第8話 呪文の詠唱は痰が絡むという深刻な問題を孕んでいる


 それから用事の済んだハリシュたち使用人一同が帰っていった後に、セーナに大雑把に部屋の中を案内してもらった。

 玄関から真っ直ぐ廊下を突き当たると居間があり、中には新しい絨毯とソファ、足に華美な装飾が掘られた四つ足のテーブルがすでに設えてある。客が来てもこれならも十分もてなすことができるだろう。

 寝室は二つ。そのうちの一つを見せてもらうと、ベッドがあり真っ白なシーツが被せられていた。本当に至れり尽くせりでこっちが申し訳なくなるほどだ。


 水回りも問題ない。廊下に面したトイレは多少形は異なるものの洋風便器とほぼ変わらず、水道も通っているのかキッチンには蛇口もあった。建築レベルの凄さは俺にはよくわからないが、ここまで水道が整っているのは結構文明レベルが高い証拠なんじゃないだろうか? 

 部屋自体も単身者には十分なほどの広さがある。なんなら俺が住んでいた木造築四十年の住居兼事務所のアパートよりも大分立派だ。

 中でも俺を驚かせたのは、この異世界の動力だった。


「ん、ちょっと暗くなってきたな」


 再度居間に戻ってくると、さっきまでは十二分に明るかったのに、少し陽が傾いたせいか影が差し込むようになっていた。

 聞けばまだ夕方でもうしばらくは明るいらしいのだが、この部屋にある窓が隣接する建物に近いため、この時間帯になると陽が遮られてしまうのだという。

 俺は電灯がないかと首を回して探したが、それらしきものは見当たらなかった。

 うぅむ。やはり火を使って灯りを確保しないといけないか。そこらへんは中世的なのだろうか。ガス灯くらいあれば助かるのだが、燭台とかになると面倒だな。火事も怖いし。

 と俺が思案していると。


「それでしたら、これを使うといいですわ」


 セーナは真っ直ぐに窓のある壁際に向かうと、ドレッサーの上にあるオブジェを指し示した。枝のように細く伸びる真鍮の棒の先に、いくつかのピンポン玉大の球体がぶら下がっている。


「飾りじゃなかったのか。だが使うといっても、どこにも繋がってなさそうだが……」

「ふふ、見ていてくださいね」


 コードを探して目を凝らす間抜けな俺をからかうように笑って、セーナはそのオブジェに手をかざし、そして唱えた。


「《灯火よ。我がもとに来たれ》」


 すると、オブジェについていた球体全てがぼんやりと光りはじめた。

 次第に勢いを増して膨張する光は押し寄せる洪水のように部屋中を走り回り、薄暗かった視界はあっという間に真夏の午後二時ごろのような光に溢れていた。


 だが眩しくて眩むほどではない。

 どんな真正面から見つめても目が痛くならない不思議な光だった。あの球体が光源かと思っていたのだが、どうやら違うようだ。

 部屋の中空には、薄ぼんやりと同じ大きさの光の球がいくつも浮いている。あのオブジェはこの光の球を部屋に飛ばす役割なのだろう。それが四方八方に散らばっているから、まるで全方向から光に当てられているかのようだ。

 影すらなくなってしまったかのような幻想的な部屋が、たったあれだけの呪文でできてしまった。


「おおっ。もしかして、これが例の魔法具ってやつか?」

「その中でも最も普及している種類のものです。魔力制御が簡単ですので、コースケ様にも使えるはずですわ」

「まじ? 俺もやってみていい?」


 少年のように目を輝かせる俺を見てセーナはくすりと笑い、「ええ、どうぞ」と言って中空で撫でるように腕を振る。するとあれだけあった光の球が一瞬にして消え去り、また薄暗さが戻ってきた。俺はさっそく、オブジェに手をかざす。


「ご、ごほぉんっ。んっ、んっ」唾が喉に絡んだ。「と、《灯火よ。我がもとに来たれ》」


 もし点かなかったらどうしようとかナイーブな俺がひょっこり顔を出しかけていたが、そんなちっぽけな杞憂は露と消えた。オブジェの球体がまた光を放ちはじめる。


「すげえなあ、これが魔法具か。でもセーナさんのときとちょっと光り方が違うな」


 なんというか、さっきと比べて随分弱々しい。

 セーナが点けたときは部屋の隅から隅まで光が行き届いていたのに、俺が点けるとせいぜい半分くらいまでしか届かず、色も白というよりオレンジの電球色だ。


「使用者の身体の内に持っている魔力と反応しますので、効果には多少の差が生まれるのですわ。本職の魔術師ともなれば、魔法具に頼らずともこの程度の灯りは自由に出せますので」


 こんな風に。と言ってセーナは呪文もなしに右手の人差し指の先に小さな光を点らせた。


「うん? じゃあつまり、俺にも少なからず魔力があるってことなのか?」

「もちろんですわ。魔力というのは一部の例外を除いた全ての生物が秘めるもの。その多寡に差はあれど、次元の稀人であるコースケ様も当然ながらお持ちですわ。コースケ様の世界では魔力の概念がありませんでしたの?」


 言われて俺も気づく。そういえば、そうだ。俺はまだセーナに自分の世界のことを何にも話しちゃいなかった。


「俺の世界じゃ魔法なんてものはなくてな。魔力なんて概念も当然ない。電気っていう、自然の力を使って似たような道具を使っていたんだ」

「そうだったんですのね。でも自然の力を使うというのは素敵ですわ」


 純粋なセーナに苦笑してやる。それが環境を破壊しながら得ているエネルギーだということは伝えずにおいた。

 どちらが優れているかどうかなんてことも俺は興味ない。ただ俺自身の印象として、魔法という存在そのものに心惹かれているのだ。


「だから俺は素直に驚いている。セーナさんたちには当たり前かもしれないさっきの光も、俺にとっちゃ神の御業みたいなもんだ」

「でしたらコースケ様、他にもこんなものもあるんですのよ。ぜひご覧になってくださいな」


 セーナは異世界人の俺が驚くのを見るのが楽しいのか、子どものようにはしゃいで手招きしてくる。

 微笑ましいその姿に俺は、「しかたねえなあ」と呟きながら大人の余裕を見せようとしたのだが、俺自身も早く見てみたくてしゃかしゃかと早足だった。


「こちらは魔力蔵と言いまして、食料を長期間保存するために開発された食料庫ですわ。高密度に圧縮させた魔力で密閉させることによって、食料の腐敗を遅らせることができるのです」


 キッチンでセーナが得意気に指し示すのは、一抱えほどの黒い箱。要するに冷蔵庫だ。異世界魔法さまさまだな。


「へえ、これも俺の魔力を使うのか?」


 聞くと、セーナは頭を振った。


「食料の保管ともなると、一日中常に魔力を引き出す必要がございます。さすがに魔術師でもない人間の方がそんなことをすれば、魔力が尽きて精神崩壊の危険すらありますわ」

「こっわ!」


 冷蔵庫に精神崩壊させられるってどんなディストピア世界だよ。


「ですので、この魔力蔵には魔力媒という魔力をため込める性質を持った合成宝石をコアとして用い、人がいなくても起動できるようになっているんです」

「ほお、なるほどな。そりゃ便利そうだ」

「ですが、魔力媒もいずれは内臓された魔力が尽きてしまいます。その場合はどこかで魔力の込められた新しい魔力媒を買ってつけなおすか、魔術師に頼んで魔力を込めなおしてもらうことになりますわ」


 聞けば大体魔力媒の魔力が尽きるのはひと月前後だという。まあそれだけの猶予があればものぐさな俺でも維持はできそうだ。


「しかしそんな高価そうなものまで借りて大丈夫なのだろうか? 何から何まで悪い気がしてきたんだが……」

「もちろんです。それに、魔力媒の魔力が尽きたらわたくしが直接補充に参りますので、コースケ様は何も心配する必要なんてないんですのよ」


 エルフの魔法使いの矜恃でもあるのか、セーナは腰に拳を当てて大きな胸を突き出すように逸らして張ってどや顔だ。


「それは大変ありがたいが……」


 セーナのおかげで、俺の異世界生活は恙なく進行中。勇者でもないのにまるでVIP扱いだ。

 そこに俺は、自分の腹の奥に重みのある何か不穏な塊があるような感じを覚えた。もちろん比喩であって、言っておくが胃炎ではないぞ。


 普通異世界転移ものって、転生ものと違ってその日の食う物にすら困って追い詰められていくもんだと思っていたのだが、こうして初日に住むところまで手に入れ、魔法具のおかげで近代的な生活に近いものまで容易にできてしまうと、自分の幸運への喜びよりも不安が先立ってくる。

 それはこれから何かとてつもない困難が待ち受けているんじゃないかという、漠然とした不安だ。





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