第42話 戦場音楽

統一歴九十九年四月十日、朝 - マニウス要塞/アルトリウシア



 マニウス要塞カストルム・マニはアルトリウシアの丘陵地帯南端に位置し、セヴェリ川の向こう側に広がる広大な平原やアルトリウシア湾を見下ろす標高約四十五ピルム(約八十三メートル)の小高い丘の頂上に造られている。


 要塞の本丸とも呼ぶべき中央部は降臨者アルトリウス伝来のローマ式城塞カストラならって東西約四百五十ピルム(約八百三十メートル)、南北約三百三十ピルム(六百十メートル)の長方形に整えられた敷地に、要塞守備隊とは別に軍団レギオー二個を駐留させるだけの広さと施設を完備している。


 丘の頂上の本丸部分が半地下状になっており、唯一の出入口である要塞正門ポルタ・プラエトーリアを除き周囲を高さ三ピルム(約五メートル半)の土塁がぐるりと囲っているので、要塞の外側からは要塞内の建物を見る事が出来ない。

 その外側・・・本要塞の防御正面である東から西北西にかけての南面には鋭角に尖った三角形の稜堡りょうほが放射状に配置されており、本丸と各稜堡の間や稜堡の外側には深さ三ピルム(約五メートル半)ほどある空堀が設けられている。

 各堡塁ほるいには砲座が設けられ、互いの稜堡の射界で互いの死角をカバーしあうことで防御火力の及ばない死角を完全に打ち消しあうように配置されていた。


 要塞南側は稜堡から丘のふもとを流れるセヴェリ川まで、砲弾はもちろん視界をさえぎるものは地面の凹凸から樹木の一本に至るまで完全に撤去されており、先に砲座を沈黙させない限り軍勢が砲火を浴びることなく要塞にたどり着ける可能性はない。

 つまり、レーマ帝国では最新式の要塞・・・稜堡式要塞となっていた。


 そのマニウス要塞で最初に異変に気付いたのは最も港側に位置する稜堡で立哨りっしょうの任を務めていた兵士だった。



 要塞防御正面最右翼に位置する西北西向きの稜堡、その先端付近に設けられていた簡素な見張り台の上からやや北寄り西方に見下ろすアルトリウシア湾は、海面を覆っていた朝もやのヴェールをとうに脱ぎ去っていた。

 白波一つない静かな海面には朝の漁から帰ろうとしている小舟の姿がいくつも浮かんでいる。小さな革船コラクル、帆の無い手漕ぎ船フェーリングが殆どで、要塞からはただの点にしか見えないが、中には貨物船クナールを転用した帆引き船も見られた。

 この時間に帰ってくる漁船が獲ってくるのはルディタプスやシィレニダエなどの二枚貝だ。


 毎朝この時間になると湾岸から一マイル半(約三キロメートル強)ほどの湿地帯を挟んだ内陸に広がる貧民街から朝食を準備する煙が幾筋も立ち昇るものだったが、今朝は少し違った。



 今日はいつもより風があるため、煙はまっすぐ立ち昇らずに風にあおられて東へなびきつつかき消されていく。それだけならいつもと大した差は無いが、今朝は貧民街の海側から普段とは比べ物にならないほどの勢いで煙が発生し、それが風にあおられて町全体を覆おうとしていた。しかも煙の発生源が次第に左右へ(つまり南北へ)広がっていく。

 かすかにだがチラッとオレンジ色の光も見えだした。


「・・・火事か!?」


 その光景にただならぬものを感じた兵士は稜堡側に向き直り、見張り台の手すりから身を乗り出す様にして叫んだ。


「おーい!火事だ!!町が燃えてる!誰か来てくれ!」



 マニウス要塞を拠点とするアルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアは一昨年前の演習中に火山災害に巻き込まれて兵力の大半を失って以来、慢性的な人員不足に陥っている。兵士に適した成人男性は領内のインフラ整備や経済活動維持にも必要であり、民間労働力も同様に不足している現状では新規の人員補充もままならない。

 それどころか減ってしまった兵員を更に割いてまでインフラ工事を優先しなければならないのがアルトリウシアの現状だった。


 アルビオンニウムから流れ込んだ避難民のせいで突如倍増した人口分の生活用水を確保するためには、既存の井戸だけでは全然足らず、特に海に近い湿地帯付近の貧民街では清潔な水の確保が難しいことから衛生環境が急速に悪化していたのだった。


 この問題を解決するためには上水道を早急に整備する以外に方法がなく、難民の中から土木工事に従事できる成人男性は軒並み動員され、それでも足らずに兵力の半減していたアルトリウシア軍団から更に残存兵力の半数近い人員を動員して工事に充当していた。


 このため、アルトリウシア軍団の現在の実働兵力は定数の四分の一をやや上回る程度しか残ってなかった。そこから更に約半数が現在各所へ遠征中であり、要塞には要塞を防衛するための必要最小限度の軍団兵レギオナリウスしか残っていない。

 マニウス要塞の各稜堡には二十四時間体制で見張りを維持するために十人隊コントゥベルニウム一個ずつが配置されているのみであり、要塞砲要員の復帰兵エウォカトゥスたちはまだ自宅にいて出勤してきていない。


 見張り台の上から叫ぶ同僚の尋常ならざる様子に気付いた彼と同じ十人隊の兵士らは次々と駆け寄り、見張り台に登ってきた。


「火事だと?」


「麓の貧民街から火の手が上がっています。かなりの勢いです。」


 見張り台に登ってきた十人隊長デクリオは報告を受けると、同じく見張り台に登ってきた部下たちと共に麓の町を見下ろす。


「アイゼンファウストの貧民街か・・・酷いな」


 そこから見える筈の街並みは既に灰色の煙に覆われており、街並みの半分近くが見えなくなってしまっている。街を覆う煙の切れ目のところどころからはオレンジ色の炎がチラチラとまたたく様に小さく姿を見せているが、その範囲は一マイル以上に及びそうなほど広かった。

 彼らが立つ見張り台は街から煙が流れてくる方向は異なるが、彼らには心なしか焦げ臭いにおいが漂ってきたように感じられた。


「・・・なんだあいつら?」


 兵の一人が指さす方を見ると、今火災が起きている貧民街からマニウス要塞まで続く上り坂を、ダイアウルフに跨った十数騎のゴブリン騎兵が駆け上ってきていた。


「伝令か?それにしちゃ数が多いな・・・ともかく報告を」


 とっくに夜は明けているというのに松明を持った騎兵に違和感を覚えつつ、十人隊長が要塞司令部プリンキピアへ伝令を出そうとしたとき、小さな爆発音が聞こえた。


「!?」


 振り返ると、火災が起きている町の一角に綿埃のような丸っこい白煙の塊が見えた。そこから少し離れた場所で小さく何かがはじけ飛び、同じように白煙が広がると、その数秒後にパンッと聞き覚えのある音が遅れて耳へ届いた。

 つづいて、パパパッと不規則に拍手でもしてるかのような音も響き始める。


 距離があるため小さく、そしてややくぐもったように聞こえるが間違いない。それは彼らが約二年ぶりに聞く戦場音楽だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る