第65話 スピードへの挑戦

統一歴九十九年四月十日、午後 - ナグルファル船上/アルビオン海峡



 いつものアルビオン海峡らしい明灰色の雲に覆われた空の下、僚船の『グリームニル』『スノッリ』の二隻と別れた『ナグルファル』は北寄りの西風が吹き付ける中、帆をいっぱいに張ってアルビオン海峡南岸沿いを西へまっすぐ進んでいた。

 常識ではあり得ない事だった。

 アルビオン海峡はほぼ一年中西寄りの風が吹いているし、アルビオン海峡の南側は西の大南洋オケアヌム・メリディアヌムから流れ込む海流が東へ向かって高速で流れている。

 アルビオン海峡の南岸沿いを西へ進むという事は、風にも潮にも逆らって進むという事だ。


 風上に向かって帆船が航行すること自体は不可能ではない。縦帆じゅうはんで風を斜めに受けて、ジグザグに切り返していけば良いのだ。

 だが、風上に向かって真っすぐ進むことはさすがにできない。

 船の帆柱マストは帆が後方(あるいは横)から風を受ける事は考えられているが、前から風を受けることなど考えられてはいない。帆を張った状態で前方から風を受ければ、最悪の場合帆柱が折れてしまう。

 仮に帆柱が耐えたとしても、風を前方から受けるのだから船は後ろへ下がってしまう事になる。


 しかし、『ナグルファル』はその出来ない筈の事をやってのけていた。

 《暗黒騎士リュウイチ》が召喚した《風の精霊ウインド・エレメンタル》の力によって船の周辺だけ強い追い風が吹いていたし、海峡を司る《水の精霊ウォーター・エレメンタル》アルビオーネの加護により、『ナグルファル』の周辺だけは追潮おいしおが流れていたのだ。


 帆船は風を受けて進む。強く風が吹けばそれだけ速く進むことができる。

 この時、帆船の推進力に対して抵抗となるのが水だ。

 船の推進力は風速に比例して高まるが、水の抵抗は船の速度の二乗に比例して高まる。だからどれだけ風が吹いても、必ず水の抵抗によって速度は限界を迎える。



 では、水も船と一緒に流れたら船の速度の限界は無くなるのではないか?

 風と水、二柱の精霊エレメンタルの加護を受けたこの船ナグルファルの速度の限界はどれくらいなんだ?


 

 若きブッカ、セーヘイムの族長ヘルマンニの息子サムエルはその疑問を解き明かす機会を目の当たりにして好奇心を抑える事ができなかった。

 それを試したいとリュウイチや父親ヘルマンニに提案したサムエルのアルトリウスと同い年とはとても思えない子供みたいなキラキラした目は、その提案の内容と共にヘルマンニやクィントゥス、ルクレティアらを呆れさせた。

 ヘルマンニは神にも等しい海峡の乙女アルビオーネの加護や《風の精霊》の力を遊び半分で使う事に難色を示したが、リュウイチはあっさり『いいんじゃない?』と同意。かくして、《水の精霊》と《風の精霊》の力を最大限利用した場合、帆船がいったいどれくらいの速度を出せるかを調べる実験が始まった。


 帆柱マスト帆桁ヤード、帆、張綱はりづなといった策具さくぐが一度総点検され、異常があった場合に備えて要所々々に本職の船乗りたちが付くと《風の精霊》が徐々に追い風を強めていった。

 船足ふなあしに合わせて船の周囲だけ潮流も速くなり、船に合わせて西へ流れる潮とアルビオン海峡本来の海流とがぶつかって、船の外周に見た事も無いような波が立ち始める。

 やがて船の周囲の海面に異常な潮流が発生した。海峡の本来の海流をなしつつ船の周囲だけ追潮にするためであろう、船の左には反時計回りの、右には時計回りの渦潮が巻き始めたのである。

 渦の直径はおそらく六十ピルム(約百十一メートル)を超える巨大なものだ。それが船の真横五十ピルム(約九十二メートル半)に満たない所に並んでいるのだ。

 アルビオン海峡を日常的に行き来するベテランの船乗りだって、これほど巨大な渦潮にここまで近づくことは滅多にありはしない。それなのに巨大な渦潮に挟まれて航行してるのである。


「これが、海峡の乙女アルビオーネの加護か!!」


 ついに船は誰も経験した事のないような速度で海上を疾走しはじめた。

 陸を駿馬が全力で走ったところで今のこの船ナグルファルには到底追いつけないだろう。それほどの速度に到達していた。


「なんじゃあ、こりゃあ・・・」

「すげぇ!全くスゲェ!!」

「そっちはどうだぁ、まだいけるか!?」

後支策バック・ステイ異常なーし!!」

「左舷横静策シュラウド異常なーし!!」

「右舷横静策シュラウド異常なーし!!」

揚げ策ハリヤード異常なーし!!」

「右舷転桁策ブレース異常なーし!!」

「左舷転桁策ブレース下端策タックル異常なーし!!」

「右舷下端策タックル異常なーし!!」



 これまで経験した事のない速度に歓声を上げながらも、船乗りたちは定期的に己の担当する策具を点検し、報告する。

 《風の精霊》は更に風力を増していき、船足は伸び続ける。おそるべき精霊の力は未だに限界に達していない。

 限界は、誰も想定していなかったところに訪れた。



「もうそろそろええじゃろ!?」

「ああ、わかった、この辺で止めにしよう!!」


 声を張り上げるヘルマンニの呼びかけにサムエルが同意し、これ以上の加速は諦めることになった。

 リュウイチからヘルマンニの注文通りに風を吹かせるよう命じられていた《風の精霊》は、甲板から見あげるヘルマンニにわれるとこれを素直に聞き入れ、風を強くするのをやめて風力を現状のまま保つようにした。

 船はもう少しくらいは大丈夫そうだったが、甲板上の人間の方が先に限界を迎えたのだった。



 帆船は帆に受けた風の力のすべてを速力に変換できるわけではない。風速の三分の一か四分の一程度の速度しか出せないのが普通だ。仮に十二ノット(秒速約六メートル)ほどの風が吹いていたら、高性能な最新式のクリッパー船なら五ノット(時速約九キロ)くらい出せるかもしれないが、通常は三から四ノット(時速約六から七キロ)出れば良いぐらいだと言える。

 ましてや『ナグルファル』は一本帆柱マストに一枚の横帆おうはんを張っただけのロングシップなのだ。帆走性能は決して高くはなく、十二ノットの風が吹いたとしても四ノット(時速約七キロ)は出せない。


 いくら《水の精霊アルビオーネ》の加護で水の抵抗を減らせるとはいっても潮の流れを無制限に高める事が出来るわけではなく、アルビオーネはヘルマンニに対し、海中や海底の生物たちのためにこれ以上の潮流は作れないと念話で告げていた。

 それに精霊の力では帆の効率まで向上させることはできないのだから、アルビオーネが起こしてくれた潮流が船足に追いつけなくなって以降は船を加速させればさせるほど、甲板上に船速の三、四倍に達する風が吹き抜けるようになっていたのだ。

 

 そして今、『ナグルファル』の甲板上には台風並みの秒速二十メートルの風が吹き抜けており、誰もが何かに捕まらなければ立っていられない状態になっていた。

 後甲板に建っているテントなんかはいつ壊れてもおかしくない。

 ルクレティアとヴァナディーズは体重が軽い上、着ている服装が全身を面積の大きい布でくるむような・・・強風の中で活動するには最も不適そうな恰好だったので船尾楼せんびろう下の大砲の間に二人でうずくまって耐えている。

 リュウイチだけはパッシブスキルで精霊のを無効化できていたので、ただ一人何事もないかのように船尾楼の上に突っ立ったままでいた。



 『ナグルファル』はヴァーチャリア人類未踏の領域を突き進んでいる。

 せっかくなので一応・・・いや当然と言うべきだろう、船速を計測してみようという事になった。


 船の速度は《レアル》からもたらされたハンドログを使った測り方で計測する。

 ロープを結び付けた板とか丸太とかをアンカーとして流すと、船は進むがアンカーは水の抵抗を受けてその場に留まろうとするため、アンカーに結び付けられたロープが引っ張られてリールから伸びていく。

 ロープには十五・四メートル間隔で結び目ノットが付けられており、砂時計で計測する二十八秒間の間にロープがどれだけ伸びたかを結び目ノットの数を数えて測る。

 これが船の速度の単位「ノット」の語源になっており、この時に使う船速計測用のアンカー付きロープのセットを「手用測程儀ハンドログ」と呼ぶ。

 昔はアンカーに丸太ログが使われたが、現在はログシップと呼ばれる扇型をした木製の凧のような器具を使う。


 この世界ヴァーチャリアでも同じ測り方をするのだが、生憎とこの世界ヴァーチャリアではガラスは宝石に匹敵する超高級品であり砂時計なんてものは普及していない。

 そこで、砂時計の代わりに砂時計と同じ原理の水時計を使う。

 紡錘形をした真鍮製の容器に内側に刻まれた目印のところまで海水を入れ、底の栓を抜くと約三十秒で中の海水が全て抜けるようになっている。

 これで時間を測りながらハンドログを流して速度を測るのだ。なお、水時計の時間にあわせてハンドログの結び目の間隔も九ピルム(約十六メートル半)に変更されている。


 早速、ハンドログ用の水時計に海水を入れ、ログシップを海へ投げ入れた。

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