6-6 抱えた想いを手放さない
すぐ耳元で聞こえた言葉は、慕の時を一瞬止めるには十分すぎた。
心喰族。フィアーワンダーランドに住まう種族の中で、慕がもっとも不安視していたもの。人の心を食糧とする、不可思議な存在。
フィデリオが――それ?
「……どう、いう……」
理解が追いつかない。
だって、慕の中ではフィデリオ・フォリルシャーポという青年はとても親切な人間だ。フィアーワンダーランドの中でも有名な魔法使いで、はじめて会ったときも慕を助けてくれた。迷夢蝶が現れるまで面倒を見てくれると決めて、いろんなものを与えてくれて――。
「それは全部、あいつがお前を手懐けるためにやったことだよ」
慕の思考を読んだかのように、マルティエが言葉を紡ぐ。
ゆっくりとした動作で慕の耳元から顔を離した彼は、意地が悪そうに目を細めてにやにや笑っていた。
「……嘘、でしょう? マルティエさんと一緒に過ごした時間は短いけど、あなたは人の反応を見て楽しんでるところがある」
そうだ、嘘だ。フィデリオが心喰族だなんて、きっと嘘だ。
どうか嘘であってほしい――心の片隅で願いながら反論したが、マルティエの唇から無情な言葉が告げられる。
「残念ながら真実だよ。むしろ、お前が接してた奴のほとんどが人の姿に化けた心喰族だよ。それぞれ好んでる感情は違うがな」
がん、と鈍器で頭を殴られたかのような衝撃が慕に走る。
慕が接していたほとんどが心喰族だった――ということは、親身になってくれたチェシーレも、マルティエに連れられて訪れた先で出会ったエリュティアもそうなのだろう。
慕は皆が皆、人間だと思っていたがそうではなかった。……もっとも慕の身近なところにいたフィデリオも。
「フィデリオは、人間の恋心を好んでる。あいつがシタウにあれこれ親切にしたのも、お前があいつを好きになるように仕向けたんだろうと俺は考えてる。あいつは過去にも同じことをして、人間の恋心を喰らってるからな」
その言葉を聞いた瞬間、慕の記憶の扉が開いた。
フィデリオの部屋に飾ってあった女性の写真。
彼からのお使いで訪れた手芸屋で聞いた、一部の感情をなくした手芸屋の娘の話。
もしかして、あの写真の女性は――過去にフィデリオが感情を喰らった人なのだろうか。
――でも。
でも、もしそうなら、彼はどうして写真を大事に持っていたのだろう。
「……それを、私に教えて……マルティエさんは、どうするつもりなんですか」
頭の片隅に浮かんだ疑問を一度飲み込み、慕はマルティエへ問いかける。
フィデリオが心喰族で、彼の優しさには全て裏があった。そのことを慕に教えて、どうするつもりなのか全くわからない。
じっと慕の目を見つめ、にやにやした笑みを浮かべたまま、マルティエは慕の唇にそっと触れた。
「ここから先は、俺からの提案だ」
一言、最初に前置きをしてマルティエは言葉を続ける。
「俺もあいつと同じ、人間の恋心を好んでる。俺たち心喰族は好んでいる感情を食えば食うだけ強くなる。フィデリオが今、力のある魔法使いとして君臨できているのも相当な量の感情を食ってきたからだ」
「……」
特に言葉を返さず、無言のまま続きを促す。
「俺は、いつかあいつを倒したいと思っている。そのためには力が必要だ。――だから」
続いた言葉は、慕の心を強く揺さぶった。
「だから、シタウ。お前があいつに向けている恋心を俺によこせ」
恋心を――渡す?
フィデリオではなく、今目の前にいるマルティエに?
「あいつは恋心をまるごと全部食うが、俺たちは特定の相手に向けている感情のみを狙って食うこともできる。これから先、故郷に帰るお前からすると、あいつへの恋心をずっと持っててもつらいだけだろう?」
だって、お前の故郷にあいつはいない。叶わない恋心を抱き続けていることほど、つらくて苦しいことはないだろう?
にやにやとした笑みを浮かべたまま、マルティエは悪魔の囁きのような言葉を紡ぐ。
確かに、叶わない恋心を抱いたまま故郷に帰るのは苦しいだろう。想いを実らせたくても、実ることはない。遠くに住んでいるどころか、異なる世界に生きる相手を想い続けるのは、とても苦しいだろう。
ならば、故郷に帰る前にこの恋心を手放すのは賢い選択なのかもしれない。
「――……」
はくはくと数回唇を動かすが、なかなか言葉が出てこない。
早鐘を打つ心臓の前で強く手を握りしめ、大きく深呼吸をして自身の心を落ち着ける。
なかなか結論を出すことができずにいる慕の背中を押すように、マルティエはさらに言葉を重ねた。
「シタウだって、ずっとお前を騙していたあいつが許せないだろ? お前は恋心を手放して心置きなく故郷へ帰れる。俺はお前の恋心を食ってあいつよりも強くなれる。お互いにメリットしかない取引だと思うんだが、どうだ?」
視界の端できらきらと鱗粉をこぼしながら、迷夢蝶の群れが飛んでいる。
自分を故郷に送り届ける力を持つ、不思議だけれど綺麗な蝶たちを少しの間見つめたのち、慕は改めて目の前にいるマルティエへ視線を向けた。
もう一度深呼吸をして、緊張や不安を飲み込み、慕はゆっくりと唇を動かした。
「私は――」
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