7-2 淡く育った想いを差し出して

 頭が少しだけぐるぐるする。

 一度や二度使ったことはあるが、まだ片手の指で数え切れるくらいの回数だ。ほんの少ししか使ったことがない魔法の力には、少々身体がついてこない。

 何度か目にしたことがある空間へ逃げ込み、手頃なところにあった亀裂へ飛び込むと、慕は不調を訴える頭を片手で押さえながら周囲を見渡した。


 とにかく少しでも早くマルティエの傍を離れたくて魔法を使ったが、どうやらまだ森の中にいるらしい。同じような顔をした木々がずらりと立ち並んでおり、木々の隙間から先を見つめてもあの特徴的な町並みは見えてこない。

 さらにいうなら、現在地もどこかわからない――変わらず、慕の状況は悪いままだ。


「……でも、少しでも早く、戻らなきゃ」


 自身の中で芽生えた不安を吹き飛ばすため、小さな声で呟く。

 マルティエにフィデリオへの恋心を渡すつもりはない。それに、フィデリオにもあまり余計な心配をかけたくはない。

 元の世界に戻るための条件が整っているのにと訴えてくる自分もいるが、そのためにマルティエへ恋心を渡す気にはなれなかった。


「……大丈夫、迷夢蝶はまたいつか姿を現すときが来る。大丈夫」


 自分に小さな声で言い聞かせたのち、慕は止めていた足を動かして歩き出した。

 気持ち的には走り出したいのだが、森の中だ。足元が整えられた街の中とは異なり、整えられた道はない。走って移動すると転倒する危険性が高いことを、慕はフィデリオとともに森の中で過ごすうちに学んでいる。


 慎重に、けれど急ぎ足で木々の隙間を縫って進む。時折、足を止めて周囲の音に耳を澄ませ、自分以外の何かが近づいてきていないかを確認しながら、森の中を歩いていく。

 現在地がどこかわからず、ちゃんと街に向かえているのかもわからない。自分がどこにいるのか知るための道具も、今は手元にない。


 まるで、はじめてフィデリオと出会った日――慕がフィアーワンダーランドに迷い込んできた日の再現のようだ。

 あのときと違うのは、慕はフィアーワンダーランドについて少しだけ知っていること。

 そして。


「見つけた」

「!」


 追いかけてきているものが、三つ足の鳥なんていう可愛いものではないことだ。

 頭上でつい先ほどまで聞いていた声が聞こえ、慕は反射的に顔を上げた。

 頭上に広がっている枝葉のうち、特に太くてしっかりした枝の上に見覚えのある極彩色がある。


 どうやって追いかけてきたのか、まるでわからないが――魔法が存在する世界だ。慕が魔法を使ってマルティエの傍から逃げ出したように、彼も魔法を使って慕を追いかけてきたのかもしれない。

 枝を蹴り、思わず足を止めた慕の目の前に極彩色が舞い降りてくる。

 慕の行く手を遮るように立ち、マルティエはくつくつと肩を揺らして楽しげに笑ってみせた。


「まさか魔法を使うなんてな。あいつとよく似た魔力の気配がしたが、フィデリオから魔力を借りるか何かしたか?」


 警戒の色を含んだ瞳で、慕はマルティエを見つめる。

 慕のそんな反応すら楽しくて仕方がないのか、マルティエは再びくつくつ笑って一歩を踏み出した。


「あいつがそこまでするくらい、入れ込むなんて。本当に面白いし、らしくないことをする」

「……人は、変わりますよ。変わらないこともあるけど、時間の流れと一緒に人は変わっていくことが多い」


 静かな声で反論しながら、慕は一歩後ろへ下がる。

 距離を詰められたら、先ほどのように身動きができなくなる可能性が高い。一度目はマルティエの隙をつけたが、さすがに二度目はないはずだ。

 反論した慕を見つめる彼の瞳に、わずかな冷たさが入り交じる。


「俺は前の、俺たちらしいフィデリオのほうが気に入っていた。あいつをそこまで変えたのがお前なのかと思うと、少し腹立たしい」


 ざり。マルティエが身につけているブーツの靴底が森の土を踏みしめる。

 さらに一歩距離を詰めてきた彼から離れるため、慕は後ろへ下がる。一度彼の下から逃げ出す前に行われていたやり取りと同じような状況だ。

 けれど、あのとき感じた混乱や恐怖は鳴りを潜めているため、少しばかり思考が回る。


 ――考えろ。


 今、己が置かれている状況を打破するために考えろ。

 はじめてフィデリオと出会ったあの日を再現しているかのような状況だけれど、あのときよりもはるかに状況が悪い。


 相手は心喰族。フィデリオを追い越すのを目標に力をつけてきたのなら、相当強いはずだ。戦うための心得も、魔法の力も持たない慕ではまず太刀打ちできない。

 フィデリオが助けに来てくれるのを待つのも、やはりどう考えても非現実的だ。

 フィデリオは助けに来ない。何度思考を巡らせても、慕一人でなんとかしなくてはならない。


 ――あの人の、隣に並びたいのなら。これくらい、できて当然でしょう?


 頭の中で声が聞こえる。

 己の内側から聞こえた声は、他の誰のものでもない。慕自身の声だ。


「さて、シタウ。今度はどうする? 逃げられると狩りは面白くなるが、同じ逃げ方は通用しないぞ」

「……それは、私もなんとなく予想がついてます。なので」


 ぐるりと周囲を見渡し、慕は落ちていた木の枝を拾い上げた。

 太刀打ちできないとわかっている。圧倒的に不利だとも理解している。

 ……ならば。


「知恵を絞って、あの手この手で逃げ延びてみせます」


 枝を構えて慕が宣言した直後。

 慕とマルティエの頭上に影が落ち、きらきらと光る鱗粉を零す蝶を引き連れて、何か巨大なものが慕の背後に降り立つ音がした。 

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