4-4 叶うならあなたを知りたいと

 合間合間に紅茶で喉を潤しながら、慕は何度目かになる経緯を口にした。

 自分が迷夢蝶の姿を見たことがきっかけで、フィアーワンダーランドへ迷い込んだこと。

 喋る鳥のような生き物に襲われていたところを、フィデリオに助けてもらったこと。

 再び迷夢蝶が姿をあらわす瞬間まで、彼の下でお世話になっていること。

 一つ一つの出来事を思い出しながら話す間、エリュティアは真剣な顔で、マルティエは相変わらずの楽しそうな笑顔で慕の声に耳を傾けていた。


「なるほど、なるほど。お前が抱える事情はそれか」

「あら、マルティエもシタウの事情を知らなかったの。それにしても……まさか、迷夢蝶に引き込まれる人間がいるなんてね」


 エリュティアが小さく息をつき、自分の分のティーカップへ口をつける。

 慕もまだ少しカップに残っていた最後の一口を飲み、ほうっと息を吐く。どうやら少し緊張していたらしく、舌の上に広がる紅茶の味が緊張を解していくのを感じた。

 エリュティアの手がティーポットを持ち上げ、慕のカップへ新しい紅茶を注いでいく。


「本当に運がないわね、シタウも」


 そういって、エリュティアは苦笑いを浮かべた。


『あんたも災難だったわね』

『迷夢蝶に誘われてきたとは、それはそれはずいぶん不運な子だにゃあ』


 慕の境遇を知ったフィデリオとチェシーレの声が、慕の脳内によみがえる。


「……迷夢蝶に誘われて迷い込んでくる人って、やっぱり……相当珍しいんですか?」


 フィデリオもチェシーレも、慕に運がなかったと口にした。

 そして今、新たに慕の境遇を知ったエリュティアも、二人と同様に運がなかったと口にした。

 この世界に来てから知り合った人物のほとんどは、慕を運がなかった子供として認識している――マルティエだけはどうなのかわからないが。

 そこから考えられるのは、フィアーワンダーランドにおいて迷夢蝶に誘われて迷い込んでくる人間は非常に少ないのではないかということだ。

 慕が抱いたささやかな疑問を、マルティエが肯定する。


「ああ。そもそも、迷夢蝶自体が珍しいからな」


 彼の答えに、エリュティアも続く。


「妖精自体は何種類か確認されているけれど、迷夢蝶はその中でも特に情報が少ないの。いつ現れるか予想がつかないっていう性質があるから、情報が少なくても仕方ないとは思うけれど」

「そもそもの情報が少ないものに誘われてきた人間となると、その目撃例はさらに少なくなる。お前はフィアーワンダーランドの中でも、特に珍しい人間だぞ。シタウ」


 エリュティアとマルティエの唇から紡がれた返事は、大体慕の予想どおりだ。

 そもそもの情報が少ない妖精と遭遇して、実際にこの世界へ連れてこられた人間なら、揃いも揃って運がなかったと言われるのも納得できる。

 同時に、自分が元の世界に帰ることができるまでどれだけ時間がかかるのか、うっすらとだが予想ができた。


 ――元の世界に、帰る。


「……」


 いつかは経験しなくてはいけない瞬間を想像した途端、わずかに慕の胸に痛みが走った。

 迷夢蝶が再び姿を見せるまで、慕が元の世界に戻れる日が来るまで――フィデリオとの時間は、制限時間付きで始まった。そのことは、慕が一番よくわかっている。

 よくわかっているはずなのに、フィデリオの下を離れる日のことを想像すると、どうしようもなく胸が苦しくなる。

 まだ、もっと、もう少しだけ――彼の傍にいたい、だなんて。


 彼のことを、よく知りもしていないくせに?

 優しくしてくれるフィデリオに寄りかかっている、居候の癖に?


 ぎゅうっと口元に余計な力が入り、眉間にわずかなシワが寄るのを感じる。


「シタウ?」


 エリュティアがどこか心配そうな声色で呼びかけてくる。

 はっと我に返り、慕は苦笑いを浮かべてみせた。


「すみません。その、やっぱり……故郷に帰るのは時間がかかりそうだなって、思ってしまって」


 嘘ではない。故郷に帰るまで時間がかかりそうと感じたのは事実だ。

 取り繕うための笑顔を浮かべて言葉を返せば、きっと、上手くごまかせる。少なくとも、慕が今まで知り合ってきた人たちはみんなこうすればごまかされてくれた。


「本当にそれだけ?」


 ――だが、真っ直ぐにこちらを見つめる紅茶の女王には、通用しなかった。

 彼女の唇から紡がれた一言が、慕の心を強く揺さぶる。


「本当にそれだけなのかしら。他に何か、思ったことがあるんじゃない?」

「……」

「じゃないと、あんなに苦しそうな顔、しないでしょ」


 いいから口に出してみなさいな、無駄に溜め込んでもいいことないし、最悪心蝕族に目をつけられるわよ。

 エリュティアに言われ、慕はぎゅっと唇を噛んだ。


 心に溜め込んでもいいことがないのは、慕もよくわかっている。自分にとって未知の種族である心蝕族に変に目をつけられてしまうのも、叶うのなら避けたい。

 大きく息を吸って、吐き出して、さまざまな不安を吐息と一緒に心の中から吐き出す。

 ほんの少しだけ、自分の中に抱え込んでいるものを軽くしてから、慕は小さく言葉を吐き出した。


「……私は、いつか故郷に帰らないといけない」


 迷夢蝶に誘われて、突然生まれ故郷を離れてしまったから。

 家族に何も言わず、全く異なる世界に来てしまったから。

 ……この世界で生まれ育ったわけではない自分の存在は、フィアーワンダーランドにとっては異物のはずだから。

 慕はいつか、元の世界に帰らなくてはならない。


「けど……叶うのなら、もう少しだけフィデリオさんと一緒にいたい、とも思ってて……」


 慕がフィアーワンダーランドに迷い込んできて、はじめて手を差し伸べてくれた人。

 条件付きだけれど、安全な場所と衣食住を提供してくれた恩人。

 いつも優しく慕の手を引いて、安心をくれる人。

 慕の脳裏に今まで目にしてきたフィデリオの姿が浮かび、きしんでいた胸を温かい何かが包んでいく。


「でも、私はフィデリオさんのことをほとんど知らない、ので」


 慕が知っているフィデリオといえば、どれもこれも、慕の前で見せている姿だけだ。

 言ってしまえば、慕はフィデリオの表面上のことしか知らない。チェシーレやマルティエ、エリュティアが知っているフィデリオが、おそらく本当の彼なのだと慕は考えている。


 相手のことを本当の意味で知らないのに寄りかかっているなんて、じわじわと自分に対する嫌悪感がこみあげてくる。

 それを紅茶と一緒に飲み込み、慕は口を開いた。


「だから、その……教えてくれませんか。お二人が知ってる、フィデリオさんのことを」


 きっと、自分がフィデリオに向けている感情は『依存』だ。

 故に、知れば知るほど彼に寄りかかってしまう――依存、してしまうのも予想ができていたけれど。

 それでも、フィデリオ・フォリルシャーポという人物のことを知りたかった。

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