3-2 寄せる想いに目を伏せる
かち、かち。静寂に包まれた部屋に、時計の針が時を刻む音だけが聞こえる。
数分前まではフィデリオと慕の声で満たされていた部屋は、数分前までの出来事がなかったかのように静まり返っている。
部屋の主が不在の状態では、何をしていいのかわからず、ただじっとベッドに座って待つしかない。何もせずにただ待つだけなのは退屈だが、変に彼の部屋にあるものを触って後々怒られたり、嫌われたりするのよりはマシだ。
「……っ」
もしも、フィデリオに嫌われてしまったら――慕に向けられるあの温かな目が、ひどく冷たいものになる瞬間を想像しただけで心臓が凍える。
頼る先がフィデリオしかいない現状、彼に嫌われるのだけは絶対に避けたい。
フィデリオに寄りかかりすぎてしまうのも、避けなければならないことだが。
頭に浮かんだ嫌な想像を振り払い、慕は改めてフィデリオの部屋を見渡した。
綺麗に整えられた、アンティーク調の小物や家具でまとめられた部屋。物語に登場する貴族が住んでいるかのような部屋は、上品な美しさと高貴な雰囲気をもつフィデリオによく似合っている。先ほどまで部屋の主が紅茶を飲んでいたからか、感じる空気にはわずかに紅茶の芳しい香りが溶け込んでいた。
こんな部屋に、自分のような平々凡々の子供がいるのがひどく場違いなように感じられてくる。
「……フィデリオさん、早く帰ってこないかなぁ……」
フィデリオが部屋の中にいてくれたら、こんなに落ち着かない思いをしなくても済むのに。
小さな声で呟きながら部屋の観察を続けていると、ふと、棚に飾られた一つの写真立てが目に止まった。
さまざまな写真が飾られた中に、一つだけ伏せられている写真立てがある。他の写真は問題なく見れるようにしているのに、まるで見たくないというように隠されているそれは、慕の好奇心をくすぐった。
「……なんで見れなくしてるんだろう、あれだけ」
一度気付いてしまえば、完全に気付いていなかった頃には戻れない。
どうしてあの写真だけ隠されているのか、あの写真には一体何が映っているのか、気になって仕方がない。
芽生えた好奇心は急速に膨れ上がり、フィデリオが戻ってくるまで良い子であろうとする慕の意志を強く揺らがせる。
写真を見るか否か、じっと考えた末に――慕はそうっとベッドから立ち上がった。
大丈夫、大丈夫だ。
ちょっと写真立てを起こしてどんな写真なのかを見るだけ。
元の状態に戻しておけば、慕が写真を見ただなんて気付かれないはずだ。
わずかな緊張が全身へ広がっていき、慕の口の中から水分を奪っていく。
早鐘を打つ心臓を片手で押さえながら写真立てが飾られている棚へ近づいていき、伏せられた写真立てへそうっと手を伸ばす。できるだけ静かに写真立てを持ち上げ、ずっと伏せられていたそれを静かに立てた。
「……え」
写真立てには、フィデリオと見知らぬ女性が映った写真が飾られていた。
他の写真に比べると少々色あせており、古くからこの写真が飾られているのが読み取れる。美しく整えられた薔薇園を背景に、寄り添って映っている二人の姿は、なんだか親しそうに見えた。
「……誰だろう、この人……」
写真をまじまじと見つめ、慕は小さな声で呟いた。
とても綺麗な女性だ。長く伸ばされた柔らかな金髪は綺麗に手入れされており、長いまつげに縁取られた瞳は青い空を切り取ったような青色をしている。身にまとっているのは上品なデザインをしたドレスと帽子で、とてもよく似合っていた。
フィデリオと並んでも違和感のない、すれ違った人が思わず振り返ってしまいそうなほどに美しい人。
彼女とフィデリオは一体どのような関係なのだろう。一緒に写真に映っているのだから、親しい間柄のはずだ。彼が親しくしている相手にはチェシーレがいるけれど、写真に映っている二人の間にはチェシーレといるときとはまた違った空気が流れているように感じられた。
つきん。
慕の胸がわずかに痛みを放つ。
「……っ」
頭に浮かんだ可能性に、思わず慕は表情を歪めた。
並んで写真に映るほどに親しい男女。他とはまた違った空気を感じさせる二人。まっさきに慕が思い浮かべた二人の関係性は、ただ一つ。
もしかして、二人は恋人同士なのではないか?
あんなに綺麗な人なのだ、可能性はゼロではない。
一度その可能性が思い浮かぶと、何度考えてもそれ以外の可能性が思い浮かばなくなってくる。考えれば考えるほど胸の痛みも強くなり、慕は思わず写真立てを元の状態に戻した。
ぎゅっと胸元を握りしめ、慕は唇を強く横に引き結んだ。
「……はは、……何勝手に苦しくなってるんだろ、私……」
先ほどよりも元気のない足取りでベッドに戻り、ぼすんっと少々勢いをつけて座り込みながら独り言を呟く。
フィデリオに恋人がいたっていいじゃないか。むしろ、いると考えたほうが自然だ。
自分はフィデリオに拾ってもらっただけの身で、彼と特別な関係にあるわけではない。あくまでも慕の立場は居候で、それ以上でもそれ以下でもない。
繰り返し自分に言い聞かせながら、胸に感じる痛みをやり過ごそうとする慕の耳に、ふと、こちらへ近づいてくる足音が届いた。
「……フィデリオさん?」
もしかしたら、フィデリオが戻ってきたのかもしれない。
そう考えて彼の名前を口にしたが、迷いなく迫ってくる足音はフィデリオのものよりも少々乱暴に聞こえる。
違う。
フィデリオはもっと優雅に歩く人だ。
こんなにバタバタと乱暴な足音をたてて歩くような人ではない。
足音に混ざり、かすかにフィデリオの声が聞こえて確信する。
どんどん近づいてくる足音の主は、フィデリオではない。
疑惑が確信に変わった瞬間、正体のわからない相手がこちらに近づいてきているという現実に、慕の心が不安や恐怖で軋む。
怪しい人だったらどうしよう、わずかに聞こえたフィデリオの声は焦っているように聞こえたけれど無事なのだろうか、どこかに隠れたりしたほうがいいのか――。
次第に混乱していく慕が何か行動を起こすよりも早く、目の前の扉が乱暴に開かれた。
「お前か、あいつの隠し事」
扉を乱暴に開け放った大柄な男が、ぎらぎらとさまざまな色に煌めく瞳で慕を見下ろす。
唇の端を不敵に釣り上げて笑う彼の瞳の中に映った慕は、驚愕や恐怖など、さまざまな感情を織り交ぜた顔をしていた。
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