8-3 あなたのせいで我が侭になったから

 風が木の葉を揺らす音が響いている。

 毎日を過ごしている我が家は、己にとって過ごしやすいように整えられた空間のはずだ。そのはずなのに、ひどく空虚で、ひどく寂しいと感じる。

 理由はわかっている。つい最近までここに滞在していた少女の姿が見当たらないからだ。


「……決断したのはアタシ自身なのにね」


 あの少女に貸していた部屋を眺めながら、フィデリオは自嘲気味に呟いた。

 彼女を――慕を手元に置いておきたい。その思いを抑えつけ、彼女を故郷に帰すと決めたのは自分だ。彼女が帰ったあと、孤独と空虚感を味わう覚悟をしたのも自分だ。

 全てこうなるとわかって行動した。だというのに、ひどく胸が痛くて仕方ない。


 彼女が使っていた部屋に足を踏み入れ、ゆるりとした動きで周囲を見渡す。

 慕を故郷の世界に帰した日からずっと、彼女が使っていた部屋は時を止めたままだ。彼女に買い与えたものも、彼女が使っていたものも、全てが全てそのままの状態で残されている。埃が積もらないように掃除をすることはあっても、この部屋を片付けて元の状態に戻す気には一切なれなかった。


 この部屋を元の状態に戻してしまったら、湖心慕という、己が愛した少女がフィアーワンダーランドにいたという現実がなかったことになってしまうような気がして。


「……なんて。アタシもずいぶん未練ったらしい男になったわね」


 慕の意見を聞かずに己の意志を強引に通したのは、他の誰でもない自分だというのに。

 静かに首を左右に振り、そっと手を伸ばす。部屋に置いてある物を持ち上げ、丁寧に家具や物の上に積もった埃を拭い、汚れを取り除いていく。

 掃除用の布切れを片手に部屋中を掃除して回れば、かつての慕の部屋は彼女がいた頃のように綺麗な状態へと姿を変えた。


 こんなことをしても、慕はもう帰ってこないのに。

 綺麗な状態で残しておいていても、彼女がここを使うことはもうないのに。


 内なる自分が耳元で囁き、無言でそれを振り払う。

 そんなことはわかっている。ここを当時の状況のまま残しておいても何もない。

 それでも。……それでも。


「……そろそろお茶にしようかしら」


 ぽつり。一人、小さな声で呟いて空虚な部屋を離れるため、扉がある方角へ足を向ける。


『あ、フィデリオさん! あの、それだったら、私がお茶の準備をしますから……!』


 耳の奥で、この場にはいない少女の声が――もう二度と戻ってこない幸福の日々の断片が響いたような気がして、フィデリオは自嘲気味の笑みを深めた。


「本当に、未練ったらしいったら」


 何度あの子がいた日々をなぞっても、何も変わりはしないのに。

 いつまでも彼女を忘れられない自分に嫌気を感じつつ、キッチンに移動してくると、紅茶を淹れるための準備を始める。

 湯を沸かし、ティーポットやティーカップを温め、茶葉を量る――一連の工程を慣れた手付きでこなし、ティータイムの準備を一人だけで進めていく。

 何度か二人分を用意しそうになっては手を止めるのを繰り返しながらも、無事に一人分の紅茶の抽出作業に入ったところで、浅く息を吐きだした。


「早く慣れないといけないわね。シタウがいない生活にも」


 元の状態に戻っただけなのに、慣れないといけない――というのも不思議な話だが。

 ふわふわ漂う紅茶の香りを楽しみながら、テーブルに頬杖をついて適切な時間が経過するのを静かに待つ。


 かたん。


 ふいに。

 窓辺からかすかな物音が聞こえ、フィデリオはキッチンの窓へ視線を向けた。

 綺麗に磨かれたガラスの向こう側には、すっかり見慣れた森の緑と空の青が広がっている。窓のすぐ傍には慕がまだ一緒に暮らしていた頃、彼女が置いた小さな鉢植えが置かれており、白く小さな花を咲かせていた。

 その景色の中に映り込んでいる姿。フィデリオにとってはもう嫌というほど目にしている、心喰族になれなかったなり損ないの鳥が、くちばしで窓ガラスをかつかつ叩いていた。


「ちょっと。ガラスに傷がついたり割れたりしたらどうしてくれるのよ」


 憂鬱だった気分が一瞬で吹き飛び、苛立ちに近い感情がフィデリオの中で急激に膨れ上がった。

 彼らは同じ森に住まう隣人のようなものだが、いかんせん、こういうところがフィデリオとは合わない。

 苛立ちを含んだ手付きで窓を開けて話しかければ、目の前にいる三つ足の鳥はバサバサ羽ばたいて甲高い声をあげた。


「フォリルシャーポ! フォリルシャーポ、出てきた!」

「出てくるに決まってるわよ。窓ガラスをつつかないでちょうだい。――で、わざわざアタシを呼ぶなんて、なんのつもり?」


 腕組みをし、じとりとした目で鳥を睨みつける。

 人のティータイムを邪魔したのだ、これで大したことのない用事だったら焼き鳥にでもしてやろうか。

 不機嫌ゆえの思考を巡らせながら問いかけたフィデリオの視線の先で、三つ足の鳥は羽ばたくのをやめ、甲高い声で言葉を発した。


「フォリルシャーポ、外! 外に出る!」

「……外?」

「良いもの! 良いもの!」


 外、良いもの――外に良いものがあるということだろうか。

 隣人が口にした言葉の意味を考え、フィデリオは眉根を寄せた。

 外に良いものがある、だなんて。本当なのだろうか。この隣人たちは時折嘘をつくため、簡単には信用できない。

 だが、仮に真実だとしたら、一体何を『良いもの』と言っているのか気になるのも事実だ。


 信じるか、信じないか。静かに思考を巡らせたのち、深い溜息混じりに答えを口にした。


「アタシはこれからティータイムなの。これが終わったら見に行ってあげてもいいわ。けど、くだらないものだったらそのときは……わかってるわね?」


 指先に魔力を集め、ほんの少し、ほんの一瞬の炎を生み出してみせる。

 フィデリオが発動させた魔法を目にした瞬間、窓際の隣人はぴゃっと身体を跳ねさせて逃げるように飛び立っていった。

 青い空へぐんぐん向かっていき、小さくなっていく姿を見つめ、小さく息を吐く。


「……全く。なんなのかしら、本当に」


 あの子以上の良いものなんて、存在しないのに。

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