8-2 あなたのせいで我が侭になったから
「じゃあ、また明日ね、慕!」
「うん。また明日」
分かれ道で手を振り、反対側の道を進んでいく友人の背中を見送る。
彼女の背中が小さくなるまで見送ってから、慕も正面を向き、止めていた足を再び動かした。
何度も歩き慣れたはずの通学路も、今では歩き慣れない道だ。道に並んでいた店や建物も変化し、慕の記憶とは大きく異なる姿を見せている。
自分は生まれ育った世界に戻ってきたはず――それなのに、こちらの世界のほうが異世界であるかのように慕の目に映る。
フィアーワンダーランドに帰りたい。
一人になった途端、思うのは恋した相手がいる世界のことだ。
魔法が存在し、心喰族という人の姿をした人外がいる奇妙な世界。戸惑ってばかりで、刺激が強すぎる面もあったけれど、あの世界に帰りたくてたまらない。
あの世界に迷い込んだときは、元の世界に帰りたくてたまらなかった。ところが、いざ帰ってきたらあの世界に戻りたくてたまらなかった。
思っていた以上に、慕が故郷に置いていかれていたというのもあるだろうが。
「……確か、あのときも一人で帰ってたら迷夢蝶と出会ったんだっけ」
かつての記憶をなぞり、独り言を口にする。
当時は、失恋を経験したあとの帰り道だった。確か、いっそ恋心を手放せたら――なんて、出来もしないことを考えていたんだったか。
あんなことを考えていたから、恋心を好物とするフィデリオと出会ったのだろうか。だとしたら、ある意味運命の出会いだったのかもしれない。
「……なんて、ね」
自身の思考に対し、乾いた笑いを浮かべる。
フィデリオとの出会いが運命だったかもしれない――なんて。そんなことを考えてしまうくらいには、彼が恋しい。
だが、世界規模で離れ離れになってしまっているのだから、簡単には会えない。
会いたくて、恋しくて、声が聞きたくて仕方ないのに、世界はそれを許してはくれやしない。
「……本当に、ひどい世界だ」
世界への恨み言を一言呟き、慕は歩く速度をほんの少しだけ早めた。
とりあえず、早く帰らなくては。一度行方不明になったからか、両親は慕に対して少々過保護になっている。帰宅が遅くなってしまえば、またいらない心配をかけてしまう。
先ほどまでよりも大股に、速度は少々早めに、慕は黄昏色に染まりつつある街の中を歩く。
――ひぃ、らり。
ふと。
慕の視界の端で、光がちらついた。
空から降り注ぐ黄昏色とは異なる、優しい光。ひらりひらりと宙を舞いながら移動する光は、見覚えのあるものだ。
「……!」
そんな、まさか、見間違い、いや見間違いであるはずがない。
大きく目を見開き、どくどくと心臓が早鐘を打つ。憂鬱な感情が一瞬で吹き飛び、入れ替わりに強い焦燥感が心を満たしていく。
自身の心に命じられるまま光がちらついた方角へ、慕は目を向けた。
視線の先で光る蝶が一匹、踊っている。
見間違いかと思ったが、見間違いではない。ひらひら、ゆらゆらと確かに慕の視線の先で舞い踊っている。
手を伸ばせば、ほんのわずかに触れた指先へ翅の感触が一瞬だけ伝わった。
迷夢蝶がいる。故郷に帰ってきてから長い時間が経った頃に、慕をフィアーワンダーランドに導いてくれた存在が再び姿を見せた。
夢でも幻でもない、確かな現実。そのことが慕の心を歓喜と焦燥感で震わせた。
「待って!」
物言わぬ蝶へ呼びかけ、走り出す。
ひらりひらり、慕の視界の中で迷夢蝶は光の鱗粉をこぼしながら、宙を飛んでいる。
はじめて迷夢蝶を見たあの日と同じように、普段はあまり人が立ち入らない路地裏の中へと入り込んでいく。
はやる気持ちを抑えながら路地裏を覗き込めば、奥を目指して飛ぶ迷夢蝶の姿が見えた。
「……」
ごくり。唾を飲み込む。
まるで、あの日の再現だ。帰り道に迷夢蝶を見かけるのも、迷夢蝶が路地裏に入っていくのも。はじめてフィアーワンダーランドに迷い込んだ日にあったことを、再びなぞっている。
あの日と異なるのは、慕の意識がはっきりしている点だ。
大きく深呼吸をし、一歩を踏み出す。そのまま慎重な足取りで二歩、三歩と進み、迷夢蝶のあとを追いかけていく。
ひらひら、ひらひら。慕を誘うように舞い踊る光の蝶は路地裏の奥を目指して飛び続け――やがて、路地裏の奥で口を開けている暗闇の中へ飛び込んでいった。
「……あの中に、飛び込んだら、もしかして」
黄昏色に染まりつつある時間といっても、濃い闇が広がるほどの時間ではないはずだ。だというのに、視線の先は不自然に暗い。黒い絵の具をぶちまけたかのような、己の姿すら見失いそうなほどの闇だ。
だが、あの中に入れば――もしかしたら。
もしかしたら、フィデリオに会いにいけるかもしれない。
必ずフィアーワンダーランドへ行ける保証はない。
だが、慕をフィアーワンダーランドへ導いてくれる可能性があるのも迷夢蝶だ。
ぽっかり大口を開けて獲物を待つ漆黒を少しの間見つめたのち、慕は鞄から新たに持たせられたスマートフォンを取り出した。
フィアーワンダーランド以外の場所に連れて行かれる可能性があったとしても、慕の心は決まりきっていた。
「……ごめんなさい、お父さん。お母さん」
ととと、たたた。慕の指先がリズミカルにスマートフォンの画面をタップする。
素早くメールを作成して両親宛てにメールを送信すると、慕は己の目の前に待ち構える暗闇に向かって足を踏み出した。
「行ってきます」
送信したメールとまるきり同じ言葉を呟き、少女は再び己の故郷を旅立った。
今度は他の誰でもない――己の意思で。
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