第2話 廃墟の朝
統一歴九十九年四月十日、朝 - 市街地/アルビオンニウム
数日前から続く北寄りの西風がもたらした雲で覆われた灰色の空に向かって、幾筋もの煙が立ち昇っている。
昨夜来発令されていた警戒態勢は既に解かれており、兵たちが
一昨年の火山の噴火と度重なる火砕流や土石流によって放棄された都市アルビオンニウムには今、彼らしかいない。
建物の二階部分まで火山灰に埋まった廃墟の街で一晩中息をひそめ、交代で仮眠をとりながら過ごした彼らは夜明けとともに二日ぶりとなる温かい食事にありつこうと、ある者は火を起こし、ある者は水を運び、ある者は野営道具をまとめつつあった。糧食は今日の昼の分まで既に配布されている。
彼らがこんな廃墟で一夜を明かしたのにはもちろん理由がある。
今からひと月前あたりから、サウマンディアの各所でメルクリウスの目撃情報が報告されるようになった。
メルクリウス・・・伝説の人物だが、その正体は謎に包まれている。
一つの国や部族が滅亡の危機にある時、ふらりと現れて降臨を引き起こす。降臨によって《レアル》と呼ばれる異世界から来る降臨者は、新しい文明や技術をもたらし、その国や部族を救うとされている。
実際、ここで朝食の準備をしている彼らも、遠い昔に先祖が降臨者に救われた歴史を持っている。
その降臨者の名はアルトリウス。《レアル》においてローマという強大な帝国の武人だったとされ、彼らに偉大なローマ文明を伝えた。
他種族に圧迫され絶滅寸前だったアヴァロニアのゴブリンたちは、比類なき英雄によってもたらされたローマ文明によって一挙に勃興した。
それまでホブゴブリンと言えば食べ物に恵まれた貴族階級のゴブリンからしか生まれなかったが、文明化によって食糧事情が大幅に改善したアヴァロニアではほとんどのゴブリンがホブゴブリン化するようになったと伝えられている。
現在知られている全ての国が、同様に降臨者によって文明をもたらされた歴史を持っている。降臨者がいなければ、今の世界の文明は成立しない。降臨者の多くはその国における最大の英雄として、今でも称えられ崇拝されている。
降臨とはこの世界に福音をもたらすものであり、降臨を起こすメルクリウスの出現は世界の吉兆だった・・・ある時期までは。
それまで、降臨してくるのはごく当たり前なヒト種の人間だった。
降臨にあたってメルクリウスにより
しかし、ある時期から常識外れな力を持った者が降臨するようになった。
人間を遥かに凌駕する戦闘力、死んでも生き返る不滅の肉体、不可能を可能にする強力な魔法やスキル。
彼らは降臨者の中でも特に
一軍をもってすら対処しきれないドラゴンのような強力なモンスターを容易く退治してくれるので、当初彼らは大変ありがたがられた。しかし強力なモンスターが狩りつくされ数を減じると、今度は国同士の戦にも投入されるようになっていった。
戦乱が広がり、滅亡の危機に陥った国でまた新たな
そうして神か悪魔のごとき力を持ったゲイマーが次々と現れ、瞬く間に戦乱は世界中へと拡大していった。
そんなある日信じられないほどの大地震が起こり、山は崩れ、海が溢れ、川が逆流し、晴れることの無い黒雲が天空を覆い、太陽は約二年に渡って隠されてしまった。
世界は長い冬を迎え、飢餓と疫病が広がり、絶望が世界を支配した。もっとも悲観的な説によると、この暗黒時代に世界の人口は十分の一にまで減ったという。
やがて長く続いた冬は終わりを告げたが、そのとき世界は食糧と資源を求めて東のレーマ帝国と西の啓典宗教諸王国連合に分かれての大戦争の様相を呈していた。
両陣営の主力軍同士が対峙する一大決戦を目前に控えたその時、魔王とも魔神ともつかぬ漆黒の戦士があらわれ、ゲイマーを世界から一掃した。
不滅の肉体を持つはずのゲイマーもその戦士の剣を受けると力を失い、ある者は消滅し、ある者は只のヒトになりおおせた。
それが百年前のことである。
最終決戦は回避され、大戦争は終わり、両陣営の間で大協約が締結され、世界は安定を取り戻した。
大協約体制の成立にあたり、世界の首脳たちは考えた。ゲイマーの存在こそが戦乱の原因であったと・・・ならば、ゲイマーをこの世界に降臨させたメルクリウスはその責任を追及されねばならない。
以後、メルクリウスは全世界共通のお尋ね者となっている。メルクリウス逮捕は大協約体制において至上命題であり、たとえ敵対している戦争当事国同士であっても、メルクリウス逮捕のためとあらば手を結ぶ。
実際、大協約後の世界で王国連合内で起こっていた内戦の最中、メルクリウス目撃情報がもたらされたがために戦闘行為が一か月にわたり停止されたうえ、両軍による共同作戦までもが実施されたことすらあった。
その世界最大のお尋ね者の目撃情報がもたらされた。つまり、再び降臨がおこされる危険性があるということだ。
この大協約体制においてゲイマーの降臨は絶対に阻止されねばならない。
サウマンディア領主プブリウス・ウァレリウス・サウマンディウス伯爵は州都サウマンディウム近郊で演習中だった
しかし、メルクリウスは発見されなかった。
そもそも、その正体を誰も知らない。種族も年齢も不明なら性別すら明らかになっていない。分かっているのは降臨術を使う事と、降臨者に精霊の加護を付与する事、そして自らも精霊を自在に操るという事だけだ。
メルクリウスが歴史上はじめて登場するのは五百年以上前になる。
ある時は白髪の老人、ある時は隻眼の戦士、ある時は黒髪の妖艶な魔女・・・伝承にあるメルクリウスの特徴はバラバラでまるで統一性が無い。種族でさえヒトだったこともあれば、ゴブリンだったこともある。そもそも一人の人間ではなく、何らかの秘密結社のような組織なのではないかという説もある。
それなのに時折目撃情報は上がってきた。
目撃者は一体、何を見てそれがメルクリウスだと判断し、当局に訴えてきたのかという根拠は毎回違った。ただ、定期的に世界のどこかで起こるメルクリウス目撃騒動では毎回最初の目撃情報に基づいて捜査を始めると、言われてみれば確かにそれらしい人物を見たという裏付け情報が続出する。そして、騒動の現場となった地域の近くの神殿で、降臨の儀式を行おうとしたらしい魔法陣が発見されて騒動が終息する。
もしかしたら、誰かの悪質な悪戯なのかもしれない。
だが、無視するわけにもいかない。
万が一にもゲイマーの降臨を許せば、世界はふたたび滅亡の危機を迎えるかもしれないのだから。
プブリウスと彼が率いるサウマンディア軍団による懸命の捜索にも拘わらずメルクリウスを発見することはできなかったが、メルクリウスがアルビオン海峡を渡ったらしいという新たな目撃情報を複数得るに至った。それが約半月前のことである。
急報は海峡を渡って対岸のアルトリウシアへともたらされた。
メルクリウス渡航の報に接したアルビオンニアの暫定領主エルネスティーネ・フォン・アルビオンニア侯爵夫人とアルトリウシア領主ルキウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵は、
アルトリウシアでも捜索を開始したが毎度のメルクリウス騒動では珍しい事に目撃情報が無く、アルトリウシアへの渡航の可能性は低いと判断せざるを得なかった。
しかし、通報が入った以上何もしないわけにはいかない。
念のため、アルビオンニア侯爵領の東に位置するクプファーハーフェンへも警戒を呼び掛けるとともにアルビオンニア軍団とアルトリウシア軍団に動員をかけ、領内のすべての神殿等で警備強化が図られることとなった。
問題は一昨年の火山噴火によって放棄されたアルビオンニア州都アルビオンニウムの神殿だった。
今は無人となった廃墟の都市にも神殿は残っており、無人の神殿はメルクリウスにとってこれ以上ないくらい都合の良い場所である筈だった。降臨を阻止するためには兵を派遣するしかない。
そしてアルビオンニウムの
降臨は基本的に満月か新月の夜に行われるとされており、ルクレティアがメルクリウスと鉢合わせする危険性は高かった。
降臨の阻止と神官の安全確保、そしてあわよくばメルクリウスを捕縛する・・・そのために派遣されたのが彼らだった。
アルトリウシア軍団から選抜された半個
そのうち約三分の一にあたる一個
本命はケレース神殿だと考えられていた。だがケレース神殿は規模が小さくて完全武装の
このためケレース神殿には神殿周辺の森林や斜面といった地形に対応しやすい軽装歩兵を配置し、残りの重装歩兵は聖堂周辺の廃墟の中に分散配置して昨夜一晩寝ずの番をしていたわけだ。
しかし、結局何も起きないまま夜は明けた。
メルクリウスは現れなかった。今回連れてきた軍団幕僚の一人で遠征部隊の副長を務める
ケレース神殿に派遣さえている軽装歩兵たちも今頃神殿の内部と周辺の最終確認を行っているはずだ。それが済み次第撤収してくる予定になっている。
彼らが合流し、朝食をすませば本格的に撤収する。
神殿に派遣した五個十人隊の軽装歩兵の内一隊は既にこちらに到着しており、二隊は丘から下ってくるのが見えている。一隊は先ほど丘のふもとの廃墟の影に隠れたのが見えたから、神殿に残ってるのは一隊だけのはずだ。
やはりあちらも何も無かったのだろう。
彼らの分の朝食はスタティウスの指示によりこちらで用意させている筈だった。
音もなく夜通し降り続けた霧雨は既に止んでいる。
廃墟を覆う土砂(火砕流がもたらした大量の火山灰)はコンクリートのように固く締まっていて全くぬかるんでいなかったが、屋外にあった何もかもが重く湿っていた。
スタティウスが気を利かせて昨日の午前中にかき集め、廃墟の屋根の下で乾燥させておいた薪が無ければ、今頃焚き付けで苦労していた事だろう。
スタティウスは各隊の様子を見まわると軍団長が待っているかつて
ここの床も流れ込んだ火山灰で覆われているが、元々天井が高く屋根も壁も健在だったため、今回の遠征での本営に定められている。内部は外に比べれば薄暗いが、天井付近に採光窓が並んでいるため人の顔を見れないほどではない。
採光窓から差し込む光を受けて彼らの纏う赤い
その中でも軍団長であるアルトリウスの銀髪は『白銀のアルトリウス』の二つ名にふさわしく光輝き、ハーフコボルト特有のその大柄な体躯も相まって異様な存在感を醸し出している。
「異常はありません。予定通り撤収できるでしょう。」
「ご苦労。」
アルトリウスがそう労って全員を見回すと集合していた百人隊長たちは姿勢を正し、若き軍団長を見上げて次の言葉を待った。
「どうやら降臨を防ぐ事はできたようだが、残念ながらメルクリウス逮捕という手柄は立てそこなったようだな。」
一同は上官の感想に対して小さな愛想笑いを浮かべて応じる。
ホブゴブリンの父とコボルトの母の間に生まれたアルトリウスは人一倍体格に優れ、やはりホブゴブリンの中でも体格に恵まれた者の多い他の百人隊長たちよりも更に頭一つ分背が高い。
子供のころから大柄だった彼は普通に接していても周囲を威圧してしまうため、最初は軽めに話しかける癖が身についてしまっていた。
「予定通り撤収する。昼までに出港できれば日没前に海峡を渡れるそうだから時間には随分余裕があるが、朝食後は速やかに海岸へ向かいなるべく早く全隊合流する。
皆、疲れてるだろうが手綱は引き締めておけ。」
「兵どもはどいつもこいつも、サウマンディウムに行くのを楽しみにしとります。軍団長が『急ぐ』と言えばむしろ喜ぶでしょう。」
やや声色を硬くして続けたアルトリウスにスタティウスがことさら陽気に答えると、三人の百人隊長たちから笑い声があがった。
アルビオンニウムが廃墟となって以来、サウマンディウムは帝国南端地域最大の中核都市となっている。開府以来二十年と経っていない未開のアルトリウシアやクプファーハーフェンとは比べ物にならない大都会であり、兵たちの多くはサウマンディウムへの寄港を今回の遠征における最大のご褒美と考えていた。
兵の中には友人から借金をしてきている者さえいる。
サウマンディウムでの遊興のためというのもあるが、何か珍しい物でも買って持ち帰れば結構儲けることができる。うまくいけば兵隊稼業の半年分程度は儲けることもできるし、仮に売れなかったとしても良い物やアルトリウシアで手に入りにくい物なら付届けに使える。
たとえ一晩とはいえ自腹を切らずにサウマンディウムへ行けるのなら、借金くらいする価値は十分あるのだった。
「今夜はサウマンディウムだが、明日はナンチンだ。楽しむのは構わんが、遊びすぎてオールを漕げんなんて事にならんよう気を付けさせろ。」
「
アルトリウスが軽く釘を刺すと、百人隊長たちの目には悪魔のように見える凄みのある笑みを浮かべ、スタティウスは恭しく頭を下げて見せた。
アルトリウスが続けて口を開こうとした瞬間、落雷のような轟音が鳴り響いた。
全員が思わずビクっと身をすくめ、動きを止める。
そのまま様子をうかがうが、その後は特に何という事もなくただ時間だけが過ぎていく。
「何事だ?」
誰に言うともなくアルトリウスの口から洩れた言葉だったが、百人隊長の一人クィントゥスが即座に「見てまいります」と言って外へ駆け出して行った。
「今のは何?」
クィントゥスが駆けて行ったのとは反対の方から若い女の声が響く。
同じ廃墟の別室で出発の荷造りをしていたヒトの神官ルクレティアだった。その後ろには神殿の調査のために同道していたヴァナディーズとかいうムセイオンから来たヒトの女学士が様子をうかがっている。
「わからない、今様子を見に行かせている。そっちの準備はもういいのか?」
「毛布をまとめるだけですもの、もう済んでるわ。」
彼女には本来ならアルトリウシアから自前のお供が付き従っているはずだったが、今回は少しでも多くの兵を動員するため、連れてきていない。船に乗れる人数には限りがあるからだ。
代わりに彼女の御勤めの補助や身の回りの世話は兵たちに手伝わせており、彼女らの朝食の準備も軍団で用意することになっている。
これはいざという時、彼女を迅速に逃がすための措置でもあった。
最悪の場合は一部の兵が戦闘そっちのけで彼女を抱えて逃げる手筈になっている。そのための脚の速い兵も既に選抜済みで、今も彼女らの従兵として細々とした作業をしているのだった。
だから今回の御勤めで彼女がもってきた荷物は本当に必要最小限のものに過ぎず、しかも使い終わった荷物から順次お付きの兵士によって船へ運ばれてしまっていたので、今では自分の寝具や衣類を除けば準備らしい準備など何も残っていない。
「そうか・・・何かの事故なら外の兵たちが騒ぐだろうが、それすらない。」
外は特に喧噪が起こるでもなく静かなままだった。
指揮官たる者、兵たちの前で軽々しく動揺を見せるべきではない。本当は自分たちも外へ様子を見に行きたかったが、彼らは落ち着いてる風を装って様子を見に行ったクィントゥスの帰りを待ち続けた。
「音は・・・落雷のようでしたな」
「しかし、雷が落ちるような天気では無かった」
「晴れてても雷が鳴ることはあるさ」
「晴れてもいなかったぞ?」
「いや、晴れてるんじゃないか?なんだか急に明るくなってきたし・・・」
「言われてみればそうだな。」
それほど長い時間ではなかったが、百人隊長たちが少しばかり無駄話をしていると急に外が騒がしくなり始めた。一同が騒ぎに気付くのとクィントゥスが駆け戻ってくるのはほぼ同時だった。
「軍団長、来てください!!」
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