5-3 その感情の正しい名前は
クオーレカルティの街へ。以前、フィデリオと一緒に出かけたあの街へ。
それを頭の中で必死に念じながら進んでいけば、以前目にしたことがあるものと同じ亀裂が空間に走っているのを発見した。
白い光が溢れ出してきているそれの近くで耳をすませば、かすかに人の声や気配が感じられる。その中には一度クオーレカルティの町へ出かけた際に耳にしたことがある音も混ざっていた。
「……ここだ」
小さな声で呟き、慕はあの日のフィデリオのように亀裂へ触れ、押し広げた。
たちまち白い光が溢れ、慕の目を刺す。裂けば裂くほど光はどんどん強まっていき、直視するのが困難なほどだ。
あの日のように目を伏せてしまいたいが、この場にフィデリオはいない。なんとか自分だけでここを通れるようにしないといけない。
ぐ、と自然に慕の手に力が入る。
頑張れ、大丈夫、頑張れ――。
繰り返し自分に言い聞かせながら道を押し広げていき、人一人分が通れそうな大きさになったところで、なんとか亀裂へ身体を滑り込ませる。
強い風のようなものが慕の頬や髪、衣服を撫でていき――やがて、瞼の裏からでもわかるほどに強まっていた光が収まり、慕はゆっくりと目を開いた。
「……ここは……」
目を開けて、まず最初に見たものは眼前にそびえ立つレンガの壁だ。
ゆっくり周囲を見渡してみると、細長い道が左右に伸びており、それぞれどこかに繋がっているのが見えた。
どうやら、どこかの路地裏に出たらしい。本当にクオーレカルティの街に辿り着けたのか不安になりながらも、かすかに聞こえてくる声や音に誘われて路地の入り口を目指して歩き出す。
大きな不安とわずかな希望を胸に、そっと路地の入り口から顔を出せば、慕の視界に見覚えのある景色が飛び込んできた。
「クオーレカルティの街、だ……」
張り巡らされたガーランド。
大通りを行き交う多種多様な姿をした大勢の人々。
そして、足元に敷かれた可愛らしい色合いをした石畳。
どれもこれも、慕がフィデリオと一緒にクオーレカルティの街へ出かけた際に目にしたものだ。
「よかったぁ……ちゃんとクオーレカルティの街に来れた……」
息を吐きながら呟き、慕は胸をなでおろす。
最大の不安点であった移動を無事にこなせたのなら、あとはフィデリオから頼まれたお使いを成し遂げるだけだ。
フィデリオのお眼鏡にかないそうなものを選んで、無事に帰らなければ。
一人で意気込んだのち、慕はフィデリオに持たされた買い物メモに視線を落とした。
「えっと……」
メモには、大きく布の種類と枚数が記されている。その下に花や星の形をした装飾が必要なことも書かれており、これらの商品が売られている店の名前も記載されていた。
布や装飾なんて、一体何に使うのだろうか。
少しだけ首を傾げた慕だったが、ふと、マルティエとはじめて出会った日に彼が口にしていた言葉が脳裏によみがえった。
「そういえば……お気に入りの帽子が駄目になったから作ってほしい、って言ってたっけ」
誰からの伝言だったかは思い出せないが、確かそんな内容の伝言だったはずだ。
ならば、今回彼に頼まれたお使いは、帽子作りに使う布や装飾を買ってきてほしいということだろう。
なるほど、確かにこれは慕のセンスが試される内容だ。
「……頑張ろう」
ほかの誰かのために作るものの材料選びが今回のお使いの内容なら、絶対に失敗することはできない。
一人静かに気合を入れ直し、慕は手元のメモをしっかりと持ち、路地から出て賑やかな大通りの中へ飛び込んだ。
さまざまな姿や格好をした住民たちの波に流されてしまわないように、なおかつ、通行人とぶつかってしまわないように気をつけながら、賑やかなクオーレカルティの街を歩く。
歩きだしてすぐは緊張を抱えていたが、道行く人たちに話し声や客を呼び込もうとする店主の声を聞いているうちに、だんだんそれも和らいできた。
あるのは、どこかわくわくしたような――弾んだ気持ち。
「この街、こんなに楽しい雰囲気のところだったんだ……」
慕が小さく独り言を呟いたのとほぼ同時に、視界の片隅にメルヘンな印象のある看板が映る。
あっと小さく声をあげて看板に駆け寄ると、そこには手元のメモに記されているものと同じ店名が書かれていた。
「ここだ……」
一人だけで目的地に辿り着けた達成感が、慕の胸にじんわりと広がる。
安堵の息をつきながら、ゆっくりとした動作で看板の傍に建っている店へ視線を向けた。
ほかの建物と同じように、どこかメルヘンな印象でまとめられた可愛らしい店舗である。窓には可愛らしいレースのカーテンがついており、小さなクマのぬいぐるみが飾られているのが見える。扉には開いたときに音が鳴るようにベルがついており、「OPEN」と書かれた花型のプレートが下がっていた。
「……よし」
ここに、フィデリオが必要としているものがある。
ここにある布を買って、フィデリオのところに帰る。
今回のお使いの目的を何度も頭の中で復唱し、慕は大きく深呼吸をした。
息を吸って、吐き出し、肺の中にある空気を新しいものへ取り替える。
その後、両頬を軽く叩くように挟んで気合を入れ直し、目の前の扉のノブを握ってゆっくりと開いた。
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