6-7 抱えた想いを手放さない
「私は、その取引には応じれません」
余裕に満ちていたマルティエの表情が崩れ、極彩色の瞳が大きく見開かれる。
元の世界では確実に見られない色彩を真正面から見据え、慕は言葉を続けた。
「……確かに、フィデリオさんが心喰族だっていうのを知ったときは驚いたし、ちょっとだけショックも受けましたけど。でも、私はマルティエさんの取引には応じれません」
「……何故だ? あいつはずっと人間のふりをして、お前を騙していた。お前があいつを好きになるように優しくしていた。それなのに、何故?」
くしゃりとマルティエの表情が歪められる。
心底理解できない――彼の表情や極彩色に彩られた瞳が、はっきりとそう語っている。
傍目から見ると、フィデリオは慕を騙していたように見えるのかもしれない――けれど、慕を保護してくれたとき、彼はこうもいっていたのだ。
「フィデリオさん、言ってたんです。私が対価を支払えるようになったらもらう、って」
思い出すのは、慕がはじめてフィデリオと出会った日のこと。フィデリオの家でお世話になることが決まったときにした、彼とのやり取り。
『対価は支払えるようになったらもらう』――あのときのフィデリオは、確かにそういっていたのだ。
「最初にそういってたんです。だから、私はフィデリオさんに騙されたとは思っていません」
保留になっているものを確実に手に入れるために動くのは、何もおかしいことではないと慕は考えている。
正体はずっと隠していたけれど、話していないだけだ。それは慕を騙していたことにはならないのではないか――とも思っている。
だから、慕の中には驚愕はあれど、フィデリオに対する怒りやよくも騙したなという思いはどこにもない。
……それに。
「それに、フィデリオさんが私たち人間の心を食べるものだったとしても。……私は、やっぱりフィデリオさんが好きなんです。だから、あの人への恋心は、あの人に渡したい」
依存心だと思い込んで、見てみぬふりをしてきたけれど。
マルティエに取引を持ちかけられた際に感じた。己が胸の中に抱えている想いをフィデリオ以外の誰かには渡したくない――と。
誰かに恋心を渡さなくてはならないのなら、他の誰でもないフィデリオがいい。
彼に、己はあなたのことが好きなのだと伝えてから、この恋心を渡したい。
多分、おそらく、きっと――今まで経験したことがない形だけれど、これはフィデリオへの依存心ではなく、一種の恋心だ。
「手放すなら、あの人の糧になってほしい。だから、マルティエさんに私の恋心はあげられません」
真正面からはっきりとした言葉で断る。
交渉決裂。慕の言葉をぽかんとした顔で聞いていたマルティエだったが、少し遅れて頭がそう理解すると静かに目を細めた。
どこか剣呑な空気も感じる目つきに、慕はもう一歩後ろへ下がって彼から距離をとった。
だが、すぐにマルティエも前へ進み、慕との間にあいていた距離を詰めてくる。
傍に頼りにしている人物が一人もいない状態で、恐れていた心喰族と対面している。
少し遅れて、今の状況に対する恐怖がじわりじわりと染み出してきた。
けれど、恐怖に負けてパニックになるわけにはいかない。自分は、自分の恋心を目の前にいる人物には渡さないと決めているのだから。
「そうか、そうか。シタウの気持ちはよくわかった。……残念だ、同意を得られなくて」
「……はい。そういうわけですから、諦めてくれませんか? マルティエさん」
一歩、さらに後ろへ下がる。
こうは言ったが、マルティエが簡単に諦めることはないだろう。
先ほど、彼が口にしていた言葉から予想すると、マルティエはフィデリオの上をいくことを目的としている。何かとフィデリオにちょっかいをかけていたのも、今思うと隙を探ろうとしていたのかもしれない。
そんな人物が、獲物に持ちかけた交渉が決裂したからといって素直に諦めてくれるとは思えない。
即座に巡らせた慕の考えを、マルティエの声が肯定する。
「はいそうですかと素直に諦めるわけがないだろう?」
「……ですよね……」
完全に予想通りの答えだ。思わず引きつった笑いさえ出てくる。
「獲物がノーと答えても決行する。狩りとはそういうものだ。ここにはフィデリオはいないし、あいつもお前が俺と行動していることを知らない」
「……」
「穏便に渡してくれないのなら、あとはもう、強引に奪うしかないな」
空気にピリッとした気配が混じり、慕の中にある恐怖がさらに強く色づいていく。
彼が口にしたように、この場にはフィデリオはいない。
マルティエの手によって強引に連れ出されたことはあるが、あのときと異なり、フィデリオは慕がマルティエに連れ出された事実を知らずにいる。
以前のように、フィデリオが来てくれる可能性は非常に低い――考えれば考えるほど、慕にとって絶望的な状況で、マルティエにとって有利な状況だ。
マルティエがわざわざ慕を連れ出したのも、自分にとって有利な状況を作ってから狩りをするためだったのだろう。
どうやってこの場を切り抜けよう。
どうやってこの場から逃げ出し、フィデリオと合流しよう。
諦めるな、考えろ。
一歩、また一歩とこちらへ近づいてくるマルティエから距離を取り続けながら、慕は必死に思考を巡らせる。
そのとき、森が作り出す薄闇の中、慕の手首できらりと光るものがあった。
まるで慕を勇気づけるかのように感じた煌めきへ一瞬だけ視線を向け――大きく目を見開いた。
「……そうだ」
そうだ、これなら。
これなら、この場からなんとか逃げ出せるかもしれない。
逃走のための糸を掴むと同時に、ずっと後ろへ下がり続けていた足が木の幹にぶつかった。
それに伴い、マルティエの足も止まり、くつくつと声を押し殺して笑った。
「さて、もう逃げられないわけだが。覚悟は決まったか?」
背後には木、正面にはマルティエ。簡単には逃げ出せない状況だ。
ゆっくりとマルティエの手が伸びてきて、慕の顎を掴んだ。そのまま顎を持ち上げられ、マルティエと慕の視線が絡んだ。
チャンスは一度きり。一か八か。
色づく恐怖を振り払い、慕はマルティエを真っ直ぐ見つめたまま、強気に笑ってみせた。
「……いえ。私はまだ逃げるのを諦めてません」
「へぇ? 何ができるんだ、お前に。武器も持たない、魔法も使えない、ただの人間のお前に」
彼の言う通り、慕は武力も魔法の力も持たないただの人間だ。マルティエたち心喰族からしたら、無力な生き物にしか思えない。
だが、慕にはフィデリオから借りたこの世界でしか使えない力がある。
大きく息を吸い込み、マルティエの手を振り払って彼の身体を突き放した。
完全に油断しきっていた彼の瞳が大きく見開かれ、突然の衝撃にバランスを失った彼の身体が背後へよろめいた。
ほんのわずかな隙を逃さず、慕は両手を伸ばした姿勢のまま、大きく息を吸い込んだ。
「《Invitation to the tea party》!」
慕の大声に反応し、手首につけていたブレスレットが強い光を放つ。
慕がはじめてフィデリオにお使いを頼まれた際に借りた、彼の魔力を込められたブレスレット。
日数の経過とともに込められていた魔力は弱まっていくと聞いていたが、まだ彼が得意とする移動魔法を使うために必要な分が残っていてくれたらしい。
強い風が巻きおこる中、慕は耳の奥で重い扉が開かれる音を聞いた気がした。
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