4-5 叶うならあなたを知りたいと

 はたり。視線の先にいるエリュティアは、一つ瞬きをした。

 目の前にいる少女は、エリュティアたちフィアーワンダーランドに住んでいる住人たちから見れば、妖精に誘われて迷い込んできた一種の迷子だ。

 突然生まれ育った世界から切り離されて、一人こんな世界に放り込まれ、一刻も早く帰りたいと思っているに違いない――と。そう考えていた。


 しかし今。目の前にいる少女が口にした言葉は、迷夢蝶の出現を待つ以外に帰る方法があるのか問うものではなく、ともに暮らしているフィデリオについて知りたいという内容のものだった。

 ちらりと横目でマルティエへ視線を向ければ、彼も予想外だったのか、珍しく心底驚いたと言いたげに目を丸くしていた。


「……意外ね。てっきり、迷夢蝶頼りの方法以外に、帰る方法がないか聞いてくると思ってたのだけれど」


 他に帰る方法がないのか、聞かなくてもいいのか。

 声には出さず、その問いかけを含めてそういうと、慕は少し困ったように苦笑を浮かべた。

 慕自身、それを尋ねるのが一番自然な流れだとはわかっている。わかっているけれど。


「言ったじゃないですか。私は、フィデリオさんともう少し一緒にいたいって」


 帰りたい気持ちは、もちろんある。両親にも友人にも何も言わず、突然何も知らない世界に来てしまったのだから。

 けれど、その思いを上回るのが、フィデリオともう少しだけ時間をともに過ごしたい――そんなささやかな願いであり、重苦しくて仕方がない思いだ。


 ずっと一緒にはいられない。いつかは、彼の傍を離れなくてはならない。

 ……なら、どうか、もう少しだけ。


「いつか帰らなきゃいけないから、一緒にいれるうちは少しでも多く一緒に過ごしたいし、元いた場所に帰ってもフィデリオさんのことを忘れたくないから、少しでも多くあの人のことを知りたいんです」


 こんな想い、フィデリオからしたら迷惑だろうけれど。


「……こんなに依存してるなんて知ったら、フィデリオさん、きっと困っちゃうと思うから。あの人には、私がこんなこと考えてるなんて教えないでくださいね?」


 困ったように笑いながら、慕は最後にそう付け加えた。

 誰かに依存されても喜ぶ人はほとんどいない。ほとんどの人は困ってしまう。

 慕はフィデリオを困らせたいわけではない。さまざまな面倒を見てくれる人を、これ以上困らせてしまうのは避けたいと考えているし、できればこんな依存心は手放したいとも考えている。

 そこまで話したところで喉の乾きを感じ、慕はまだ少しだけ残っていた紅茶を口に運んだ。

 視線の先では、エリュティアがぽかんとした顔をして、こちらを見つめている。


「……いや、シタウ。あんた、それは――」


 エリュティアが何かを言いかけたが、途中で言葉を止めた。

 ほんの短い沈黙のあと、小さく息をつき、改めて口を開く。


「まあ、そういう考えなら教えてあげてもいいけど……。でも、私から見たフィデリオだから、実際の本人とは違いがあると思うわ。それでもいい?」

「はい」


 控えめに、けれどはっきりと頷く。

 エリュティアの主観が入っていたとしても、今は少しでも多くフィデリオについて知りたい。

 真っ直ぐに見つめてくる慕の目をエリュティアも見つめ返し、一口紅茶を飲んでから、そっと唇を動かした。


「そうね……私が知ってるフィデリオ・フォリルシャーポっていう男は、自分のテリトリーに踏み込まれるのを嫌う男よ。相当親しい相手でも、簡単に自分のテリトリーに他者を入れない。他人と親しくする心はあるけれど、どちらかといえば一人でいることを好む……そういう男」


 記憶を探りながら、エリュティアは自分から見たフィデリオの姿を口にする。


 エリュティアがはじめてフィデリオと出会ったのは、今からずいぶんと昔の話だ。

 当時、まだ紅茶の女王ではなかったエリュティアが、彼のテリトリーと知らずに森へ足を踏み入れてしまったのが出会いのきっかけになった。

 そこから少しずつ親しくなり、今は親しいといえる間柄になったが――それでも、エリュティアはフィデリオの家に足を踏み入れたことは一度もない。


 だからこそ、とても驚いた。目の前の無力そうな少女を、フィデリオが自分の傍に置いているということに。


「どちらかといえば、冷たい男だと思うのよ。あの子は。……だから、シタウがフィデリオの家で居候してるって聞いたときは驚いたわ」

「なるほど……マルティエさんから見たフィデリオさんも、そういう人ですか?」

「うん? ん……そうだな……」


 慕の瞳が、今度はマルティエへ向けられる。

 突然こちらへ話題を振られ、マルティエは一瞬目を丸くした。だが、すぐに思考を巡らせて慕の問いかけに答える。


「あいつは人間に優しくしているように見せかけて、本心では一切の親しみを感じていないような奴――自分の感情を隠すのが上手な奴だったぞ。俺はそういうあいつを何度も見てる。だから、シタウをすごく大事にしてるのを見て、ずいぶん丸くなったなと感じた」


 マルティエから語られたフィデリオ像は、慕がよく目にしているものとは正反対だった。

 そんな情報が語られるとは予想しておらず、慕は思わずぽかんとした顔をした。

 慕が知っているフィデリオは、いつも優しかった。迷夢蝶に誘われて迷い込んできた慕を保護し、衣食住を与え、必要なものまで買い与えてくれた。


 自分の感情を隠すのが上手なら、あれは本心ではない?

 けれど、こちらを見るフィデリオの目はいつも優しい目で――。


 ……どちらが本当の彼なのか、わからなくなってしまいそうだ。


「マルティエ」

「いっ」


 がんっ。

 痛そうな音が響き、考え込みそうになった慕の思考が引き戻された。

 はっとして、いつのまにか落ちていた視線をエリュティアとマルティエへ戻す。

 あの一瞬でどうやら何かが起きていたらしく、優雅に新たな紅茶を飲むエリュティアとうつむいて痛そうに足をさすっているマルティエがそこにはあった。

 ぽかんとする慕の目の前で、エリュティアがティーカップをソーサーに置き、わずかな怒りを滲ませた声で言葉を紡ぐ。


「本当、あんたは意地悪なことしか言えないのね。その口、一度縫い合わせてあげましょうか?」

「……女王様は容赦がないなぁ、俺が言ったフィデリオの姿も、ある意味真実だろ」

「わざわざその話を選んでするあたり、あんたは意地が悪いし嫌な奴なのよ」


 深く溜息をつきながら、エリュティアが言う。

 その後、エリュティアは改めて慕のほうを見ると、申し訳無さそうに笑った。


「ごめんなさいね、混乱したでしょう」

「え、あ、いや……その……。フィデリオさんについて知りたがったのは、私のほうなので……」


 確かに混乱はしたが、先に自分が知らないフィデリオについて知りたがったのは慕のほうなのだ。

 だから、自分が知っているものとは大きく異なるフィデリオについて知れたのも、ある意味収穫ではある。

 マルティエは悪くないという意味を込め、慕は首を左右に振る。


「……いろいろ言ったけれど、やっぱりあいつのことは、あいつ本人に聞くのが一番よ。あいつが全部を話してくれるとは限らないけれど」


 エリュティアがそういった直後、ふとマルティエが顔をあげた。

 まるで何かを察知したかのように、一度だけ足をさすってから立ち上がる。

 突然どうしたのかと思わずマルティエを見上げると、彼は楽しそうな声色で呟く。


「来たか。気も済んだし、俺はそろそろ行く。またな、シタウ。女王様」

「へ?」

「はいはい。次こそはちゃんとアポとってから来なさいよ」


 一体突然どうしたのか、まだ理解が追いついていない。

 ぽかんとした顔をするしかない慕の視線の先で、マルティエはひらひら手を振り、窓から身を乗り出して外へと飛び出していった。まるで、何かから逃げ出すかのように。

 マルティエと思われる足音がどんどん遠ざかっていくのを感じながら、エリュティアは何事もなかったかのように話を続ける。


「フィデリオは、他人に踏み込まれるのがあまり得意ではないけれど。きっと、シタウ相手ならいろんなことを教えてくれると思うわ。だから、勇気を出してデートにでも誘ってみなさいな」

「え、いや、その、別に私はフィデリオさんをそういう目では見てなくて……というか、マルティエさんが……」

「ああ、あいつなら大丈夫よ。そろそろフィデリオがシタウを迎えに来るだろうから、逃げただけ」


 フィデリオが、迎えに来る?


 エリュティアの唇から紡がれた言葉に、慕は再びぽかんとした。

 連絡は誰からも来ていない。誰かが来た気配も感じられないし、外が特別騒がしくなった様子もない。それなのに、フィデリオが迎えに来るとエリュティアははっきり口にした。

 どうしてわかるのか――理由が理解できず、呆然とする慕に構わず、紅茶の女王は言葉をさらに重ねていく。


「きっと、フィデリオはシタウのことを可愛がってる。だから、ちょっとした質問なら喜んで答えてくれると思うわ」


 ねえ、そうでしょう? フィデリオ。


 エリュティアの唇が弧を描いた直後。



「――シタウ!」



 ずっと聞きたいと思っていた声とともに。

 室内で無数の光が弾け、慕が求めていた人物が姿を現した。

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