第1章
第1話 即座に帰りたいと思った異世界生活
知ってるか?
死ぬと世界はぐるぐる回り出すんだ。
自分の魂っつうのかな。ふわふわ浮いたそれが白い世界の中で柱のように屹立する光の周りをぐるぐる回る。
そう、俺は自分に何かが見えていることを自覚している。光の音とでも言うのだろうか。爽やかな風が吹くときのようなさらりとした感触の音すら聞こえている。
でも下を向いても身体はないし、手を動かすこともできない。ただ知覚だけが浮遊している状態で、俺は流れるままに身を任せた。
おや?
俺はただこのまま彷徨い続けて消えていくだけかと思い始めていたのだが、空間に変化が起きた。中心にあった光の柱が何かを象りはじめたのだ。
人の背中だった。髪の長さや肩の丸みから、それが女性だとわかる。
全身が目映く光り色まではわからない。なのに、俺はその女性が悲しげに泣いているのがなぜかわかった。
俺までなぜか無性に悲しくなり、彼女を慰めたい衝動に駆られた。どうにか意識を彼女に近づけ、声をかけようとした。
その女性が近付く俺に気づいたように振り向いた瞬間だった。
「ん?」
俺は鳴るはずのアラームが鳴らなかったときのような声を出して上半身を起こした。
世界が、色を取り戻していた。
木が風に揺れている。
青臭い草の感触が手にくすぐったい。
どうして俺は草の上で寝ていたのだろう。死んだのではなかったのか。俺は刺された傷を手で探った。そして息を呑む。
傷はないし血に濡れてもいない。だが愛用のベージュのロングコートが裂けていた。丁度刃物を刺されたように。
理解が追いつかず呆然としていると、風が流れを変えて俺の顔の前を横切っていった。
水の匂いがする。潮の匂いとはまた違うものだ。どうやら俺は湖畔にいるらしい。
首を左右に振り向かせて位置を探った。やはり湖があった。緑豊かな場所だ。アメリカの子供向けアニメに出てくるような、楽園のような場所。
その中に溶け込んだあることに気づいて、俺は目を凝らした。
「おいおいおい、あれってさっきの」
夢の中で見たあの女性とそっくりの背が、湖の縁に立っていたのだ。
慌てて立ち上がり、その背に向かって足を進める。
近付くほどにわかる、あの夢との相似。
腰の辺りまである髪は丁寧に編み込まれて一つの束にされ、その柔らかさに手が誘われる。光で見えなかった色は今ははっきりとわかるが、不思議な色合いだ。輝く金色の根元から、だんだんとパステルグリーンへ移ろっていく毛先。なにより奇妙なのは、後ろ姿からでもわかるその尖った耳の形だ。
四十路の俺でもそれくらいはわかる。おっさんだからといってわざとらしく「これはあれだよな。聞いたことがあるぞ」とか言い出したりはしない。エルフという亜人だ。
しかしそんなものがいるわけがないと冷静な自分とせめぎ合いながら、俺は声が届く位置まで近付くと呼びかけていた。
「あの、もし」
声をかけてから俺は少し後悔した。
後ろから人が警戒もなく近付いてくれば足音でわかりそうなものだが、彼女は俺の接近に気づかなかった。なぜなら声を押し殺して啜り泣いていたからだ。
さすがに声をかけられれば後ろに人がいることなどすぐ気づく。彼女は勢いよく振り返った。目尻から零れる涙を散らして。
凄まじい美人だ。俺が愛車のバイクに初めて出会ったときの衝撃に近い。
滑らかで艶のある白い肌に色負けず埋もれないエメラルドグリーンの大きな瞳。化粧っ気はないが、自然のままで十分可憐な淡い唇。
質素だが質感が優しそうなドレスに身を包んだ彼女は、俺をじっと見つめて逸らさない。オフショルのドレスは白い肩が惜しげもなく曝され陽を反射し、少し視線を落とせば谷間が暴力的だ。いや大変俺好みだが。
「あ…………」
息が詰まったように彼女はようやく口を開いてか細い声を出した。言葉が通じなかったどうしようかと考えていた俺の杞憂を吹き飛ばすように、彼女は勢いよく頭を下げて、
「も、申し訳ございませんっ!」
なぜ俺はいきなり謝られているのだろうか?
「カリエセーナ・ユールウゴヤ。どうぞ、セーナとお呼びくださいませ」
恭しく裾を持ち上げて不思議な響きの名を名乗る美女エルフ、セーナ。俺も乱暴に親指で自分を指し示し、名乗り返した。
「百々目木耕介だ」
「どー、どー?」
首を傾げながら音を真似るセーナ。
俺の名前は発音しにくいのだろうか。だがそれでは絶滅した鳥だ。
セーナが読めるかはわからないが、俺はロングコートのポケットをまさぐって名刺を探した。だが見つからない。財布ごとだ。舌打ちしそうになる自分を抑えて、名刺は諦め肩をすくめて言った。
「呼びにくければ耕介と呼んでくれたらいい」
「コースケ様ですわね。かしこまりました。それにしても、随分ふわふわとした頭をなさっておられるのですね」
「うむ。そこについては触れてくれるな」
初対面でいきなり言葉のストレートパンチを放ってくるセーナ。思わずよろめきかけたが、普段から鍛えている足腰で耐えた。探偵は足の仕事だからな。
俺はいわゆる天パだ。もこもこだ。そして面長だ。友人たちには散々ブゥロッコリーだの、スチュィールウールだの、ペイナポゥだの言われてきた過去がある。ぶっちゃけ結構コンプレックスなのだ。
セーナは「どうしてでしょう?」と逆側にまた首を傾げて不思議そうだが、まあこの複雑なハートは当事者になってみなければわからないだろう。
「それで、セーナさん。俺もいろいろ聞きたいことは山ほどあるんだが、よければまず最初になぜ俺にいきなり謝ってきたのか、教えてもらえないだろうか」
「わかりました。実は――」
俺は合理的な人間だ。長い説明は省こう。
要するに俺がいま立っているこの地には魔法があり、それをセーナは使えるということだ。
「死者の魂を呼び寄せる術?」
「ええ。ですが死者の魂、というと少し語弊がございますわ。次元の稀人(ヴォジヤユヴェール)。コースケ様は、私たちがそう呼んでいる存在なのです」
「なるほど、わからん」
「本来は禁術に指定されている魔法の一種なのですが、魔力の波長が合う者、特に次元空間に漂う者を引っ張って召喚してしまうのです」
要するに異世界転移だ。俺は知っているぞ。
「確かに死に近い人ほど魔力反応を示すため、死者の魂とお思いなのは無理もありません。ですが、コースケ様は一度も死んではおられぬのです」
「それで元の世界で死にかけた俺がセーナさんの魔法にひっかかっちまったってわけか」
セーナは頷いて人差し指でまなじりを拭う。
「こんな形で禁術が発動してしまうとは思ってもみませんでしたわ。予想外だったとはいえ、コースケ様を不用意にこちらの世へ導いてしまいました。どうお詫びを申し上げればいいのか……」
どうやらその魔法はセーナが意図的に行ったものではないらしい。偶発的事故。たまたま俺が死にかけて、たまたまセーナがそのタイミングで魔法を発動し、たまたまその魔力の波長に俺の魂が合致してしまったということだ。
「それはいいがセーナさん、その禁術が発動してしまったというのは、あなたがさっき泣いていたことに起因しているのだろうか?」
ずばり指摘するとセーナは口を噤んだ。
「故意でないなら俺はあなたを恨んだりはしない。むしろ生きていることに喝采を上げたいくらいだ。だから何か思い詰めているなら話して欲しい」
偽らざる本音だ。俺は生きているならどこだろうと構わない。
「次元の稀人(ヴォジヤユヴェール)のコースケ様になら、この懊悩をお伝えしてもいいのかもしれません……。家族や親しい友人にすら話せなかった、この胸の奥を蝕む苦しみを」
と言ってセーナは自分の豊かな胸に手を当てる。その細い指先がわずかに沈み込む。俺は目を逸らした。
「こんな展開だ。多少は予想がついている。倒すんだな? 魔王を――」
「いえ、魔王は既に退治され今は万年の平和を謳歌しておりますが」
「あ、そう……」
「はい。〈聖なる雷鳴(ホワイト・ライトニング)〉の二つ名を持つ勇者様によってしばらく前に」
「俺なんでここに来たの?」
いや、命が救われたのはありがたいんだが。
でもほら、あるだろ。異世界に来たときの期待感とか使命感とかそういうやつ。
「なにかおっしゃいましたか?」
「いやなんでもない」
「ですが実は、その勇者様が問題なのです……」
「ほう?」
これはあれか。今度は勇者が力をつけすぎて第二の魔王になりかけているっていう展開か。
その片鱗をセーナが嗅ぎつけ、誰にも相談できずに泣いていたと。
俺の探偵としての鼻が告げている。
きっと俺はこれから勇者の身辺をあたりながら、魔王への変貌を食い止めるために街から街へ、馬車で船でと旅から旅への大冒険が待っているのだろう。
ヒロインはもちろん目の前にいるセーナ。苦難と歓喜を共に分かち合いながら、増えた仲間に背中を預け、ときに別れ、ときに戦い、また団結して。
そして最後に魔王化をぎりぎりで踏み止まった勇者と俺が握手してエンドだ。
やべ。年甲斐もなく燃えてきた。
「任せてくれ。俺は人の身辺を探る職業(プロフェツシヨナル)だった。勇者だろうとなんだろうと真実を突き止めるための技を実戦で鍛えてきた男だ」
「本当でございますか!?」
身を乗り出す勢いで目を輝かせるセーナ。
「ああ。詳しく聞かせてくれ。勇者のことを。どれだけ危険なミッションなのかを。俺が知と技を駆使して、抑えてみせる」
「実は、実は実は実は――」
セーナがわなわなと口を震わせて叫ぶように俺に訴えた。
「勇者様が、浮気をしているようなのです!」
「なるほどそうか」
帰りたくなっちゃったな。
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