第5話 その感情の正しい名前は

5-1 その感情の正しい名前は

『デートの一つにでも誘ってみなさいな』


 頭の中で、エリュティアの言葉が何度もぐるぐると巡っている。

 マルティエの手によって連れ出され、連れ回された日から数日。慕の頭の中では、最後に聞いたエリュティアの声がずっと貼り付いて離れずにいた。


「デート、なんて……別に私は、そういうのじゃなくて……」


 小さな声で独り言を呟きながら、手に持った箒でフィデリオの家の前を掃く。

 頭上に広がる空は、雲一つ見当たらない晴天だ。洗濯物もよく乾くから気分もよくなるし、外を歩いていて明るい気持ちにもなってくる。

 しかし、慕の胸の中はいまいちぱっとせず、ぐるぐるとさまざまな思いが渦巻いていた。


 自分の中にある感情は、恋だなんて綺麗な感情ではないはずだ。

 生まれ故郷に帰る方法を探すよりも、傍に置いてくれている人と少しでも長く時を過ごそうとするのを選ぶなんて、こんな重たい感情が恋であっていいはずがない。

 これは、きっと依存だ。どろどろとして、ぐちゃぐちゃとして、真っ黒なタールのような重たい感情――こんなものは、恋ではないはずだ。


 空を見上げ、深い溜息をつく。

 なんともいえない気持ちを抱えたまま、止まりかけていた手の動きを再開させる。

 穂先が地面を撫でる音を聞きながら掃除を続けていると、ふいに、その音に混じって聞き覚えのある羽音が聞こえた。


「……!」


 肩がびくりと跳ねるのを自覚しつつ、顔をあげる。

 真っ青な空の中に黒い小さな点がいくつか見え、次第にこちらへ近づいてくる。

 やがて、点にしか見えなかったものの姿がはっきりと見えるようになり――羽音の主たちは、慕の傍に舞い降りてきた。


「人間!」

「人間、あのときの人間!」

「う……やっぱり、あのときの鳥……」


 手に持っていた箒をとっさに身体の前に構え、鳥たちから一歩距離をとる。

 カラスのような姿をした三足の鳥たちは、慕がはじめてフィアーワンダーランドに迷い込んできた日、襲いかかってきた鳥たちだ。

 あの日から時間が経っているが、一度身体に刻みつけられた記憶と恐怖は簡単に消えてくれはしない。

 だが、鳥たちはあのときのように襲いかかってくることはなく、じっと慕を見つめるだけだった。


「人間、恐怖しているか?」

「人間、恐怖してるな」

「好みの感情だ」

「けど、食べれないのが残念だ」


 ぎゃあぎゃあ、ぎゃあぎゃあ。

 あの日のように、鳥たちは口々に言葉を紡ぐ。

 唯一、異なる点は慕が鳥たちの言葉を正確に理解することができるようになっていることだ。


「……あなたたちは……あのときの……」

「人間、無口じゃなくなってるか?」

「人間、無口じゃない」

「フォリルシャーポといるからか?」

「フォリルシャーポの影響」


 ぎゃあぎゃあ、ぎゃあぎゃあ。

 鳥たちは口々に喋るだけで、慕に襲いかかってくる様子はない。

 油断させるためか、はたして本当に襲いかかってくる気がないのか――内心、首を傾げながら慕はゆっくりと身体の前で構えていた箒をおろした。


「……今日は、襲いかかってこないの?」


 ぽつり。呟くように小さな声で問いかければ、鳥たちはその場で羽ばたきながら答える。


「人間、フォリルシャーポの庇護下」

「人間、フォリルシャーポの獲物」

「フォリルシャーポの獲物に手を出す、死と同じ」

「え、ええ……獲物って……」


 表現は少々どころではなく物騒だが、とりあえず襲いかかってくる意思はないらしい。

 ほっと安堵の溜息をつき、慕は少しだけ鳥たちのほうへ近づくと、止まっていた掃除の手を再開させた。


「……あなたたちから見て……フィデリオさんって、そんなに怖い人なの?」

「人間、人間はフォリルシャーポが怖くないか?」

「フォリルシャーポ、野蛮。俺たち、すぐ焼こうとする」


 そういって、鳥たちは羽ばたく動きを止めて身を寄せ合った。

 やはり、慕が見ているフィデリオと、彼の周囲にいる人や生き物たちが見ているフィデリオには大きな違いがある。慕もつい最近、フィデリオの怖いと感じる一面を見たが、ここまでの恐怖心は抱かなかった。


 慕の中でフィデリオに対する印象が優しい人で半固定されているからか、それとも――。


「あら。すぐに焼かれそうになるのは、あんたたちが騒がしいからじゃないかしら」

「げっ!」


 背後で、聞き覚えのある声がする。

 視線を目の前の鳥たちから外し、振り返る。

 予想通り、慕の背後には室内から出てきたらしいフィデリオが立っており、鳥たちへ少々じっとりとした視線を送っていた。


「フィデリオさん」


 だが、慕が彼の名前を呼んだ瞬間、その視線は和らいだ。


「シタウ。掃除は終わったかしら?」

「いわれていたところは……はい、大体終わりました」

「ありがと。助かったわ」


 一度、自分が掃き掃除をした範囲を確認してから、フィデリオに頷いてみせる。

 慕の返事を聞いたフィデリオは、ますます優しく表情を緩ませると慕の頭をくしゃりと撫でた。


 頭を撫でてくれる手の大きさに、体温に、こちらへ向けられる穏やかな表情に。彼が慕へ向けるさまざまなものに反応し、慕の胸が甘く締めつけられる。

 だらしなく緩みそうになる己の頬を引き締め、慕はフィデリオを見上げる。


「住まわせてもらってる身ですから、これくらいのことなら、いくらでもお手伝いします」

「そう? 本当に良い子ね、ありがとう。ところで……」


 フィデリオの目が、再び鳥たちへ向けられる。

 恐れている相手の視線が自分たちへ向いた瞬間、鳥たちが逃げる準備をするかのように翼を広げた。


「この間のが懲りずに来ているみたいだけど。いじめられたりしてないかしら?」

「いじめてない!」

「人間、フォリルシャーポの獲物!」

「手、出してない!」


 自分たちは無実だと言いたげに声をあげ、鳥たちは大きく翼を羽ばたかせて宙へ浮いた。

 対するフィデリオは、一瞬目をしばたかせ、すぐににやりとした笑みを浮かべる。


「そう、手を出してないならいいのだけれど。でも、変にちょっかいかけたら、そのときは覚悟しなさいな」

「フォリルシャーポ、やっぱり野蛮!」

「フォリルシャーポ、乱暴者!」


 ぎゃあぎゃあ、ぎゃあぎゃあ。

 めいっぱいの文句の言葉を叫び、鳥たちは再び空へ飛び去っていく。

 黒い小さな身体はどんどん小さくなっていき、小さな黒い点になり、最終的に青い空の彼方に消えていった。

 深い溜息をつくフィデリオの傍で、慕は空を見上げながら呟く。


「結局あの子たち、何をしに来たんでしょうか……」

「さあね。シタウの姿を見かけたから、ちょっかいかけにきたくらいのことじゃないかしら。あいつら、本当に昔からおしゃべりでうるさいのよ」


 フィデリオは深い溜息混じりにそういうと、改めて慕を見つめ、少しだけ困ったように笑いながら口を開いた。


「さて、と。うるさい奴らがいなくなったところで……シタウ、もう一個お手伝いをお願いしてもいいかしら?」

「! はい、もちろんです。なんですか?」


 フィデリオの手伝いができる。そう考えた瞬間、慕の胸の中に広がっていた靄が一瞬で吹き飛んだ。

 まるで子犬のようにきらきらとした目を向けてくる慕の様子に、少しだけ微笑ましいものを感じつつ、フィデリオは彼女の手をとった。


「アタシの魔力を少しだけ貸してあげるから、ちょっとお使いにいってきてほしいのよ。一人だけで街に出かけることになっちゃうんだけど……大丈夫?」


 お使い。一人での外出。

 フィデリオが紡いだ言葉を何度か頭の中で復唱し、考える。

 傍にフィデリオがいない、慕一人だけの外出。不安が全くないわけではないが、マルティエとの件があったことを考えると、一人だけで行動できるようになっておいたほうが助かる場面がこの先あるかもしれない。


 それに何より、フィデリオの手伝いになるのなら、頑張りたいという気持ちがある。


 ほんの少しだけ悩んだが、慕は大きく深呼吸すると、大きく頷いてみせた。


「頑張ります。任せてください」


 そういって、慕はふわりと笑ってみせる。

 しかし、慕の返事が少々予想外だったのか、フィデリオは一瞬目を見開いたのち、わずかに苦笑いを浮かべた。


「……そう。無理はしないでちょうだいね、何かあったらすぐにアタシを呼ぶこと。すぐに駆けつけるから」

「はあい。ふふ、お使いに出かけるくらいなら大丈夫ですよ。きっと」


 ――どうして、一瞬あんな顔をしたんだろう。

 あんな、心配そうな……私が、フィデリオさんの傍を一時的に離れると決めたことに、ショックを受けたような。


 笑顔を崩さず、その裏側で慕は一人首を傾げた。

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