第36話 きみの真の幸福を叶うためならば



 勇者帰還から二日後のことだった。

 夕暮れ時、俺のアパートの玄関が静かにノックされた。


 立っていたのはセーナだ。俯き暗い表情で口数も少なかった。

 俺は彼女をとにかく中へと招き入れて話を聞いた。


「セーナさん、あれから勇者の様子はどうだ?」

「それが…………」


 セーナの顔は沈痛の極みに至っていた。


「勇者様は……、エルドラン様は、会合や食事会が終わるやいなや、わたくしとの会話もそこそこにすぐに立ち去ってしまうのです」


 セーナの声は徐々に弱々しくなっていく。ついには、軽くしゃくり上げるように鼻を鳴らし、空気を絞り出すような小さな声で俺に訴える。


「コースケ様……。わたくしはもう耐えられません……。どうすればいいのかわからなくなってしまいました。わたくしがいくら笑いかけても、どんなに労っても、エルドラン様は素っ気なく話もまともにしてくださらないのです」


 とうとうセーナの白い頬に涙が伝った。


「セーナさん……」 

「お願いです。コースケ様。わたくしはなぜエルドラン様との関係がこうなってしまったのかを知りたいのです。どうか、どうか理由を教えてください。わたくしに直せることがあるのなら、全霊をかけて直します。ですから、どうか……」


 直視するのが辛いほどにセーナは悲嘆に暮れる。


 しかし話を聞くに勇者も相当心が離れてきているな。一体何があったんだか。

 俺は俺で凱旋行進以来まだ勇者を直に見られていない。聞いていた通り、王都ではかなり出不精なようだ。


 ダインスレイフを起動して勇者が一人でどう過ごしているのか見たかったが、勇者が万が一感知するのを恐れ、浮気が行われるまでは起動しないことにしている。

 世の中には普通気づかない隠されたカメラや盗聴器の存在に不思議と気づく人がいて、俺もそれが原因で証拠を取れなかったことが何度かある。


 どうやら人には聞こえないはずの稼働中の駆動音をわずかに違和感として感じることができるようで、普段と違う些細な変化を感じ取る敏感な感性を持っているらしいのだ。


 ダインスレイフは放出する魔力量は少ないようだが、全くないわけじゃない。起動すればわずかに変化も起こすだろう。だから、決定的な場面以外では極力使えないのだ。


「コースケ様、もしやエルドラン様は、いまこのときも別の女性と会っているのではないでしょうか……」

「いや、それはないはずだ。今のところ勇者に大きな動きはない」

「本当ですか……? わたくしは、信じてよいのですか……?」


 いかんな。大分弱ってきている。

 あまり何も変化がない報告を続けるのもセーナの精神に影響しそうだ。


「実は、俺には協力者がいる。そいつは見張りのプロで、今も勇者の館周りを張ってくれている。そいつからの連絡がないってことは、勇者はまだ行動は起こしていないっていう証拠だ」

「そうなのですね……」


 と返事するものの、セーナはまだ信じ切っていない顔だ。

 まあ実際見張りのプロってのは嘘だからな。協力者がいるのは本当だが、見張らせているのは勇者じゃない。


 ここは少し、情報を出して安心させてやるしかないか。やきもきされて俺が動く前に暴走されたのでは仕事に支障が出る。


「浮気相手に目星はついてる」

「…………!」

「だが確証がない。誤解を招かないため詳細は伏せるが、可能性はそれほど低くないだろうとみている。だからもう少しだけ待ってくれ。俺が必ず真実を突き止めるから」

「…………わかりました。わたくしは一度コースケ様を信じると申しました。それを覆すようなことはいたしません。わたくしは、ただ座して結果を待ちます」


 まるで死刑宣告でも受けたような顔でセーナはその覚悟を口にする。

 待っているだけ、というのはなんとももどかしいものだ。


 下手に動かないでいてくれる分俺としては非常に助かっているのだが、当事者の心情はわからなくもない。一刻も早く安心させてやりたいところだが、時宜を合わせるのは重要なことだ。


 実は現時点で、俺がやるべきことはほぼ完了している。

 だがまだ動けない。


 俺は連絡を待っている。











 その翌日のことだ。ついに事態が動きだした。

 玄関のポストで物音がした。郵便配達人が来たのではなく、空を飛んできた魔簡交が自動的に入ってきた音だ。


「来たか……!」


 急ぎポストを開け中身を確かめる。予想通り、封のされた手紙が入っていた。机に戻りながら内容を読む。間違いなく俺が待っていたものだ。


 今俺の手許には、二・通・の魔簡交が届いている。俺はそれらを部屋に来たセーナたちに見られないように隠した。


 そして俺は急ぎハリシュを通じてセーナを部屋に呼ぶ。

 すぐにふたりはやってきた。ハリシュには俺とセーナの二人きりにしてもらい、誰も聞いていないことを確かめてから告げた。


「セーナさん。さっき情報が届いた。これから勇者は浮気相手と会う」

「……ッ!」


 衝撃にセーナは息を詰まらせる。


「浮気相手の名前は、ジェシカ・レイベン。十九歳。セーナさんが見たという人間の女はこいつだった。親はすでに亡くし一人暮らし。仕事は人気のない食堂の給仕で比較的自由な時間が多く、持て余していた時間を勇者との浮気に使っているようだ。髪は茶髪でセミロング。飾り気はないが食堂の客からは割と人気があったようだ」


 浮気相手の名前。年齢。生活。具体性を持ち始める勇者の浮気。


 輪郭がはっきりしてくるほどに嗚咽を漏らすセーナ。今彼女の頭の中では、思い描いていた想像上の相手にどんどん色がついていっているに違いない。

 だから俺は、


「だが俺の言葉だけではにわかに信じ切れないだろう。だから、セーナさんについてきてほしい。俺の魔法具は、。証明するためには、今この場でリアルタイムで行われていることを映像で見てもらうことになる。今を逃せば次は上手くいくかはわからない。確実に勇者が浮気しているという事実を、セーナさんがその目で確かめるんだ」


 セーナは呼吸も忘れるほどに瞠目していた。


「わ、わたくしは…………」


 唇は細かく震え、見るからに青ざめている。

 どれほど予期していても事実を突きつけられれば人は動揺する。


 いくら魔王退治の英雄といえどそれは変わらない。むしろ愛情に対しては一般人より無防備かもしれない。彼らは少なくない年月を、戦うために注いできたのだから。


「怖いのはわかる。揺らぐのも仕方のないことだ。それは強さ弱さの話じゃない。だから見たくないのなら、無理にとは言わない。セーナさんには俺の話を拒絶する自由がある」

「で、でも、コースケ様……」

「ああ。セーナさんはわかっているんだろう。ここで有耶無耶にしてしまえば、今より辛い時間が続く。人を疑うのは体力が必要だ。疑い続ける限り、愛する気力も削られていく。セーナさんは無意識にそれをわかっているからこそ、怖がっている」


 セーナはきゅっと唇を引き締め言葉にされた自分の感情に耐えていた。


「どの道を選ぼうともセーナさんには辛い状況だ。端から見ていてもわかるくらいにな」

「…………はい」

「今すぐ勇者をぶん殴ってやりたいところだが、残念ながらそれは俺の仕事じゃない。セーナさんにしかできないことだ。俺はそのためにここにいる。真実への道は俺が拓いた。そこを辿るかどうかは、セーナさん次第だ」


 真実を目の当たりにする勇気を奮い立たせているのか、裾を掴む手が震える身体を必死に抑え込もうとしている。

 やがてセーナは、力強い眼差しで俺を見上げた。


「コースケ様。わたくしにエルドラン様の真実を教えてください」


 









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