第24話 アルビオン湾口の異変

統一歴九十九年四月十日、昼 - アルビオン湾口/アルビオンニウム



 アルビオン島北岸中央部に位置するアルビオン湾は地面を人為的に丸くくり抜いたような独特の地形をしている。

 湾の奥側は統一歴十四年に初代アルビオンニア侯爵ヨハンが上陸して以来始まった入植事業に伴う長年の開発工事によって切り崩され、なだらかな地形へと変貌してはいるが、昔ながらの地形が残る湾口付近の岸壁は高さ五十ピルム(約九十三メートル)に達しようかという絶壁で囲まれている。


 このため、湾内は波からも風からも守られて常に湖のような穏やかさを保っているが、幅二百ピルム(約三百七十メートル)ほどの湾口を一歩でも出ると環境はがらりと変わる。

 アルビオン海峡は海流が速く、風も強い。

 風と潮流を受けてアルビオン島北岸沿いを東進する船は、時に馬が走るのと同じくらいの高速で航行することもある。

 そのうえ、湾口の両岸にそびえる絶壁のせいで湾内からは外の様子が見づらいことから、アルビオン湾から出る際は船舶同士の衝突事故を防ぐため厳重に用心しなければならなかった。


 朝から想定外の出来事の連発で予定よりも遅れた出港になってしまったにもかかわらず、アルトリウシア艦隊があえて船足ふなあしを抑えていたのはそのためである。

 だが、今日彼らを襲う想定外の出来事はまだ終わっていなかった。

 先頭を航行する艦隊旗艦『ナグルファル』が湾口に差し掛かろうとした時、前方の海面に突如巨大な渦が発生したのである。


 このまま前進すれば艦隊まるごと渦に飲み込まれる!


 『ナグルファル』の船首楼せんしゅろうで指揮を執っていたサムエルは櫂のリズムをとるために叩いていた太鼓を打ち鳴らすのをやめ、号令を発した。

「両舷、櫂停めぇー!!」

 号令が前甲板と後甲板で復唱され、漕ぎ手たちが櫂を海中に下ろして水中で立てると、船は急速に速度を落とした。

 


 その時、リュウイチたちは船尾楼せんびろうの上に居た。

 リュウイチはロングシップなんて乗るのは初めてだったし、まして『ナグルファル』はこの世界ヴァーチャリアで独自の発展を遂げた《レアル》にも無い船だ。見るモノ触れるモノがイチイチ珍しいようで、何気ないモノにすら興味を示した。


 船上の構造物は船首楼せんしゅろうと船尾楼、メインマスト、そして後甲板に設置されたテントだけだ。船首楼と船尾楼は主甲板から二階ぐらいの高さしかなく、船首楼・船尾楼下の主甲板に壁は無く開放甲板になっている。

 帆は張ってなかったし、テントの高さも船首楼・船尾楼の手摺ぐらいまでの高さしかないので、今リュウイチたちが居る船尾楼の上からでも船首付近も含め船全体を一望することができた。


 離岸してから他の僚艦と共に隊列を組んでここまで来る間、操船指揮を息子のサムエルに完全に任せきってしまった艦隊提督プラエフェクトゥス・クラッシスのヘルマンニがここで張り切って解説役を務めていた。

 彼らにとって最大の誇りであり自慢でもある最大かつ最新鋭の船、それにおそらくこの世界でもっとも高貴とされる人物、あの伝説の《暗黒騎士ダークナイト》を乗せているのだ。船乗りとしてこれ以上の名誉はない。彼の解説に熱が入るのも無理はなかった。


「湾の出入口の左右に聳える白い絶壁、あれがアルビオンの白壁の裏側になります。

 ここからは見えませんが崖の上には灯台がございましてな。今は人がらんで使われておりませんが、高い場所にあるだけあって、その光はアルビオン海峡の向こう岸のサウマンディウムからもうけ見えます。

 左右の崖と崖の間は三百ピルム(約五百五十五メートル)ほども空いておりますが、実は崖のすぐ下には暗礁がありましてな。真ん中の幅二百ピルムほどしか船は通れんのです。

 船は馬車と違ってすれ違う時は左へ避ける事になっておりますでな、こうして狭い水道を通る時はあらかじめ真ん中より左側を通るわけでございます。」


 離岸してからこっち、ずっとこの名調子だ。ヘルマンニに限らないがブッカたちはおかにいる時は割と大人しいが、海に出ると調子が良くなる。



 ブッカとは海沿いの環境に適応進化したゴブリンの派生種である。

 体格的にはホブゴブリンとほぼ同じくらいだ。体毛はキメ細かく密度の高い短い毛が顔面と手の平と足の裏以外の身体全体を覆い、それらとは別に人間と同様の部位に長く太い毛髪が生えている。

 このため、ホブゴブリンよりも猿人っぽく見える。

 このホブゴブリンには無い全身を覆う細かい体毛と皮下脂肪のおかげでコボルトほどではないものの寒さに耐性があり、冬の海でも平気で活動する。

 手足の形はヒトやゴブリンとほぼ同じだが、手の指は第二関節くらいのところまで、足の指は全体に水掻きがあり泳ぎが得意だ。

 胸郭がやや発達していて息も長い。


 ヘルマンニらセーヘイム(今はアルトリウシアの一地区)に住むブッカたちに限って言えば、元々は大陸の北にいた部族で降臨者ソーロールヴによって伝えられたとされるヴァイキング文化を継承しており、暗黒時代をて戦乱を逃れてアルビオンニアへ移り住んだと伝承にある。

 アルビオンニアにレーマ帝国が進出してくる以前からサウマンディウムとの交易があり、アルビオンニウム開府後はアルビオンニアの発展に彼らの操船技術が大いに貢献した。

 なにしろ潮流が速く渦潮が頻発するアルビオン海峡は、潮流を見極める経験豊かな地元ブッカの水先案内人無しには無事に渡ることが出来ない。

 現在もアルトリウシアを拠点にアルビオンニアの海軍戦力と海上輸送を担っており、アルビオンニアとサウマンディアにとってなくてはならない存在だった。

 それは今の彼らの誇りだったし、ヘルマンニがリュウイチに自慢気に語る話の数々の中核をなしてもいた。



 その絶好調だったヘルマンニの解説は思いもかけず水を差される事となった。

 アルビオン湾口に差し掛かろうとしたところで突然船足が停まり、船首楼で指揮を執っていたせがれのサムエルが大声で呼びだしたのだ。

「ああん?なんじゃぁ?」


「サムエル殿が呼んでおられるようです。」

 ヘルマンニの耳がだいぶ遠くなっているらしいことを知っていたクィントゥスが、ヘルマンニに近づいてやや大きい声で言うとようやく理解したようだ。


「どうも、馬鹿息子めがまだまだ未熟なようで、ちょいと失礼いたしやす。」

 ヘルマンニはそう言ってリュウイチに愛想笑いを浮かべながら頭を下げると、何やらブツクサ言いながら船首へ向かって歩いて行った。



 『ナグルファル』の前方、アルビオン湾口の海面にはこれまで誰も見たことも無い異変が生じていた。

 そんな場所で発生するはずのない渦がゴウゴウと激しく巻いている。しかも通常の渦潮のように渦の真ん中が水底みなそこへ沈み込むのではなく、逆に竜巻に吸い上げられるかのように高く盛り上がっていた。

 見上げるほどの高さにまで盛り上がった海水の頂点では、海水の一部が人の姿をかたどり、それが『ナグルファル』を見下ろしている。


 異変に気付いた後続の『グリームニル』『スノッリ』の二隻は旗艦を守るため、『ナグルファル』を左右から挟むように前進し、三隻は綺麗に横に並んだ。



「何をしとんじゃ、この馬鹿タレが・・・」

「親父、アレを見てくれ!」

 何があったか分からんがいい歳して未だに親を頼ろうとする不甲斐ない倅をどやしつけてやろうと腹を立てながら船首楼へ登ってきたヘルマンニだったが、サムエルが指差した先に海水が模った人の姿を認めると愕然とした。


「な、なんという事じゃ・・・」


 それは明らかに超常の存在。

 今日、《火の精霊ファイア・エレメンタル》を目の当たりにし、それを使役する伝説の《暗黒騎士》本人と対面を果たしたばかりだというのに、今新たに《水の精霊ウォーター・エレメンタル》・・・いや、もっと高位の存在に違いない・・・そんなものが目の前に姿を現すとは。

 まるで神話の世界にでも迷い込んだかのようではないか。


「親父!あれは何だ!?」

 サムエルの声に我に返ると、ヘルマンニはサッと振り返り甲板に向かって叫んだ。

「両舷、櫂上げーっ!!

 早くしろ!櫂上げーっ!!!」


 号令の意味を理解していない漕ぎ手当番の軍団兵レギオナリウスに対してブッカ船員たちが「海の敬礼だ、櫂を持って立て!櫂を甲板に立てろ」と指示を出す。

 ヘルマンニはそのまま左右両隣にいる僚船に向かっても大声で「櫂上げ」の号令をだした。


「お、親父、あれは何だ!?」

「馬鹿タレ!あれが分からんのか!早く膝を付け」

 戸惑っている息子をどやしつけると、ヘルマンニは船首楼の前まで行って膝をついて胸の前で両手を組んだ。



「海をつかさどりし偉大なる神、ニョルズ様とお見受けいたします。

 私はセーヘイムにまうブッカ、テイヨの子ヘルマンニ。これなるは我が息子のサムエルにございます。

 どうか我らに航海の安全と海の幸のお恵みを!」


 ヘルマンニはそう祈りをささげると、サムエルも慌ててそれにならう。


『いいえ、わらわはそのような者ではありません。

 妾の名はアルビオーネ、このアルビオン海峡に住まう《水の精霊》。

 テイヨの子ヘルマンニよ、その船のあるじはそなたか?』


 アルビオーネと名乗る《水の精霊》はヘルマンニの祈りにおごそかに答えるとともに、質問をしてきた。


「おお、海峡をべる乙女アルビオーネ様。我が祈りにお応えいただき感謝申し上げます。

 これなる船『ナグルファル』は確かに我らの船、私めの統べる船にございます。」


『ならばテイヨの子ヘルマンニよ。

 そなたのその船「ナグルファル」には高貴極まる御方が御乗りであろう。

 妾はその御方に御挨拶申し上げるためにこうしてまかり越しました。

 どうか御取次ぎをお願いします。』


 ヘルマンニは顔に歓喜の表情を浮かべて答えた。


「おお、海峡の乙女アルビオーネ様。

 確かに私めはこの船に高貴極まる御方を御乗せする栄誉によくする者です。

 尊き御身のおぼしとあらばこのヘルマンニ、喜んでその御方に御取次ぎいたしましょう。」


 ヘルマンニはそう言ってうやうやしく頭を下げると即座に隣で跪いていた息子に向かって命じた。

「降臨者様に御取次ぎして来い!」

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