8-5 あなたのせいで我が侭になったから

 全ては今から少し前のこと。

 迷夢蝶に導かれるまま歩を進めた慕の視界に飛び込んできたのは、見覚えのある深い森の景色だった。

 頭上にはどこまでも青い空が広がっており、周囲は青々とした葉を茂らせた木々がずらりと慕を囲んでいる。見慣れた鉄製の建物も電柱も、空を横切る電線も、この場のどこにも存在しない。

 一度は驚き、慌てふためいた景色。今の慕にとってはずっと心のどこかで求めていた景色が広がっていた。


「……本当に……戻ってこれちゃった」


 少しばかりぽかんとした声色で思わず呟いた。

 正直、慕は再び見知らぬ世界に放り出される覚悟もしていた。確率としてはそちらのほうが高いだろうとも考えていた。もう一度フィアーワンダーランドへ行くことを願ってはいたが、無事にフィアーワンダーランドへ来れる可能性は低いだろうと予想をつけていた。


 だが、実際のところはどうだ。迷夢蝶が導いた先は、慕が望んでいた場所だ。己の予想とは異なる結果に繋がり、驚かないほうが無理がある。

 驚愕を隠しきれない表情のまま、慕はゆっくりと周囲へ視線を向けた。

 何度周囲を見渡しても、自分の頬を強くつねってみても、自身の周囲には見覚えのある森の景色が広がり続けている。


 戻ってこれた。

 もう一度、この世界に来ることができた。

 恋する相手がいる世界に――フィアーワンダーランドに!


 ワンテンポ遅れて、強い歓喜が慕の中で膨れ上がっていく。

 今にも飛び跳ねてはしゃぎ回りたくなるが、そこはぐっと堪え、周囲の状況確認に集中する。

 なんせ、慕の感覚に間違いがなければここは恋い慕う相手のテリトリーだ。幼い子供のようにはしゃぎ回っている瞬間を目撃されてしまったら、顔から火が出るほど恥ずかしい思いをする。

 久しぶりに彼に会えるかもしれないのだ、あの頃よりも少し成長した自分の姿を見てもらいたい。


「……うん、やっぱりフィデリオさんが住んでる森だよね」


 周囲の景色と自身の記憶を照らし合わせ、導き出した結論はそれだ。

 やはり、何度見渡して確認してみても、ここはフィデリオと過ごした思い出がたくさんある森の中だ。

 だが、問題は森のどこに辿り着いたのか――だ。


 彼が住まう森が広いのは、ともに暮らしていた慕自身がよく知っている。はじめて出会ったときは偶然彼の家の近くに出てこれたが、今回も同じ偶然が起きる可能性はゼロに近い。

 まずは、自身が森のどこに立っているのか。それを明らかにしなくては、迷子になるだけだろう。


「……とはいっても、どうやって現在地を知ればいいのかなぁ……」


 手元に地図はない。スマートフォンに入っている地図アプリも、異世界という環境では何の役に立たない。ぱっと周囲を確認するだけで大体どの辺りに立っているのか把握する能力も、慕には存在しない。

 誰かに尋ねようにも、ここは心喰族が暮らす森の中だ。以前言葉を交わした店主の反応から、この世界の人々は心喰族を恐れている可能性が高い。恐怖の対象が住んでいる森の中にわざわざ足を踏み入れる人はいないだろう。


 地図はない。誰か通りかかるのを待つのも絶望的。下手に歩き回ると迷子になる可能性が高い。

 ――さあ、どうするか。完全に詰んでいるといっても過言ではない状況に、慕は苦笑いを浮かべて後ろへ倒れ込んだ。


「こういうとき、いつもフィデリオさんが助けに来てくれたからなぁ……」


 以前、フィアーワンダーランドで過ごしていたときの記憶が頭に浮かぶ。

 前のときは困った状況に陥っても、いつもフィデリオが助けに来てくれていた。自分一人だけでなんとかしようと頑張ったときもあるが、あのときも最終的にはフィデリオが駆けつけてくれていた。

 本当の意味で、己一人だけでこの状況をなんとかしなくてはならない――フィデリオは、慕が再びフィアーワンダーランドに来ているとは知らないのだから。


 さて、どうしようか。草葉の柔らかな感触を楽しみながら、思考を巡らせる。

 まだ日が高いが、日没が近づけば森の中は驚くほど暗くなる。夜の闇を照らすものは手元にあるが、スマートフォンだ。充電が尽きてしまえばそれまでになってしまうため、スマートフォン片手に夜の森を探索するのは賢い選択とはいえない。

 となると、太陽が出ているうちに森を一度抜けるか、フィデリオの家に到着しなくてはならない。


 タイムリミットつきと思うと、なんだかちょっと焦ってくるなぁ。


 片腕を額に当て、苦笑いを浮かべたまま息を吐く。

 今の自分にできることで、この状況を突破するための方法を考え、思いついては難しいことに気づき、また違う方法を考える。

 何度かそれを繰り返したのち、慕は両足をあげて大きく振り下ろし、反動を使って寝転がった状態から起き上がった。


「……あの子たちを探そう」


 ぽつり。小さな声で呟く。

 どうするか考えるうちに思い出した、フィデリオ以外でこの森の中に住んでいる存在。フィデリオにとって隣人たちともいえる、慕にとってはフィアーワンダーランドに迷い込んですぐの頃に出会った、少しの恐怖の対象でもある存在。

 自由に空を舞う彼らなら、どこか特定の場所へ足を運ばなくても出会える可能性がある。はじめて出会ったときに得た恐怖心はまだ残っているが、彼らの力を借りれば現在地を正確に知れる可能性がある。


「ちょっと怖いっていう気持ちはあるけど……大丈夫。あの子たちとも、なんだかんだいって長い付き合いになったんだから」


 それに、フィデリオともう一度会うためだ。怖がってなんていられない。

 気合を入れるため、自分自身に活を入れるため、自分の両頬を音が鳴るくらいに強く叩く。

 ばちんっという乾いた音をたて、ひりひりした痛みが両頬から伝わってくるが、おかげで気合が入ったような気がした。


 全ては今の状況をなんとか切り抜けて、あの人と再会するために。


 心の中で呟いて、慕は軽く身だしなみを整えて息を吸い込んだ。 

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