5-5 その感情の正しい名前は
フィデリオとともに暮らしている森に、心喰族がいる。
手芸屋の店主から聞かされた話は、店を離れてからも慕の脳内をぐるぐる巡り続けていた。
数分前まで感じていた楽しさは鳴りを潜め、かわりに強い不安感がじわじわと胸の中に広がってきている。
せっかく一人で出かけているのに――という思いもあるが、一度感じてしまった不安はそう簡単には拭えそうにない。
「……フィデリオさん、心喰族に出会ったりしてないかな……」
以前、チェシーレはフィデリオと一緒にいれば大丈夫だと言っていた。つまり、フィデリオは心喰族と遭遇してもどうにかできるということだ。
だが、生き物は常に進化をするものだと慕は考えている。それまでは大丈夫でも、彼の上をいく個体が現れる可能性だって考えられる。
そうなると、どうなるか――あまり想像したくない未来を思い浮かべ、ぶるりと小さく身震いをする。
自分は心喰族と遭遇してどうなっても構わないけれど、フィデリオの身に何かあるのは、可能であれば避けたい。
「……やっぱり、早く帰ろうかな」
お使いのあとは街を散策する予定だったが、フィデリオの安否が心配で仕方ない。
街の奥へ進もうとしていた足の向きを変えて、クオーレカルティの街へやってきたときに出た路地裏の方向へ向かおうとした、その瞬間だった。
「おや、そんなに浮かない顔をしてどこに行くのかにゃ?」
「ひえっ!?」
すぐ耳元で聞こえた、子供の声。
反射的に声をあげ、振り返る。
はたしていつからそこにいたのか、慕の背後にはふわふわと宙に浮いた状態で、見覚えのあるショッキングピンクの髪にショッキングパープルの瞳をした子供がいた。
一度目にしたら忘れられないような、特徴的な髪と目の色に毒々しいカラーリングの服装をした彼、もしくは彼女のことは、慕も覚えがある。
「あっはっは! 本当に驚いたときの反応が良い子だにゃあ。こっちも驚かせがいがあるってもんよ」
けらけらと心底楽しそうに笑いながら、チェシーレは猫のように目を細めた。
己の背後にいた人物が見知った相手であることにほっとしつつ、慕はまだ早鐘を打っている心臓を押さえ、唇を動かす。
「お……お願いだから、耳元でいきなり声をかけてくるのはやめてください……チェシーレさん……」
「だって、普通に声をかけても気付かれないことがあるにゃ。こうしたほうが、相手も気づいてくれやすいし、何より面白い」
にやにや笑って言葉を返しながら、チェシーレは両足を地面へとつけた。
こつん、と石畳を叩くチェシーレのブーツの音が、妙にはっきりと聞こえる。
「さて。お嬢さん、久々にクオーレカルティの街に来たのに、すぐに帰ろうとするとはつまらないことをするにゃあ」
「う……で、でも、ちょっとフィデリオさんが心配になって」
一度不安になってしまった心は、そう簡単には元の状態に戻ってはくれない。
どうしてもフィデリオの安否が気になってしまい、可能であれば今すぐにでも確認したくて仕方ない。
不安から視線をあちらこちらにさまよわせる慕に対し、チェシーレは何やら考えてから、以前も浮かべていた笑みを浮かべた。
「フィデリオなら大丈夫だにゃあ。お嬢さんが何を聞いたのかわからないけど、あいつはすごく腕が立つ。シタウが思っているよりも、ずっと」
「そう、かもしれないんですけど……うわあっ!?」
それでも――とマイナスに傾きそうになっている思考回路を、チェシーレの手が断ち切った。
こちらへ伸ばされた手が慕の身体に触れたかと思えば、何かにつまみ上げられるかのように慕の両足が地面から強制的に離れた。
ふわふわと浮いている感覚が全身へ伝わり、反射的に声をあげる。
その声に反応して道行く通行人が一瞬慕とチェシーレへ目を向けるが、チェシーレの姿を目にした瞬間、何かに納得したかのように視線をそらしてしまった。
ふわふわ宙に浮いている慕へ、チェシーレが何やら楽しげな視線を向ける。
「せっかく来たんだから、ちょっとくらいゆっくりしていけばいいにゃあ。なあに、大丈夫大丈夫。フィデリオは、お前さんが思うよりもずっとずーっと強い男なんだから」
「えっ、いや、ちょっ、あの、チェシーレさん下ろしてくださいー!?」
慕の身体は宙に浮いたまま、つい、と指を動かしたチェシーレの後ろをついていく。
なんとか逃れようと手足をばたつかせるが、宙に浮いたままの状態では地面を蹴ることは叶わない。地面を踏みしめようとした足は空を踏み、蹴りつけるものが存在しない状態では移動もままならない。
まるで紐がついた風船のように、移動しはじめたチェシーレの後ろを漂うしか、今の慕にはできそうになかった。
……真っ直ぐ帰ろうと、思っていたのになぁ。
無意味にもがくのをやめ、諦めたかのようにチェシーレへ連れられて街の奥へと向かっていく。
周囲から向けられる視線に少しだけ苦いものを感じながら、慕は遠い目で空を見上げた。
ごめんなさい、フィデリオさん。
帰るの、もしかしたらちょっと遅くなるかもしれません。
今はこの場にいない彼の表情を思い浮かべながら、慕は一人、ひっそりと溜息をついた。
どれだけこの世界での生活に慣れても、フィアーワンダーランドの個性的な仲間たちに振り回されるのは、慣れられそうにない。
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