5-4 その感情の正しい名前は

「おや、いらっしゃい」


 からんからん。

 鳴り響いたドアベルの音に続くように、穏やかな男性の声が慕の耳を震わせる。

 カウンターの前で何やら作業をしていたらしい男性の店員は、そっと顔を覗かせる慕に穏やかな笑顔を向けた。


 慕も小さく会釈をしてから、そっと店内に足を踏み入れる。

 店内はそこそこ広く、明るい印象でまとめられている。棚やテーブルには手芸に使う材料や糸がずらりと並べられ、壁際の棚には色とりどりの布が大きなロールの状態で置かれていた。その様子は、慕の故郷にあった手芸店を少しだけ思い出させるものがある。


「あ、あの……帽子作りに向いてる布ってありますか」


 もう一度深呼吸をしてから、慕は店員へ問いかける。

 最初から自力で選べたら一番いいのだが、種類が多いとどれを選べばいいのかわからない。おまけに、慕は帽子作りをやったことがないため、どの布が帽子作りに適しているのかもわからない。


 ならば、店員に最初から聞いてしまうのがもっとも失敗が少なく、確実な方法だ。

 恐る恐るといった表現が似合いそうな声での問いかけに、店員は一瞬きょとんとしたが、すぐに表情を緩めて口を開いた。


「もちろん。こっちにおいで」


 穏やかな声色で慕に話しかけ、店員はカウンターから出てくると手招きをする。

 それに応じて店員の傍へと近寄ると、彼は壁際に置かれている布が置かれた棚のほうへ歩み寄り、そのうちの一つを手にとった。


「帽子を作るのに使うのなら、コットンやリネンを使うことが多いかな。春や夏に使うのなら、コットンリネンという手もある。どういう帽子を作りたいのかイメージはあるかな?」

「あ……えっと……」


 店員に問いかけられ、慕は慌てて手元のメモへ視線を落とす。そこに記されている種類を確認して、再び店員を見上げた。


「種類はシルクで、えっと、量は……このメモのとおりで、お願いします」


 少々悩んだ末に、慕は手に持っていたメモを店員に差し出した。

 店員は少々驚いた顔をしたのち、慕がずっと持っていたメモに視線を落とす。


「シルクか、なら特別な日の帽子かな。量は……うん、わかった。少し待ってて」


 そういって、店員は身につけている眼鏡の位置を直してから、手に持っていた布を元の位置へ返す。

 その後、くるりと視線を棚全体に渡らせ、奥にあった布のロールを手にとった。

 高級感に溢れる光沢のある黒い生地は、布に関する知識が薄い慕でもとても良いものだとわかるものだ。


「シルクなら、この辺りにある生地になるけど……何色にするのかな」


 店員の声を聞きながら、慕は目の前に並んでいる無数のシルクの布を見つめる。

 どうせなら相手に似合う色を選びたいが、慕には帽子を被る相手がどんな人物なのかを知らない。故に、相手に似合う色を選ぶという方法を実行するのは難しい。

 無言で布たちを見つめ――慕は、ゆっくりと片手を動かして緑の布を指で示した。


「この色にします」


 光沢感のある緑色の生地。一般的な緑よりも深く、濃く、森の木々を思わせる新緑。深みのあるその色は、シルクハットにしても十分映えるのではないか思わせるものがあった。

 店員は黒以外の色を選ぶとは思っていなかったのか、一瞬目を丸くした。だが、すぐに表情を緩ませて慕が選んだ布を手に取り直した。


「この色だね、わかった。必要分をカットするから少し待っておいで」


 そういって、店員はカウンターの傍にある作業台へ布のロールを持っていった。

 慕もその背中を追いかけて、一緒に作業台のほうへと向かう。

 店員は作業台の上に布を広げ、メジャーで必要分を測るとチャコペンで印をつけた。次に、使い古された裁ち切り鋏を手に取り、布を刃に当てる。


 じゃきり、じゃきり。布が鋏で裁ち切られていく音が室内に響く。


「そういえば……お嬢さんはあまり見かけない顔だね。新しく引っ越してきた人かい?」


 つるつるとした生地が綺麗に裁ち切られていく光景を眺めていたが、店員に声をかけられ、慕ははっとした。

 布と向き合っている店員を見て、またすぐに彼の手元に視線を向け、口を開く。


「えっと……この街に住んでるわけじゃないんです。お使いを頼まれて来たので」

「おや、そうだったのか。どの辺りから来たんだい?」

「ええと……森のほうから」


 慕が現在滞在しているフィデリオの屋敷が、クオーレカルティの街から見てどこに位置しているのか、よくわからない。ただわかっているのは、森の中にあるということだ。

 これだけで伝わるのかわからないが、自分が現在わかっていることのみを伝える。

 すると、先ほどまで穏やかだった店員の雰囲気が、わずかに固いものへ変化した。


「……それは、街から少し歩いた先にある森のことかな?」


 突然、まとう雰囲気が変わったことに戸惑いながらも、慕は問いかけに答えるために再び口を開いた。


「え、と……喋る三つ足の鳥がいる森、なんですけど……」

「ああ……じゃあ、やっぱりあの森だ。お嬢さんはあの森に住んでいるのか……」


 じゃきり、じゃきり。鋏が布を裁ち切っていく音が、妙に大きく聞こえる。

 じゃきり。やがて、端まで真っ直ぐにシルクの布が裁ち切られ、店員は手に持っていた裁ち切り鋏を作業台に置いた。

 真剣な光を宿した目が慕を見据える。


「あの森に住んでいるのなら、心喰族に気をつけなさい」

「心喰族……」


 はじめてチェシーレと出会った日に、教えてもらった話がよみがえる。

 フィアーワンダーランドに古くから存在する、心を喰らう種族。人の心に芽生える感情を好んで食べる、本来の姿と人間の姿を切り替えながら生きているもの。

 慕はまだ出会ったことがない種族の名前を耳にし、身体が緊張でわずかにこわばる。


「……いるんですか、心喰族が。あの森に」


 ゆっくりとした動作で、店員が頷く。


「ああ。お嬢さんの言っていた喋る鳥も、心喰族になりかけのものだ。奴らは古くからあの森に住んでいる。過去にあの森へ迷い込んで、感情をなくしてしまった者もいる」


 そこまで言葉を紡ぎ、店員は深く息を吐きだした。

 顔を片手で覆い、苦々しく表情を歪める。


「……私の娘も、過去にあの森へ行って、帰ってきた頃には一部の感情をなくしていた」


 その言葉を耳にした瞬間、慕の脳裏にフィデリオの部屋で見た写真がよみがえった。

 あの写真の主が話に出てきた店員の娘である確証はどこにもない。けれど、過去にあの森を訪れていたのなら、フィデリオと出会っていてもおかしくはない。


 忘れていたはずの息苦しさが慕の胸の中に広がっていく。

 自然と表情が曇るが、店員はそれを恐怖からくるものと考えたらしい。彼の手が慕へ伸ばされ、安心させようとするかのように優しく叩いてきた。


「出会わなければ大丈夫だ。不安だったらこっちに移住してきたらいい。街の中だったら、奴らに遭遇する心配はない。けれど、森の中に住み続けるつもりなら気をつけなさい」


 こくり、と慕は小さく頷く。

 確かチェシーレは、フィデリオの庇護下にあるのなら大丈夫だとも口にしていたため、心喰族の襲撃を受ける心配は少ないだろうけれど。


「……湿っぽい話をして悪かったね。メモを見る限り、他にも買うものがあるんだろう? 選んでくるといい」

「あ……すみません。ありがとうございます」


 店員から返却されたメモを受け取り、慕は帽子に使う装飾を選ぶために作業台の傍を離れる。

 先ほどまで言葉を交わしていた店員に背中を向け、さまざまな装飾が並んでいる棚へと向かいながら、胸の前で手を強く握りしめた。

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