5-7 その感情の正しい名前は
チェシーレが口にした一言に、時が止まったかのような感覚を覚えた。
依存ではなく、恋をしている?
自分が――フィデリオに?
あの、何よりも美しく強い、あの人に?
思わず慕は動きを止め、チェシーレを凝視した。
ある意味で爆弾になる発言をした張本人は、何事もなかったかのようにマカロンをかじり続けている。
「だって、そうじゃないかにゃあ? 危険がすぐ傍にあるかもしれないという不安、無事を確認したいという気持ち。そもそもの発端になった、フィデリオの役に立ちたいっていうのも、あいつを特別に思ってるからじゃないのかにゃあ?」
「……いや、でも……」
慕は胸の前で、手を強く握りしめる。
恋とは、もっと甘くて綺麗で素敵なもののはずだ。相手のことを想い、幸せを願い、相手を支えようとする穏やかなもののはずだ。
自分が抱いているような、こんなにドロドロとしたものが恋であっていいはずがない。
こんな、相手の部屋にあった写真を見て嫉妬に近い気持ちを抱いたり、無事を確認しなきゃと思うほどに不安になったりする――こんなものが、恋であっていいはずがない。
「これは、依存だと思います。……恋は、こんなにドロドロとしたものじゃない、はず。もっと甘酸っぱくて、素敵なもので――」
ざくり。
ぼそぼそ紡がれる慕の声を、チェシーレの歯が噛み砕いた。
マカロンをざくざく齧る音を奏でながら、チェシーレはテーブルに頬杖をつく。
「どうにも、シタウは自分の心を悪く見る傾向があるのかにゃあ?」
「悪く……というか、事実を考えているだけで……」
「自分では事実と思っているかもしれない。でも、実際には事実ではなく偽りを見ている……なあんてことは、人間に多く見られることだにゃあ」
チェシーレは唇についていたマカロンの粉を舐め取りながら、思考を巡らせる。
口の中に広がった甘い味を薄めるために紅茶で喉を潤してから、ぴっと人差し指を一本立てた。
「恋も依存も、相手を大事に思うという部分は同じ。でも、恋と依存では大きな違いがあるから、表面だけを見て一緒くたに考えたら自分が不幸な思いをするだけ」
ぐ、とチェシーレの言葉に思わず押し黙ってしまう。
思い出すのは、元の世界で繰り返し味わってきた失恋の味。恋か依存か見分けがつかなくて、保留にし続けるうちに手の中からこぼれていってしまった恋の欠片たちの記憶。
チェシーレの瞳が猫のように細められ、弧を描く。
「シタウ。お前さんは、己の全てをフィデリオに渡してもいいと心の底から思えるかにゃあ?」
「己の……全てを?」
チェシーレの問いかけを小さく復唱する。
「まあすごく簡単に言うのなら、フィデリオに完全に寄りかかって生きていけるかどうかってことだにゃあ。己の世界にあいつ一人だけがいればいいと、そう思えるかにゃ?」
「それ、は……」
慕の世界に、フィデリオ一人だけを置く。
つまり、それは自分自身の全てを彼に預けるということで――その行動が意味することは、一つ。
「……嫌、だ」
フィデリオに、ありとあらゆる負担をかけてしまうということだ。
胸の前で握っている手に力が込められ、綺麗に整えられた爪が手のひらに刺さる。ぎちぎち音が鳴っていそうなほどに握りしめられた手からは、血が滲んでいそうな気さえした。
「フィデリオさんに、あらゆる負担をかけてしまうのは、嫌だ」
彼ともう少し一緒にいたいという想いは本物だ。
叶うことなら、彼の役に立ちたいという想いも本物だ。
彼に何かあるかもしれないと考えたら不安になってしまうのも、本物の気持ちだ。
だが、だからといって己の全てを彼に預けて生きたいとは――思えない。思いたくない。
「私は、フィデリオさんの役に立ちたいし、もう少しだけでいいから一緒にいたい。でも、フィデリオさんにはフィデリオさんの世界があって、私には私の世界がある。……フィデリオさんの世界を、生き方を、邪魔したくはない……です」
だって、美しいものを追い求めて、己の周りを美しいもので飾ろうとする――慕は、彼のそんな生き方にも惹かれたのだから。
視線をそらさず、チェシーレを見据えたまま、はっきりとした口調で答える。
すると、チェシーレはその答えを待っていたといいたげに笑い、カップケーキにフォークを突き立てた。
「そう答えられるのなら、お前さんは大丈夫」
一言そういって、チェシーレはさらに言葉を続ける。
「恋は相手を想うもので、依存は相手に己の全てを投げてしまうもの。相手さえいればいいと思ってしまったらおしまいだけど、そう思わないのなら、シタウが抱えているものはきっと恋だにゃあ」
普段のように、どこかおどけたようにも聞こえる声色でそういって、チェシーレはカップケーキを口に運んだ。
フォークの一突きで崩れてしまったカップケーキは、先ほどまであった可愛らしさを失い、黄金色の生地と中に入っていたクリームをさらしている。
「……恋、なんでしょうか。この気持ちは、本当に」
依存ではなくて恋だと、思ってしまってもいいんだろうか。
こんなに、甘くもなんともない、煮詰めるジャムのようにただただドロドロしているだけの気持ちを。
……恋だと認識してしまっても、いいのだろうか。
「恋も依存も、よく似てるもの。自分が抱いてるのがどっちかわからなくて不安になる気持ちはわかるけれど、大事な気持ちだからこそ、よーく見つめて見分けてやらなくちゃ」
じゃないと、シタウの心が可哀想だにゃあ?
いつもと同じように、猫のような笑みとともに告げられた言葉は、慕の心に強く響いた。
自分の目の前にある、手つけずのカップケーキをしばらく見つめたのち、慕はそっとフォークを入れた。
美しく飾られた生地やクリームがいともたやすく切り裂かれ、中のクリームと黄金色の生地をさらす様は、まるでナイフを入れられた己の心のようだった。
――それにしても。
カップケーキを少しずつ口に運び始めた慕を眺め、チェシーレは一人考える。
目の前にいる頼りない少女がフィデリオに抱いたのが、本当に彼への恋心だとしたら。
「……」
今の慕はフィデリオから見て、最高の食事に見えるはずだ。
「……はてさて。どうするのかにゃあ、あいつは」
一人、小さな声で呟いて唇の端を持ち上げる。
この人間の少女は、フィデリオに恋心を抱くほどに心を許している。彼が彼自身の欲を満たすのには苦労しないだろう。
『あのとき』のように欲を満たすのか。
それとも、違う道を選ぶのか。
「――楽しみだにゃあ」
ぽそりと吐き出した言葉はとても小さく、慕の耳に届くことはなかった。
彼の周囲を取り巻く者の中では、比較的大人しくしているつもりだけれど。
己だって、困惑の感情を好む心蝕族の一人なのだ。
これから、『同族』が人間相手に困惑し、悩み、どんな選択をするのか――ああ、楽しみだ!
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