3-4 寄せる想いに目を伏せる
いつもは、フィデリオと一緒に過ごす落ち着く空間。
だが、今は空気がどこか張り詰めているようにも感じられ、安らぎとは程遠い空気に満たされている。
全くといっていいほど安らぎや落ち着きを感じないリビングで、慕はフィデリオが淹れてくれた紅茶をちびちび口に運んだ。
一人だけでフィデリオの帰りを待つよりはと考えて、同席に頷いたが、ほんの少しだけ後悔したい気持ちになった。
慕の隣で険しい顔をしたフィデリオと、反対ににやにや楽しそうに笑っているマルティエ。対照的な二人の表情を数回見比べていると、深い溜息をついてフィデリオが口を開いた。
「――それで? あんたは一体どんな用でアタシのところに来たのかしら」
どこか刺々しさを感じさせる声で、フィデリオがマルティエへ問いかける。
彼の問いに対し、マルティエは懐から一通の便箋を取り出し、それをフィデリオへ差し出しながら答えた。
「眠りネズミからの伝言を預かってきた。お気に入りの帽子が一個、駄目になったから新しいのを作ってほしいんだと」
「あら、あの子が? 珍しいわね」
眠りネズミ――その呼び名を聞いた瞬間、フィデリオがまとう雰囲気が少しだけ軟化した。
フィデリオが差し出された便箋を受け取り、内容に目を通す。
隣からちらりと便箋の中身を盗み見てみたが、まだこの世界の文字を学び始めた慕にはどんなことが書いてあるのかほとんど読み取ることができない。
かろうじて読み取れたのは、帽子が駄目になったこと、新しいのが欲しいということだけだ。
内容を全て読み終わったらしく、フィデリオの指先が便箋を畳み、少し離れた箇所に置いた。
「伝言感謝するわ。用件はこれだけ? あんたが誰かのための伝書鳩になるなんて、珍しいこともあるじゃない」
明日は雨か槍でも降るのかしら。
小さな声で呟くようにそういったフィデリオへ、マルティエがけらけら笑う。
「いつもだったら伝書鳩なんて楽しくもないからごめんだね。でも、今日はお前の顔と……お前の秘密が見たかったから引き受けてやったんだ」
「……なるほどね。本当、あんたが持ってる『他人が隠しておきたい秘密』を嗅ぎつける能力は一級品ね。相手にしたくないわ」
内心、慕もフィデリオに同意する。
他人の秘密を嗅ぎつける能力に長けているということは、他人の秘密を暴く能力に長けているということでもある。一体どのようにして秘密を嗅ぎつけているのか想像ができないが、できるだけ相手にしたくない。
「そういうことを言うなよ、寂しくなる」
「思ってもないことは口にしないほうがいいわよ」
深い溜息混じりに、フィデリオが言う。
けれど、マルティエはにやにやした笑みを浮かべているだけでフィデリオの忠告が全く聞いていなさそうな雰囲気だった。
チェシーレとは違った方向で考えていることがわからない様子は、なんとなくやりにくい。
「それで? まだ何かあるの、それともこれだけ?」
「お前への用件はこれだけ。ほかにも用件はあるけれど、お前にじゃない」
「……は?」
マルティエの口から紡がれた言葉は、フィデリオと慕を混乱させるには十分すぎた。
フィデリオへの用件は終わった。けれど、まだフィデリオではない誰かに用件がある。
マルティエが昔から面識があるのはフィデリオだ。慕も彼の家に身を置いているが、慕とマルティエは今日が初対面。はじめて会ったばかりの相手に何らかの用事があるというのは、考えづらい。
答えの出ない思考を巡らせ、フィデリオは本日何度目になるかわからない深い溜息をついた。
「……何、またお得意の謎かけ?」
呟いた声は、フィデリオが自覚している以上に呆れたものになっていた。
古くから彼と付き合いのあるフィデリオは、マルティエが謎かけのような意味のわからないことを口にする悪癖を持っているのを知っている。フィデリオも過去にマルティエの言い回しに振り回され、戸惑った経験がある。
今回もそれなのかと思ったが、マルティエの返事はフィデリオが想定していたものとは異なった。
「いいや? 今回はお前を混乱させるためじゃない。そのままの意味だ」
「そのままの意味って――」
どういうことなのか問いかけるための言葉は、最後まで紡がれなかった。
マルティエが椅子から立ち上がり、靴音を一つ鳴らした瞬間、彼の姿がかき消えた。
突然マルティエの姿が消えたことに、フィデリオは思わず目を見開いた。
彼の隣で二人のやりとりを眺めていた慕も、目の前で唐突に人が消えるという人知を超えた出来事に思わず目を丸くする。
音もなく一体どこへ消えたのか――手に持っていたカップを置いて周囲を見渡していると、ふいに、後ろから慕の身体に誰かの腕が巻き付いた。
「……へ?」
フィデリオの腕? いいや、違う。彼は隣にいる。
では、一体、誰の。
「少しだけ借りていくぞ」
マルティエの声がしたかと思えばぐっと上へ引っ張り上げられ、身体が宙に浮く。何が起きたのか理解するよりも先に、何かに担ぎ上げられて視点が高くなった。
目を大きく見開いたフィデリオがこちらを見る。
見上げてばかりの彼の姿を、高いところから見下ろしているのは少しだけ新鮮だった。
「ッ! シタウ!」
フィデリオがこちらに向かって手を伸ばすのが見える。
慕もフィデリオへ手を伸ばし返したが、指先が触れる前に目の前がくらみ、彼の姿が見えなくなった。
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