5-2 その感情の正しい名前は
「そういえば、フィデリオさん。さっき、少しだけフィデリオさんの魔力を貸してあげるって言ってましたけど……具体的にはどうするんですか?」
「ああ、それね。簡単よ。ちょっと手を出してちょうだい」
己の中に生まれた疑問に一度蓋をし、慕は首を傾げてフィデリオに問いかけた。
この世界に少しずつ慣れてきた身ではあるが、まだ完全に慣れたわけではないし、魔法の仕組みについてもはっきり理解できていない部分が多い。故に、故郷で得たイメージになるが、魔力は本人だけが持っているものというイメージがある。
それを魔力を持たない慕に貸すなんて、はたしてどうやるつもりなのだろうか。
疑問をぶつけてきた慕に対し、フィデリオは目をぱちくりとさせて、すぐに何か納得したような顔をした。
彼に言われるまま、慕はフィデリオへ片手を差し出す。大きな手が慕の手に触れ、指先でゆっくり手首を撫でたかと思えば――次の瞬間には、慕の手首に薔薇が咲いた茨のデザインをしたブレスレットがはまっていた。
「これは……?」
ファンタジーなデザインをした、どこか大人っぽい雰囲気のあるブレスレット。
いつのまにか手首を飾っているそれを指先でそっと撫でると、わずかにひんやりとした温度が指先から伝わってきた。
じっとブレスレットを見つめてから、改めてフィデリオを見上げ、慕は首を傾げて再び問いかける。
「それはアタシの魔力を込めたブレスレット。日数の経過で少しずつ弱まっていくけど、それをつけている間はアタシの魔力を使えるようになるの。それがあれば、前に使った近道も使えるわ」
「前の近道って……ええと、あそこですよね。あの便利だけど危ない道。……えっ、それ私が通っても大丈夫なんですか……?」
慕の記憶では、あそこはフィデリオと一緒じゃないと通るのに苦労しそうな場所だ。
一部の人しか通ることができない道なのに、慕一人だけで通って大丈夫なのだろうか。フィデリオがいない状態で通った瞬間、どこか変なところに飛ばされたりしないだろうか。
みるみる間に不安な気持ちが増していく慕に対し、フィデリオはこちらを安心させようとするかのように柔らかな笑みを浮かべる。
「大丈夫よ。そのブレスレットがあれば、シタウ一人だけでも通れるようになるから。安心してちょうだい」
「本当ですか? それならいいんですけど……」
「でも、あの道を通るときは目移りしちゃ駄目よ? 変に目移りしたら、アタシでも助けにいけない場所に連れて行かれる可能性があるんだから。真っ直ぐ目的地だけを思い浮かべて進むの、いいわね?」
念を押すようなフィデリオの言葉に、素直に頷く。
慕だって誰も助けに来れない場所に飛ばされて、一人寂しく死にたくはない。
少々心配そうな目で慕をじっと見つめていたフィデリオだったが、やがて浅く息を吐くと、小さく指を鳴らして一枚の紙切れを手元に呼び寄せた。
「なら、お使いよろしくね。買ってきてほしいものは全部ここに書いてるわ。シタウのセンスで選んできてちょうだい」
「えっ」
何気なくフィデリオが発した言葉が、一瞬慕の身体を凍りつかせる。
慕のセンスで選んできてほしい――ということは、フィデリオに頼まれたものの中にはセンスを問われるものが混ざっている。彼の役に立てると思って頷いてしまったが、もしかしたらかなり重要なお使いなのではないだろうか。
あっという間に緊張してきた心を、大きく深呼吸をして解きほぐす。差し出された紙切れを受け取り、慕は神妙な顔つきでもう一度頷いた。
そんな慕に対し、フィデリオは一瞬きょとんとしてから、くすくすと小さく笑った。
さっきまでは、あんなにやる気を出していたのに。
本当に、シタウってば見てて飽きないし――可愛らしいんだから!
「大丈夫、シタウもアタシと過ごすようになってからそれなりに経つでしょう? アタシが選んだものを毎日目にして過ごしてるから、センスも磨かれてるはずよ」
「うう……そうだったらいいんですけど……。お眼鏡にかなうものを選べなかったらすみません……」
「そんな深刻に考えなくてもいいのに。はい、これがお金。好きに使ってちょうだい」
そういって、フィデリオは慕へ可愛らしいデザインをした袋を手渡した。
手のひらに乗せられた袋からは、ずっしりとした重みが伝わってくる。これだけで相当な金額のお金が入っていることがわかり、慕は表情を引きつらせた。
……これは、スリや落とし物に気をつけなくてはならない。
「行き先は前にチェシーレと出会ったクオーレカルティの街。お使いのもの以外に欲しいものがあったら、ちょっとくらい買っても構わないわ」
「わ、わかりました。えっと……このブレスレット、使うときはどうすれば……」
「ブレスレットをつけたほうの手を前に出して、前にアタシが唱えてた呪文を唱える。これでいけるはずよ」
「呪文……」
さあ、いってらっしゃい。
その一言ともに背中を押され、慕は数歩前へ踏み出した。
少しだけ振り返ってフィデリオを見て、改めて視線を前へ向け、ブレスレットで飾られた己の手首を見る。その後、おずおずとブレスレットをつけている手を前へ伸ばした。
フィデリオがはじめて目の前で魔法を使った瞬間のことは、印象的だからよく覚えている。
確か――。
「《Invitation to the tea party》」
小さく呟くように唱えた瞬間、どこか遠くで古い扉が軋んだ音をたてながら開く音が聞こえた。
風に似た力がぶわりと巻き起こり、慕の衣服や髪を揺らす。
目を開けていられなくなり、とっさに目を伏せ――再び開く頃には、慕の視界に映るものは大きく変化していた。
「……ここは……あのときの……」
朝と夜が入り混じったような、不可思議な色合いをした空。足元を優しく照らし、慕の行く道を示している白い砂。宙に浮かぶ懐中時計や壁掛け時計、どこに繋がっているのかもわからない扉。
どれもこれも、慕がはじめてフィデリオと出かけた日に目にしたものだ。
「……ちゃんと、使えたんだ。フィデリオさんの魔法」
自力で魔法を使ったわけではなく、フィデリオの魔力を少しだけ借りて使ったわけだが――魔法に憧れを抱いても、今まで実際に使えたことは一度もなかった。そのせいか、生まれてはじめて魔法を使えたという事実は、慕の胸を踊らせるものがあった。
なんだか、自分もようやくフィアーワンダーランドの一員になれたような気がした――そんなわけないと、頭の片隅では理解しているのに。
「これなら、帰り道も問題ないだろうし……早くお使いを済ませよう」
小さく独り言を呟き、慕は大きく深呼吸をしてから、一歩を踏み出した。
頭の中に、過去に見たクオーレカルティの街の景色を思い浮かべながら、白い砂を踏みしめて進んでいく。
少しの不安を抱える慕を励ますように、フィデリオからもらったブレスレットが手首で輝いていた。
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