サウマンディウム会議

第30話 アルビオン海峡

統一歴九十九年四月十日、午後 - 『グリームニル』船首楼/アルビオン海峡



 アルビオン海峡の西口沖合で絶え間なく発生する雲は西風によって薄く伸ばされ、貴婦人の肌の白さを無遠慮な日射から守るヴェールのように海峡全体を優しく覆い隠してる。

 海峡の中央部から西を眺めると灰色に染まった海と空の間、水平線の向こうに広がる大南洋オケアヌム・メリディアヌムの青空と雲の切れ目から差し込む陽光が作り出す無数の光の柱がキラキラと輝き、あの遠い空の下では何か素晴らしい奇跡でも起きてるんじゃないかと純心な想像を掻き立ててくれる。


 アルトリウスは子供のころから幾度となく眺めたこの光景が好きだった。



 アルビオーネが海に戻ると、アルビオン湾口で巻いていた渦潮はすぐに消えた。


 櫂上かいあげの指示はすぐに解除され、漕ぎ手たちはヤレヤレとばかりに元の姿勢に戻る。

 その間、アルトリウスとヘルマンニは互いの船上から大声でこのまま予定通りに出航する事を確認しあい別れた。

 旗艦『ナグルファル』は湾を出たら西へ舵を切りアルトリウシアへ、『グリームニル』と『スノッリ』はまっすぐ進み、海峡を渡ってサウマンディウムへ向かう。


 湾を出た『ナグルファル』は《暗黒騎士リュウイチ》に《風の精霊ウインド・エレメンタル》を召喚してもらい、帆を張ってまっすぐ西へ・・・向かい風が吹く中をあり得ない程の速度で離れていった。


 『グリームニル』と『スノッリ』の分も召喚するかと提案されたが、丁重にお断りした。

 これから帝国南部最大の都市サウマンディウムへ向かうのだ。軍船はただでさえ人目を引くのに、風向きに関係なく順風満帆じゅんぷうまんぱんで疾走するロングシップなんて悪目立ちしすぎる。



 『ナグルファル』が他の船とすれ違わなければいいが・・・。



 アルビオン海峡は世界有数の海の難所である。


 アルビオン海峡は北のサウマンディア半島と南のアルビオン島に挟まれ、西の大南洋と東の東大洋オケアヌム・オリエンタレスを繋いでおり、二つの海流が流れ込んでいる。

 一つは西の大南洋を北から南下してくる暖流で、アルビオン島の北岸にぶつかって枝分かれした一部が海峡南側を東へ向かって流れ込む。

 もう一つは東の東大洋を南極海から北上してくる寒流で、サウマンディア半島にぶつかって枝分かれした一部が海峡北側を西へ向かって流れる。


 この二つの海流は海峡最狭部であるサウマンディウムとアルビオンニウムを結ぶあたりで高速で擦れ違い、海峡中央部には渦潮が発生するのだが、その渦潮は大型船すら海底深くまで飲み込むほどの規模があり、東西から流れ込むそれぞれの海流のバランスによって発生するタイミングや海域が複雑に変化する。

 海峡を横断して対岸へ渡るには、熟練した地元の水先案内人が潮目しおめを見極めながら慎重にコースとタイミングを計らねばならない。


 この海峡のもう一つの問題が偏西風である。


 サウマンディア半島南部からアルビオン島までの範囲は偏西風が強く吹く地域で、地表付近でさえほぼ一年中西寄りの風が吹き続ける。

 なので、船で海峡を東へ進む場合はただ帆を張って風に乗れば良いが、西へ進む場合は風に逆らって進まねばならない。

 帆船で風上に進むのであれば、縦帆じゅうはんを使って風上に向かってジグザグに切りあがっていけば良いのだが、それはそれで問題があった。


 海峡に発生する渦潮がここでも問題になる。


 渦潮が発生する海域は東西から流れ込む潮流のバランス次第で変化するのだが、この渦潮が発生する範囲というのが結構広い。地元の水先案内人の案内無しでも航行できるのは岸壁から一マイル乃至ないし一マイル半程度しかなく、しかも岸に近づきすぎると暗礁もあることから、安全に航行できる範囲は更に狭くなり幅一マイルを下回る。


 西から順風を満帆に受けて高速で東進する船を避けながら、狭い範囲で頻繁に舵を切り返しながら風上へ向かって切りあがっていくのは結構リスクが高い。


 おまけに彼らが使っている船はロングシップ(ヴァイキングでお馴染みの所謂いわゆるドラゴン船)だ。乾舷かんげん(海面から甲板までの高さのこと)が低くて海が荒れると遠くまで見通しが利かなくなる。

 そして横帆おうはんしか使っていない。

 横帆でも風上に切りあがっていくことはできるが、縦帆ほど鋭い角度で風上へ進むことはできない。せいぜい三十度ほどだ。つまり、通常の縦帆を使う帆船よりも一倍半から二倍以上余計にジグザグしなければならない。

 出来ないわけでは無いが、今の彼らの船のように甲板上に素人の軍団兵レギオナリウスを満載している状態では、切り返しごとに行わねばならない帆の展張てんちょう作業が円滑に行えないし、転落事故等を発生させてしまうリスクが大きくなりすぎる。


 だから、大人しく帆を畳んで西へまっすぐ櫂走かいそうする方が現実的という事になる。実質的な船足ふなあしは櫂走でも横帆で強引に切りあがって行っても大差ないから、リスクの少ない方を選ぶのは当然だった。軍団兵という漕ぎ手の交代要員だっているのだから・・・。



 そんなところで、帆をいっぱいに張って《風の精霊》を使って西進する『ナグルファル』は、他の船に見られでもしたら随分目立つに違いない。

 だが、もう別れてしまった以上、今更帆走はんそうをやめろと指示する事もできない。


 一応、このあたりはブッカの水先案内人を乗せずに航行する船はいないし、アルビオン海峡の南側を航行するのはアルビオンニアの船だけだ。

 アルトリウスが知る限り、ここ数日はアルビオン海峡を東進する船・・・つまりアルトリウシアを出港する予定の船はいない筈だったし、いたとしても「身内」のはずだから口止め自体は不可能では無い筈だ。


 だが、誰にも見つからずに済むならそれに越したことは無い。



 アルトリウスが『グリームニル』の船首楼せんしゅろうの上で、既に『ナグルファル』の見えなくなった西方を見ながら無意識についた溜め息は。アルトリウスの背後で上官を気遣うスタティウスの口を開かせるきっかけとなった。


「今日は随分と色々ありましたが、航海の方は調子が良いようですな、船長カピタネウス?」


 潮目を見るために船首楼の先端から海面を見下ろしている船長が振り返ることなく大声で答えた。


「ええ、こんな航海は初めてだ。渦の方から逃げていきやす。」


「渦の方から?」


 気になったアルトリウスは船長の近くまで行くと、船長は右前方を指さした。


「ご覧くだせぇ、海峡の渦は西から流れ込む南の海流と東から流れる北の海流がすれ違うところに出来やす。

 ほら、あそこ!」


 船長が指差した先で渦が発生し、それが急激に大きくなる。


「渦は海流の境目に沿って動きやす、必ずね。

 アッシらの『潮目を見る』ってのは、出た渦が海流の境目に沿ってどっちへどれだけの速さでどこまで動くかを見極めるだけなんですが・・・」


「今日は違うのか?」


「ええ、海流の境目自体がこの船グリームニルを避けるみてぇに動きやがる。

 いや、この船を中心に海流とは別の渦が巻いてるみてぇだ。」


「別の渦?」


「さっきの海峡の乙女アルビオーネ様が来臨なすった時の渦を憶えてらっしゃいやすか?」


 アルトリウスはアルビオン湾の湾口で発生した渦を思い出した。


「普通の渦はあんな風に渦の中心が水底みなそこへ沈み込んでいくもんだ。

 だが、あの渦は違った・・・あれは渦の中心が逆に天に向かって伸びてやがった。」


「ここでも同じような渦が巻いてると?」


 船長はここで初めてアルトリウスの方へ振り返った。


「ええ!渦の中心が盛り上がるほどじゃねぇが、さっきから『グリームニルこの船』は左へ向きを変えたがってやがります。

 海流を受け流すみてぇに、この船を中心に渦が巻いてんでさ。」


 そう言いながら両手を動かして反時計回りに巻く渦の動きを説明する。

 アルトリウスが海面を見ると、確かにこの船の周りを囲むように反時計回りに潮が流れている。


「海峡の乙女の御加護にちげぇありやせん!

 おかげ様で今までんぇくらいにスムーズに進んでる。

 多分、日のある内に上陸できやすぜ。」


 そう言って船長が笑った。

 そういえば湾を出てからずっと太鼓を叩くペースが一定のまま一度も乱れていない。普段なら渦潮を避けるためにコースと速度を調節する必要があり、必ずと言って良い程太鼓のペースが変化するはずなのに。


「ありがたいことだな!」


「いやぁ、楽っちゃ楽だが・・・これじゃあアッシらぁオマンマの食い上げでさぁ。」


 船長は陽気に笑うと再び海面に視線を戻した。


 なるほど、アルビオーネが気を利かせたんだろう。急にし掛かってきた山のような面倒ごとの中にも、良い事の一つくらいはあったって事だ。



軍団長殿レガトゥス・レギオニス


 振り返ると百人隊長ケントゥリオのセルウィウスがいた。他の兵士たち同様、軍装を解いてトゥニカ姿だが腰にグラディウス短剣プギオだけは吊り下げている。

 軽装歩兵ウェリテスまとめる彼はテントの中で魔法で眠らされたままのネロ達の様子を見ている筈だった。


「やつらが目覚めました。」

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