7-3 淡く育った想いを差し出して

 背後に何が降り立ったのかはわからない。振り返れば全てわかるが、慕の脳がそれを拒否していた。

 だが、振り返らなくてもわかる。今、己の背後には――とても大きく、プレッシャーを放つ何かがいる。

 慕の正面に立っているマルティエには、慕の背後に降り立ったものの正体がはっきり見えているのだろう。彼が目を大きく見開いたのち、忌々しげに表情を歪めたのがわかった。


「感づくのが早すぎるだろ。どれだけそいつのことが気に入ってるんだ?」

『アタシはね、気に入ったものに対してはとことん甘くなるの。あんたもちゃんとわかってるんじゃないの?』

「ああ、よーくわかってる。けど、俺の予想ではお前が気づくまでもう少しかかるはずだったんだぜ? そのために魔法を使わずにシタウを連れ出したってのに」

『シタウがアタシの魔力で魔法を使ってくれたおかげよ。さすがはアタシのお気に入りだわ』


 獣が唸るような声に混じり、聞き覚えのある声がする。

 気のせいかとも思ったが、確かに聞こえる。低い唸り声に混ざって聞こえるのは、慕が繰り返し耳にしてきたフィデリオの声だ。


 じゃあ、今背後にいるのはフィデリオ?


 己の脳に一つの問いが浮かび、けれど即座に否定する。

 慕がよく知っているフィデリオは人間の姿だ。こんな獣が発するような唸り声の持ち主ではない。

 けれど、マルティエはフィデリオが心喰族だと言っていた。普段、慕が目にしていた姿が仮の姿である可能性は十分に考えられる。


 実際のところはどうなのかわからない。だが、フィデリオである可能性は非常に高いだろう。

 慕が一時的にフィデリオの魔力を借りているのを知っているのは、先ほどそのことを知ったマルティエのほかには、フィデリオしかいないはずだから。

 不機嫌を隠しもしない顔で舌打ちし、マルティエが面白くなさそうな声色で言葉を発する。


「あともう少しだったってのに」

『あんたがアタシを出し抜こうなんて、百年早いのよ。出直してらっしゃい』


 直後、地面から青い炎があがり、慕とマルティエを隔てる。

 何もないところから火の手があがって驚いたが、まるで慕をマルティエから守るかのように燃えている。そのことに気付いた瞬間、恐怖と驚愕に混じって少しの安堵を感じた。


 同時に、結局フィデリオに守ってもらってしまった現実に、自身への情けなさも感じてしまうが。

 燃え盛る炎の向こう側で、マルティエがやれやれと言いたげに首を振る。


「へいへい。なら、今回は諦めますよっと。じゃあな、シタウ」

「……もう来ないでください」

「はは、つれないこと言われたらまた来たくなるに決まってんだろ。まあ、もしかしたらもう二度と会わないかもしれないけどな」


 炎の向こう側に立つマルティエが、楽しそうに表情を歪ませる。

 彼がどういうつもりで最後の言葉を紡いだのか、気付かないほど慕も鈍感ではない。

 今の慕は、今までと異なり、故郷に帰るための手段を見つけている。それを発見し、慕に与えたのは他の誰でもいないマルティエだ。


 なんと言葉を返したらいいのかわからず、口を閉ざす。

 慕のそんな反応すら面白くて仕方がないのか、マルティエはいつもそうしているように肩を揺らして笑うと、木々の隙間に広がる闇の中へ姿を消した。

 場に残されたのは、慕とおそらくフィデリオだと思われる気配の主のみ。

 無意識のうちにか細くなっていた呼吸を整え、大きく深呼吸をすると、慕は勇気を出して振り向いた。


「あの」


 否、振り向こうとした。

 だが、慕が背後にいる誰かの姿を目にする前に、視界が暗闇で閉ざされる。

 突然のことに一瞬混乱したが、何かで視界を覆われているのだとすぐに気付いた。


『見ないでちょうだい』


 再び、獣の唸り声とフィデリオの声が混ざって聞こえる。

 確かに聞こえた言葉は、今、慕の背後にいるのがフィデリオなのだと肯定するものだ。


『今のアタシは美しくない。こんな醜い姿、シタウには見られたくないわ』


 発される言葉は、声は、普段の彼とは大きく異なる。

 いつも慕が耳にしてきたフィデリオの声や言葉は、自信に満ちていた。こんなに不安そうで弱々しいフィデリオの声ははじめてだ。


『それに、こんな姿、あんたを怖がらせるに決まってるわ』

「……確かに、いきなり背後に降りられたときは驚きましたし、ちょっと怖かったですけど。でも、フィデリオさんなら、どんな姿でも怖くありませんよ」


 柔らかい声で、慕はフィデリオへ呼びかける。

 フィデリオが来た直後は、とても驚いたし恐怖を感じた。だが、それは正体がフィデリオだとわからなかったからであって、正体がはっきりした今は恐怖も不安も感じていない。

 かわりにあるのは、いつもフィデリオと過ごしているときに感じる安堵感とささやかな幸福感だ。


「それに、フィデリオさんと過ごすうちに私だってちょっとは強くなったんですよ。さっきまでだって、私一人だけでマルティエさんから逃げようといっぱい考えたんですから」


 ふんすっとちょっとだけ胸を張る。

 フィデリオからするとまだまだ頼りないし、弱々しく見えるだろう。けれど、一人でなんとかしようと思えるくらいには、慕も成長できているし少しは強くなれている――はずだ。


 フィデリオからの返事は返ってこない。

 しばしの沈黙ののち、慕の視界を塞いでいたものが離れ、柔らかな森の光が慕の視界を照らし出した。

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