、降臨者バランベルがハン族へもたらした輝かしき栄光とは対照的な暗く重々しい空気によって満たされていた。


 レーマ帝国から離反し、誇りと自由を取り戻す。


 その目的は未だ遂げられていないにもかかわらず、支払った代償は想定を大きく上回るものとなっていた。

 アルトリウシア各所への放火による陽動ようどう海軍基地カストルム・ナヴァリアの制圧、ウオレヴィ橋とヤルマリ橋の破壊、そして海軍基地城下町カナバエ・カストルム・ナヴァリアでの人狩り・・・それらに投入された兵力は将兵合わせて三百に達する。五百名に満たないハン支援軍アウクシリア・ハン残存兵力のうち出港準備や海軍基地制圧といった並行して行わねばならない作戦へ投入する戦力を除けば、事実上ハン族の全戦力だった。

 にもかかわらず、投入した戦力の四割がたった半日でうしなわれてしまった。そして、その犠牲者の中には族長エラクであるムズクの弟オクタルまでもが含まれていたのである。



「・・・オクタル!!」


 報告を聞いたムズクは目の前が急に暗くなるのを感じた。


「王陛下!お気を確かに!!」


 ムズクが頭を抱えると、それまで玉座のかたわらで杖のように突き立てられていた両刃斧ラブリュスは、柄に乗せられていたムズクの手という支えを失い床に倒れた。

 分厚い絨毯が敷き詰められていたため小さな音しか立たなかったが、同室していた側近たちを慌てさせた。


 それは罪人の首を斬り落とす正義と法の力の象徴であり、ハン族の王権の証レガリアとして作られ受け継がれていた物である。

 ハン族がレーマ帝国の軍門に降り、ハン支援軍アウクシリア・ハンの名を与えられて以来長らく封印されていたが、レーマの頸木くびきを脱するという象徴的意味を込めて、今日改めて封印を解かれムズクの手に掲げられたものだった。


 そばに仕えていたディンキジクは跪いて床に転がる両刃斧を拾い上げ、両手でムズクの前へ捧げたが、玉座に力なく身を沈めたまま焦点の合わない視線を床に落とすムズクはそれに気づくこともできないようだ。

 族長エラクの座を継ぐ以前から襲い掛かる危難の数々に容赦なく滅亡へと追いやられ続けるハン族の実態を見つめ続けたムズクの今の姿は、まだ三十代半ばだというのに弟の死と言う衝撃を受けて完全に力を失い、まるで老人のように老けこんで見える。

 玉座を挟んでディンキジクとは反対側に控えていたイェルナクが、ムズクをしてこのようにしてしまった報告を齎したアーディンに尋ねた。


「それで、敵はどうなった!?」


「は、退きましてございます。」


「ではここへ攻めては来ぬのか?」


「ドナートが申すには、城下町カナバエの火が消えるまでは攻めては来ぬであろうと・・・」


 アーディンはイェルナクからの下問かもんに、ドナートから聞かされていた戦況をほぼそのまま報告した。

 アーディン自身は伝令として『バランベル』へ戻り、オクタルの命じた通り出港準備が整うまで後方で待機していたのだから詳しい戦況は知らなかった。出港準備が整った事を告げに基地正門へ向かう途中で敗残兵を引き連れて後退してくるドナートとすれ違い、オクタルの死を知らされたのだった。


「ドナートとは何者だ?」


 イェルナクは眉をひそめた。それは聞き覚えの無い名前だった。この初老の男はハン族ではあるが、自身はホブゴブリンの貴族であり、ゴブリンを見下している。

 ハン支援軍の幕僚トリブヌスではあるが、財務や外部との折衝といった分野を担当しており、ゴブリン兵との接点を全く持たない。当然ながらゴブリン兵の顔や名前など誰一人として覚えてはいなかった。


「ドナートは騎兵隊長だ。

 今回はマニウス要塞カストルム・マニ襲撃しゅうげき隊を率いている。」


 王の膝元に両刃斧を頭を下にして立て、王の右手にその柄を握らせると軍事作戦の実務を担当しているディンキジクが立ち上がって説明した。

 ドナートを騎兵隊長にしたのは彼だった。


「騎兵という事は下民ゴブリンか、そのような者に何が分かるというのだ!?」


「たしかに彼はゴブリンだが、勘の良い戦士だ。

 戦場に在って冷静沈着、戦況を良く見極め、果断に大胆に行動する。

 そしてダイアウルフを良く乗りこなし、ダイアウルフも彼に従う。」


 汚らわしいゴブリンの名を聞かされたことに不快感を隠そうともしなかったイェルナクだったが、ディンキジクのこの一言には黙らざるを得なかった。


 ハン族においてダイアウルフを自在に乗りこなすのは一流の戦士の証とされる。そしてダイアウルフを従えるのは一流の将の証とされている。

 ダイアウルフは言葉こそ話せないが頭が良く、プライドが高く、たとえ貴族ホブゴブリンであっても並の者には決して従わない。指揮統率能力の優れた真にリーダーに相応しいと思う者にのみ従うのだ。

 そして、残念ながらイェルナクに従うダイアウルフはいなかった。ダイアウルフがイェルナクの言う事を聞くのは、戦場ではない場所で餌をくれる時に限られる。


「ど、ドナート・・・」


 ムズクの目は光無き闇夜を見つめるように彷徨さまよったままだったが、その口からは希望を見出したかのような響きを持ってドナートの名がこぼれる。


「は、陛下には御記憶がおありでしたか?」


 絞りだされるようなエラクの言葉に気付いたディンキジクが尋ねるとムズクはようやくその血の気の引いた顔をあげた。


「うむ、忘れるものか。

 かの惨劇の夜、ダイアウルフを駆って余を逃がし、甥のブラダを救った勇者であろう。」


「仰せの通りにございます。」


 ムズクの兄ルーアがハン支援軍を率いていたころ、やはりレーマ帝国からの離反を試みたことがあった。演習と称してアルトリウシアの南に広がる平野へ全軍で移り住んだ。そこは背の高いあしが生い茂り、遠目にはハン族が元々住んでいた懐かしの草原によく似ていた。

 しかし、いざ移り住んでみるとそこは湿原。至る所に川が流れ、池や沼が点在し、海面水位が高まると全体の半分が水没する。夏は蚊も多く、決して理想的な環境では無かった。

 最悪なのは、平野のすぐ南は南蛮サウマンのコボルト、アリスイ氏族の領域だったことだ。そして、ハン支援軍はうかつにもアリスイ氏族の領域に近づきすぎてしまった。

 ある夜、ハン支援軍のキャンプはアリスイ氏族の軍勢による襲撃を受けた。


 ハン支援軍将兵だけで約三千、家族も含めれば一万はいたはずのハン族は一夜にして過半数を殺され、バラバラに蹴散らされた。その時の族長ルーアも討ち取られてしまった。

 ダイアウルフとゴブリン騎兵は地獄のような混乱の中で奮戦し、ハン族を全滅の危機から救った。

 ドナートはその中の一人であり、混乱の中ではぐれてしまったオクタルの家族を探し求め、敵中を単騎駆たんきがけでオクタルの息子ブラダを見つけ出し、懐に抱えて脱出した英雄だった。

 ムズクはそのことをよく憶えていた。


「ドナートを、これへ」


「王よ!その者は下民ゴブリンですぞ!?」


 ドナートを召喚しようとするムズクをイェルナクがいさめた。

 高貴なエラクに卑しいゴブリンが謁見するなどもってのほか・・・ハン族の中にも厳格な身分制度が存在するのだ。

 だがムズクの気持ちは変わらなかった。


「よい、の者は余の恩人であり、ハン族のだ。

 謁見を許す。」


 ムズクの言を受け、ディンキジクがエラクの御前に控えていたアーディンにドナートを呼ぶよう命じると、アーディンはハッと返事をして退出し、イェルナクは顔をしかめた。

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