第43話 ティグリス・アンブーストゥス

統一歴九十九年四月十日、朝 - アンブースティア/アルトリウシア



 アルトリウシアの海岸付近に広がる広大な湿地帯。そこから更に内陸側の平野部の一角、ヨルク川とウオレヴィ川に挟まれたアンブースティア地区を治める郷士ドゥーチェティグリス・アンブーストゥスとその手下たちがハン支援軍アウクシリア・ハンのゴブリン兵の襲撃に対応できたのは偶然ではなかった。


 アルトリウシアの三大新興集落アンブースティア地区、アイゼンファウスト地区、そして《陶片テスタチェウス》地区ことリクハルドヘイム地区をそれぞれ治める郷士は三人とも元ヤクザ者である。手下を連れて傭兵として海賊退治に参加し、手柄を認められて騎士エクィテスの称号と郷士としての地位を賜った。


 レーマ帝国における郷士とは世襲できる代官のような地位であり、下級貴族ノビレスとみなされる。領土を持っているわけではないが、領主から特定の地域の統治を任されている。担当する地区の経営に大きな裁量権が与えられ、徴税、徴兵、治安維持等の業務を負っているが、その経費の多くは持ち出しである。

 ただ、彼らはそうした貴族として当たり前な存在では無かった。

 名にし負う裏社会の実力者、《陶片》地区のリクハルドは元海賊だったし、アンブースティア地区のティグリスとアイゼンファウスト地区のメルヒオールはどちらもアルビオンニウムの暗黒街を支配したギャングの幹部だった男である。

 彼らは貴族として表社会を支配する存在でありながら、同時に裏社会をも支配する存在だった。


 アルビオンニウムからの膨大な避難民を吸収したせいで、彼らの支配地域には避難民が暮らすバラックが雨後の筍のように広がり、統治にかかる経費が一挙に増大している。領主から与えられる各種手当と税収ではとても間に合わず、裏稼業からの収入にそれまで以上に頼らざるを得ない状況に陥っているのだ。

 領主主導で各種インフラ整備などの公共事業がかなり強引に推進され、彼らもそうした事業に難民の中から人員を徴収して派遣するなどしているが、それでも全ての貧民に職を割り当てる事が出来ているわけではない。女子供や老人は特にだ。


 しかし、彼らは幸か不幸か裏稼業を得意としている、帝国でも珍しい貴族だった。彼らの支配地域で行われる売春や博打といった裏稼業はほとんどすべて彼らの制御下にあった。

 ブッカであるリクハルドの治める《陶片》地区はいろんな種族が入り混じっているが、ホブゴブリンであるティグリスの治めるアンブースティアにはホブゴブリンが多く、ヒトであるメルヒオールが治めるアイゼンファウストはヒトが多く集まる傾向がある。

 当然、彼らの影響下で営まれる売春宿ポピーナで働く女性も、アンブースティアではホブゴブリンの売春婦が多く、アイゼンファウストにはヒトの売春婦が多く働いていた。この事実が各郷士の状況認識の違いに大きく影響したのである。



 メルクリウス渡航の警報とともに発せられた捜索と警備強化命令は三人の郷士にも伝えられた。

 彼らはもちろん協力した。ただ、彼らの任地に神殿みたいなものは無かったので、当初はそれほど深刻に考えられてはいなかった。

 にもかかわらずティグリスが手下たちに警戒態勢を敷かせることになったのは、売春婦たちから上がってきた情報ゆえだった。


 アルビオンニアの軍団レギオーは主に二つ。アルビオンニア侯爵家のアルビオンニア軍団レギオー・アルビオンニアと、アルトリウシア子爵家のアルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアである。

 レーマ帝国の軍団は構成する兵士の種族を統一することになっており、ヒトの軍団はヒトだけで、ホブゴブリンの軍団はホブゴブリンだけで、オークの軍団はオークだけで構成される。

 アルビオンニア軍団はヒトであるアルビオンニア侯爵が率いる軍団であり、構成する将兵は全てヒト。アルトリウシア軍団はホブゴブリンであるアルトリウシア子爵が率いるためホブゴブリンだけで構成されていた。


 このうちヒトで編成されるアルビオンニア軍団はアルビオン島中央部にあるズィバーミナブルグに駐屯しており、アルトリウシアにヒトの兵士は暫定領主である侯爵夫人とその家族を直接警護する少数の近衛兵しかいない。アルトリウシアに駐屯している兵士の大部分はアルトリウシア軍団のホブゴブリンということになる。

 このためホブゴブリンの売春婦を多く抱えるティグリスと、ヒトの売春婦が多くホブゴブリンの売春婦はそれほど多く抱えていないメルヒオールでは、アルトリウシア軍団の将兵から売春婦経由で入ってくる情報の量と質に大きな違いが生じていた。


 軍団の大部分が留守になる・・・メルクリウス関連で部隊が動くことは全ての郷士が聞かされていたが、詳細までは知らされていなかった。だが、ティグリスは売春婦たちから上がってきた情報によってアルトリウシアが軍事的にほぼ空白状態になることを知ったのだった。



「まずいぞ、そいつぁ・・・」


 アルトリウシアがもぬけの殻になると知った時、ティグリスが漏らした感想である。

 ティグリスの治めるアンブースティアはハン支援軍アウクシリア・ハンが駐屯している海軍基地カストルム・ナヴァリアに地理的にもっとも近い。しかもハン族はゴブリンであり、同じゴブリン系種族であるホブゴブリンの売春婦が多く働いているアンブースティアの酒場や売春宿に入り浸っていた。


 本来ならなのだろうが、彼らは困ったことに毎日のように問題を起こすモンスター・カスタマーだった。喧嘩、暴行、恐喝、窃盗、器物損壊ぐらいならまだ序の口で、女をさらおうとしたり強姦しようとしたりといった犯罪が絶えないのだ。


 彼らハン族の事情を鑑みれば無理からぬところも無いわけではない。

 彼らは大陸からここアルビオンニアへ派遣されて以来、度重なる敗戦と不幸な事故により兵士もその家族も数を減らし続けており、現在ではハン族の女といえば王族ぐらいしか残っていない。つまり、一般兵士は同族の女と結婚するどころか話をする事すらできなくなってしまっている。

 最早彼らは民族としては事実上絶滅しているのだ。


 そのような状況に追い込まれた事について、レーマ帝国に対して、そしてアルビオンニア侯爵やアルトリウシア子爵に対して、彼らは非常に強い恨みを抱いている。それはいつ爆発してもおかしくないものだった。

 それが抑えられていたのは、すぐ近くに駐屯するアルトリウシア軍団がいたからである。今暴発しても簡単に打ち負かされ、絶滅する・・・そんな認識がハン支援軍の暴発をギリギリのところで防いでいた。



 そのような状況をティグリスが正しく認識できていたのは、彼がホブゴブリンの売春婦を多く抱えていたからこそだった。

 ティグリスはリクハルドとメルヒオールにハン支援軍暴発の危険性について警告を発するとともに、手下たちには武装して待機するよう命じていたし、自分自身も武器と鎧を引っ張り出して点検し、いつでも使えるように寝室に置いておいた。


 ゴブリン騎兵が走ってる・・・いつものように顔を洗ってる最中にその第一報を受けたティグリスが間髪入れずに行動を起こすことができたのはそれが理由だった。



 しかし、アンブースティアはハン支援軍が駐屯する海軍基地とは川一本隔てただけで、橋一本渡るだけで行き来できてしまうほどの御近所である。


 ティグリスがゴブリン騎兵についての報告を受けた時、ゴブリン歩兵はすでにアンブースティアの貧民街へ雪崩れ込んでおり、手あたり次第に放火しはじめていた。



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