3-3 寄せる想いに目を伏せる

「ちょっとマルティエ! 勝手に入らないで……ああもう!」


 少々遅れて、フィデリオの声が慕の耳に届く。

 彼の声ではっと我に返ったが、次の瞬間、室内へ踏み入っていた男が慕の脇の下へ両手を差し込み、ぬいぐるみを持ち上げるかのように軽々持ち上げた。

 両足が床から離れてぶらりと投げ出され、慕の身体をこわばらせる。


「ちっちぇーなお前。おまけに軽くてぷらぷらしてる。中身は入ってるのか? 足なんか力を入れるだけで簡単にへし折れそうだ」

「ひぇっ」


 慕を顔の高さまで持ち上げた男は、にたにた笑いながら慕を観察し、そんな感想を口にした。

 角度によって色を変える極彩色の瞳が特徴的な男だ。ぱっと見た印象では、大体フィデリオと同じくらいの年齢に見える。濃くて鮮やかな桃色をベースに、さまざまな鮮やかな色が入り混じった髪はサイケデリックな印象を見る者に与える。普段見慣れているのが上品で落ち着いたもののせいか、非常に色の刺激が強く感じた。

 見ているだけで目が回りそうな色をまとった彼は、慕を持ち上げたままぐるりと振り返った。


「こんなのがお前の隠し事か。お前のことだから、もっと面白くて凶悪なものを隠していると思っていたから驚きだ」


 そういって、男は背後にいたフィデリオへにたにたした笑みを向けた。

 慕も彼の身体の動きにつられ、そちらを見る。普段よりうんと高い視線からフィデリオの姿を見下ろすのは、なんだか少しだけ不思議な気分になるものがあった。


「あんたと一緒にしないでちょうだい。それよりも、早くシタウを下ろしてくれる?」

「ふぅん。シタウ。お前の名前はシタウか。奇妙で愉快でおかしな名前だな」

「ちょっと、マルティエ。聞いてる?」


 フィデリオの言葉を無視し、マルティエと呼ばれた男は慕に視線を戻して話しかけてきた。

 フィデリオを完全に無視していいのか、どう返事をすればいいのか、慕は戸惑いながら何度も目の前の男とフィデリオの顔を見る。

 しだいにフィデリオがわずかに苛立ちを滲ませ、不機嫌そうな声色で再度男へ呼びかければ、彼はけらけら笑いながら慕を床の上に下ろした。


「ちょっと構っただけで苛立つか。なるほど、そういう点では面白い」

「こっちは全くといっていいほど面白くないわよ、ったく。シタウ、大丈夫?」


 ぱっとフィデリオの目が慕へ向けられた。

 慕を見つめる彼の瞳では、慕を心配する光がちらついている。

 彼の瞳を見た瞬間、何が起きているのかよく理解できずに固まっていた頭が元の働きを取り戻し、心の中に安堵感が広がっていく。

 心配そうな彼を安心させるために慌てて頷いたのち、慕はフィデリオの傍へ駆け寄った。


「お、おかえりなさいフィデリオさん。あの、この人は……」

「なんだ、俺に興味があるのか?」


 ずいと大きな手が再び慕に向かって手を伸ばしてくる。

 だが、今度はフィデリオがいち早く反応し、伸ばされた手を乱暴にはたき落とした。直後、慕を己の背中に隠して庇うように立った。

 すぐ傍にフィデリオの気配を感じるというだけで安心できるのだから、彼の存在はとても大きなものになりつつあるのだと実感できる。

 フィデリオの背中からそっと顔を出すと、面白いものを見るかのように男が目を細める様子が見えた。


「女の子にあんまりベタベタ触らないでちょうだい」

「はは、本当に面白いな! 人間なんてどうでもいいと言いたげだったお前を、そんなに変えたのがそこの人間か? それとも、前にいたあいつの影響もあるのか?」


 ふ、とフィデリオがまとう雰囲気に冷たさが混ざる。

 男が口にした一言を耳にした瞬間、数分前、目にしたばかりの写真が慕の脳裏によみがえった。

 やはり、あの女性はフィデリオにとって大きな存在なのだろう。


「……あんたのことは古くから知ってたけど、本当におしゃべりな口ね。一度縫い付けてあげましょうか?」


 雰囲気だけでなく、紡がれた声にも冷たさが含まれている。

 普段耳にする彼の声とは大きく異なり、慕の心臓に冷たいものが注ぎ込まれた。全身の体温も下がり、ばくばくと心臓が激しく脈打っている。

 だが、フィデリオとやり取りをしている男は全くといっていいほど怯んでおらず、むしろ楽しそうに肩を揺らして笑った。


「はっはっは! 本当に面白くなったなフィデリオ! 正直、今のお前はあまり好みじゃあないが、今のほうがいい。見ていて退屈しない」

「人を暇つぶしの道具にするなんて、いい度胸じゃない」


 あとで覚えてなさいよ。

 不穏なものを感じさせる声で一言吐き出したあと、フィデリオは深く息を吐きだし、気を取り直してから慕へ振り返った。


「ごめんなさいね。こいつはマルティエっていう変人よ。アタシの……あー……古い知り合いみたいなものよ」

「フィデリオさんの、古いお知り合い……」


 小さな声で彼が口にした言葉を繰り返し、慕は再び男を見上げる。

 極彩色の瞳をじっと見上げれば、彼の口元が釣り上がり、不敵な笑みを形作る。


「マルティエ・ラビアフォリーだ。小さいの、名前は?」

「あ、えっと……慕。湖心慕といいます」


 名前を問われ、慌てて名乗り返す。

 マルティエと名乗った男は、慕の名前を数回口の中で唱え、にんまりと笑った。


「シタウか、改めて聞くとやはり奇妙な響きの名前と感じるな。ま、これからよろしく頼む」

「は、はい……よろしくお願いします」


 マルティエが笑顔を浮かべたまま、再度慕へ向かって手を伸ばしてくる。

 握手を求められているのかと考えて慕も手を伸ばすが、指先が触れる前にフィデリオがマルティエの手を叩き落とした。

 彼の鋭い瞳がマルティエを射抜く。


「気は済んだ? ほら、とっととリビングに戻るわよ。さっさと用件を教えてちょうだい」

「うん? まだ気は済んでいないが」


 マルティエがきょとんとした顔をし、首を傾げた。

 彼の返答を聞いた瞬間、フィデリオの表情が再びひきつる。


「どうせならシタウも交えたい。お前は毎日こいつの姿を見れるからいいのかもしれないが、俺はもう少しシタウの姿を見ていたい」


 お前が大事に大事にしまっておくものなんて、ものすごく珍しいからな。

 極彩色の瞳をにんまりと細め、マルティエは笑みを深めてそういった。

 フィデリオが普段浮かべる上品なものでも、チェシーレが見せていた猫っぽさを感じさせるものでもない、わずかな悪意を感じさせる笑み。マルティエが浮かべる笑みは、慕の目に少々威圧感を感じさせる力があった。


 口の中の水分が少しずつ失われていき、身体に自然と力が入る。

 フィデリオの服の端を思わず掴んだ瞬間、フィデリオが一瞬だけ慕に視線を向け、すぐにまたマルティエへ視線を戻した。


「……あんまりシタウに近づかない、これが守れるなら構わないわ。この子、まだあんまりこの世界に慣れてないんだから」


 鋭さを感じさせる声色でマルティエへそう返してから、フィデリオは慕の頭に触れた。

 たったそれだけで、慕の中で渦巻いていたマルティエへの恐怖が溶け、入れ替わりに緩やかな安堵が広がっていく。

 一回、二回。優しい手付きで慕の頭を撫でてから、フィデリオは心配そうな声で言う。


「ごめんなさいね、シタウ。あいつ、言い出したら聞かないから」

「あ、いえ……大丈夫です。気にしないでください」


 それに、慕としても一人だけでフィデリオが戻ってくるのを待つよりは、彼らの傍で話を聞いていたかった。

 今は一時的に収まっているが、あの写真を見てから気持ちがずっとぐるぐるしていたから、余計に。

 申し訳なさそうに苦笑いを浮かべ、フィデリオは撫でていた手を下ろし、そっと背中へ回した。


「極力あいつは近づけないようにするから、安心してちょうだいね。……ほら、行くわよ」


 最後の言葉だけはマルティエへ向け、フィデリオが歩きはじめる。

 彼に背中を押されるようにして慕も歩き出しながら、ちらりと振り返る。

 すぐ後ろをついてきているマルティエは、面白いものを見る目で慕とフィデリオをじっと見ていた。


 こちらの様子を探るように見つめてくる視線が背中に突き刺さり続けるのは、なんだか少しだけ、落ち着かなかった。


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