7-5 淡く育った想いを差し出して

「――駄目よ」


 耳元でフィデリオが苦しそうに、囁くように、言葉を発する。

 全身を何かに包み込まれるような感覚がして、すぐ傍でいつも彼が身にまとっている香水の香りがする。

 予想していたものとは異なる感覚に驚き、慕は伏せていた目を見開いた。


「あ、あの……フィデリオ、さん?」


 ぐ、と慕の身体を拘束する腕に力が込められる。

 フィデリオに抱きしめられている。頭がそう理解した瞬間、ぼっと顔に熱が集まるのを感じた。

 こうして彼の体温をすぐ傍で感じることは今までもあった。だが、恋心をごまかしていた昔と明確に自覚した今では、己の内側で溢れ出てくる感情が違う。


 好きな人に抱きしめられている恥ずかしさと、そうしてくれていることへの嬉しさ。浮かれている場合ではないと頭の片隅では理解しているけれど、二つの感情が慕の心を満たしていく。


「フィデリオさん」


 もう一度、彼の名前を呼ぶ。

 慕の呼び声に返事をせず、フィデリオは再び慕を抱きしめている腕に力を込めた。


「駄目よ、シタウ。それは駄目」


 苦しげな声で、フィデリオが言葉を繰り返す。

 フィデリオの腕の中で大人しくしながら、慕は口を開いた。


「……なんでですか? 私、フィデリオさんだったら私の恋心、食べられてもいいのに」


 最初から、そういう約束だったはずなのに。

 それに、今ならなんとなくわかる。出会ったばかりの頃だって、フィデリオはおそらく慕の恋心を食べようとした――あのときは、ひどい味がすると言って結局食べられないままで終わったけれど。


 過去に一度食べようとして、いつかは差し出すという約束までしていたのに、駄目というのはどういうことなのか。

 考える慕の耳に、フィデリオの声が届く。


「アタシが食べたくないのよ。恋心を失った人間は、その人を好きだったことを忘れる。……あんたはよくても、アタシが嫌なのよ」


 鼓膜に届く声は、わずかに震えている。

 今、フィデリオがどんな顔をしているのか気になって顔をあげようとしたが、それよりも早く彼の手が動き、慕の頭を胸元へ押さえつけた。

 顔を見せないようにしたまま、フィデリオはさらに言葉を重ねる。


「……あんたよりも前に、森に迷い込んできた人間がいたわ。そのときも、アタシはシタウにしたときと同じように、アタシのことを好きになるように仕向けた」


 静かにフィデリオの声に耳を傾けながら、慕は目を見開く。

 脳裏をよぎったのは、過去にフィデリオの部屋で見かけた見知らぬ女性が映った写真。

 そして、フィデリオのお使いを達成するために訪れた店で聞いた、店主の娘の話だ。


『私の娘も、過去にあの森へ行って、帰ってきた頃には一部の感情をなくしていた』


 あの話を聞いたときも、フィデリオの部屋にあった写真を思い出した。

 あのときは確証が持てないと考えて自分をごまかしていたが、フィデリオの話の中でも出てきたということは、彼女が手芸屋の店主の娘なのだろう。

 過去にフィデリオを好きになり――そして、恋心を食べられた人。


「それまでも誰かの恋心を食べるのは何度もしてたから、どうなるかわかってた。別にそれでいいと思ってた。……でもね、あのときは……違ったのよ」

「……違った……?」


 ぽつ、と小さくフィデリオの言葉を繰り返す。

 少しの間が空いたあと、フィデリオがやはり苦しそうな声で言葉を紡いだ。


「あの子の恋心を食べたあと。アタシを好きだったことを忘れたあの子の目を見た瞬間、とても苦しくなったのよ」


 彼が紡いだ言葉を耳にした瞬間、慕は大きく目を見開いた。

 先ほど、フィデリオも言っていた。恋心を食べられた人間は、その人を好きだったことを忘れてしまう。

 あの写真の女性も例外ではなく、恋心を奪われてフィデリオを好きだった記憶を失ってしまった。


 ……けれど、それでフィデリオが苦しくなるということは、つまり。


「……フィデリオさんは……その人のこと、好きだったんですか?」


 口に出した答えが、慕の心を深く抉る。

 わざわざ自室に写真を飾るほどだ、彼にとって特別な相手であることは簡単に予想ができた。

 だが、フィデリオを好きになった今、彼が自分ではない誰かを好きだったことがあるという現実を知るとどうしても胸が痛くなる。

 すでに過ぎ去った過去へ嫉妬しても何もないし、どうしようもないとわかっているつもりなのに。


「ええ。でも、もう過去の話よ」


 フィデリオが少しだけ肩を揺らし、苦笑を浮かべる。


「……馬鹿な話よね。あの子がアタシを好きになるよう仕向けるうちに、アタシもあの子を好きになってたなんて。それも、恋心を食べたあとに自覚するなんて……本当、馬鹿な話だわ」


 最後の言葉だけは独り言のような声量。

 はあ、と深く息を吐きだし、フィデリオはようやく慕を抱きしめる腕から力を抜いた。

 ぱっとフィデリオの胸元から顔を上げ、彼を見上げる。

 慕の目に映ったフィデリオは、どこか苦しげで、寂しそうで――それを押し殺しながら笑っていた。


「好きよ、シタウ」


 たった三文字の短い言葉。

 だが、フィデリオが紡いだ三文字は慕の心を強く揺さぶった。

 フィデリオの手が慕の頬を撫で、再び寂しげに笑う。


「あんたと出会ったときは、あの子以上に好きになる人間なんて現れないと思ってたし、最初からあんたを利用する気でいたわ。……でも、どこまでも真っ直ぐに慕ってくるあんたと過ごすうちに、アタシもあんたに惹かれてたのよ」

「フィデリオ、さん」

「……だから、シタウにはアタシを好きなままでいてほしい。シタウにとって苦しいことだとわかってるけれど、シタウにはアタシを好きだったことを忘れないでほしいのよ」

「フィデリオさん!」


 もう一度フィデリオの名前を呼ぶが、目の前にいるフィデリオは寂しそうな笑顔を浮かべたままだ。

 慕の頬を撫でる手つきは愛おしそうで、普通なら嬉しさや照れを感じるところだろう――だが、それらの感情は少なく、かわりに嫌な予感と強い焦りが慕の中を満たしていく。


 フィデリオは、何かを――彼の中だけで決めてしまっている。


「……できるなら、あんたをこのまま傍に置いておきたい。けど、シタウはもともと違う場所で生きていた人間で、帰る場所がある。これ以上アタシがあんたを縛るわけにはいかないもの」

「フィデリオさん、待って、私の話を」


 聞いてほしい――最後の言葉が紡がれることはなく、全身を襲った衝撃で途切れた。

 頬を撫でていたフィデリオの手が慕の肩に触れ、勢いよく突き飛ばす。突然の衝撃に身体が対応できず、慕は突き飛ばされた衝撃に従って後ろへよろけた。

 瞬間、周囲が無数の光の粒子で包まれ、視界が眩しいほどに明るくなる。


 この光には覚えがある。慕がフィアーワンダーランドへ迷い込むきっかけになったもので、フィデリオがここに駆けつけた際に引き連れていたもの――迷夢蝶だ。

 迷夢蝶が起こす光の向こう側で、フィデリオがゆっくりと口を開いた。


「ばいばい、シタウ。ひどい男でごめんなさいね。けど、アタシを好きだったこと、アタシのこと、忘れないでちょうだいね」


 ぐ、と慕は表情を歪める。

 ああ、本当にひどい人だ。慕の気づかない間に、一方的に慕を元の世界に帰すことを決めていた。慕がフィデリオのことを簡単には忘れられないようにしたうえで。

 本当にひどい人――けれど、それでも。


 それでもやっぱり、自分はフィデリオ・フォリルシャーポという人が好きなのだ。


「――フィデリオさん!」


 大きく息を吸い込んで、ありったけの大声で慕が叫ぶ。

 視界を覆う光は強くなる一方で、少し前まで見えていたフィデリオの姿もほとんど見えない。

 それでも、まだそこにいると信じて、かき消されていく彼へ手を伸ばす。

 伸ばされた手に触れる温度はなく、ただ空をかくのみだったけれど。


「私は! 私は、またここに来ます! フィアーワンダーランドへ! あなたへ会いに!」


 そんなこと、できるのかわからない。

 だが、慕は偶然迷夢蝶を見つけ、フィアーワンダーランドへ迷い込み、フィデリオと出会った。そして今も、迷夢蝶の力に引っ張られて故郷へ帰ろうとしている。

 すでに一度あったのなら、もう一度同じことが起きる可能性も零ではないはず。

 そう信じて、慕は叫ぶ。


「だから! また会えたら、そのときは!」


 ありったけの想いを、想い人に届けるために。


「私を! あなたの傍に置いてください!」


 想いを力いっぱい叫んだ直後、慕の視界が完全に光で包まれた。

 光で包まれたのは慕の視界だけでなく、彼女自身も迷夢蝶が発する光の粒子の中に溶けて消えていく。

 迷夢蝶の群れが再びどこかを目指して夜空に舞い上がる頃には、フィアーワンダーランドではない世界から来た少女の姿は夢だったかのように消えていた。


「……馬鹿ね、シタウ」


 その場に一人取り残されたフィデリオの声は、誰にも聞かれることなく森の中に溶けていった。


「こんな変わったこと、もう二度と起きないに決まってるじゃない」


 ぽたり。

 青紫の瞳からこぼれた予報外れの雨が、土の上に落ちた。


「アタシの知らないところで。どうか幸せになってちょうだいね、可愛い子」 

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