2-5 リボンを結んで過ごす日々

「えーっと、確かシタウだったっけ。お前さんはこの世界について、どこまでご存知?」


 二人分の足音が薄暗くミステリアスな雰囲気に満ちた店内に響き渡る。

 フィデリオの傍を離れ、チェシーレの背中を追いかけながら慕は周囲へもう一度視線を向けた。


 先ほどまでいたエリアには、いかにもな雰囲気に満たされた道具や本がたくさん並べられていた。しかし、チェシーレの背中を追いかけて足を踏み入れた今のエリアにはそういったものはなく、かわりに教科書やノート、辞書など、学習教材として使えそうなものが大量に並べられている。

 それらの道具から視線を外せば、化粧水らしきものや乳液らしきものなど、スキンケアに使用しそうなさまざまな道具がごちゃごちゃに詰め込まれた棚が慕の視界に入った。


 あまりにも雑多でまとまりのない品揃えだが、まとまりのない品揃えになっているからこそ客が必要としているものが自然とあらわれるかのようになっている。

 いや、もしかしたら本当に客が欲しいと思っているものがあらわれるようになっているのかもしれない。

 頭の片隅でそんなことを考えながら、慕は前を歩くチェシーレへ視線を戻して口を開いた。


「その……正直に言うと、ほとんど何も知りません。私が生きてきた世界とは全然違うこと、喋る鳥がいること、それから魔法が存在することしか……」

「おやまあ、それじゃあ本当に何もかもがわからない状態なんね」


 慕の口から語られた状態は、チェシーレの予想とは少々異なるものだったらしい。

 くるりとこちらへ振り返ったチェシーレは、目を丸くしてきょとんとした顔をしていた。はたはたと数回瞬きをし、片手を顎に当てる。


「なら、生まれたての子猫向けのを選んだほうがよさそうだにゃあ。言葉は通じてるみたいだけど、読み書きはできる?」

「……言いにくいんですが、この世界の読み書きはちょっと……。今も、フィデリオさんが魔法をかけてくれたおかげで言葉がわかる状態なので……」

「フィデリオがわざわざそんなことを? ……ふーん、あいつもちょっとは丸くなったのかにゃあ」


 チェシーレがこぼした一言を耳にし、今度は慕が目を丸くした。

 慕が知っているフィデリオは、言葉を喋る鳥から助けてくれたうえに怪しいことこの上ない慕を拾ってくれた優しい姿だ。

 けれど、チェシーレはフィデリオが丸くなったのかとこぼした。フィデリオが優しくない時期があるのを見ていたかのような反応だ。

 優しくないフィデリオなんて、いまいち想像がつかない。


「読み書きもできないんなら、やっぱり生まれたての子猫レベルのを選ぶのでよさそうだにゃあ」


 一人で頷いたチェシーレの手が、陳列されている教科書やノートに触れた。次の瞬間、チェシーレが触れた教科書やノートが宙に浮かび、チェシーレのすぐ傍に移動した。

 教科書やノートが浮かんでいるなんていう元の世界では絶対に見れない光景に、慕は思わずぽかんとした。

 慕に必要な商品をどんどん選んでいきながら、横目に慕の様子を確認し、チェシーレは唇を持ち上げて笑みを浮かべた。


「にゃっはっは、こーんな簡単な魔法を見て目を輝かせるなんて、なんだか新鮮だにゃあ? こんなのフィアーワンダーランドでは子猫でも知ってる簡単な魔法だにゃ?」

「……さっきも言ってましたけど、フィアーワンダーランドっていうのは……」

「今、お嬢さんと私が立っている地。お嬢さんにもわかりやすいように表現するなら、この世界のことだにゃあ」


 商品選びの片手間に、授業としゃれこもうか。

 チェシーレの指先が慕の手元を示す。宙に浮かんでいた本の一冊が慕の手元へ飛んできて、そのままぽすんと手の中に収まった。

 相変わらず表紙に書かれている文字は読めないが、可愛らしいイラストが描かれている。試しに本を開いてみれば、同じような雰囲気の挿絵が慕を歓迎した。


「さっきも言ったとおり、ここはフィアーワンダーランドと呼ばれてる。シタウの視点から言ってしまえば、そういう異世界。魔法が存在し、人間と魔獣が生き、人に見せかけた異なる種族も呼吸をしている……そんな不可思議な世界」


 チェシーレの話に、静かに耳を傾ける。


「この世界で生きている種族はたくさんいる。その中で一番多いのが人間、時点で魔獣。少数だけど最近増えてきているのが獣人。そして、少ないけれど要注意なのが心喰族しんしょくぞくだにゃ」

「心喰族……?」


 聞き慣れない単語を繰り返せば、チェシーレが再び指を動かした。

 瞬間、慕が持っている本にかすかな光がまとわりつき、一人でに本が開かれた。ぱらぱらページがめくられていき、あるページで止まった。

 絵本のようなタッチで、人間の姿と不可思議な化け物の挿絵が描かれている。二つの挿絵を繋ぐように矢印も描かれていた。


「心喰族は、古の種族にして今もなおフィアーワンダーランドで細々と生きている古き民。人の姿と本来の姿を自由に切り替えることができる、心を喰らう種族だにゃ」

「心を……」


 チェシーレの唇から語られた説明を頭の中で繰り返す。

 人間と化け物の姿を切り替えられる心を喰らう種族。ということは、この挿絵で描かれているのは心喰族のそれぞれの姿なのかもしれない。


 心を喰らうなんて、どうやって食べるんだろう。


 純粋な疑問を抱く慕へ、チェシーレはさらに語って聞かせる。


「心を喰らうなんて表現をするとわかりにくいかもしれないけど、ようは感情を喰らう種族だにゃ。特に人間の感情を好んで喰らい、己の糧とする。好む感情は個体によって違うなんていわれているにゃ」


 シタウお嬢さんはちょっと注意したほうがいいかもしれないにゃあ?

 にんまり猫のような、ちょっと意地の悪い笑みになったチェシーレの言葉にはっとした。

 慕は人間だ。心喰族は人間の感情を好んで喰らう。それはつまり、慕は心喰族の捕食対象になるということだ。

 言いようのない不気味さと恐怖がぞわぞわと慕の背筋を駆け上がっていく。

 表情をこわばらせた慕の目の前で、チェシーレがくつくつと押し殺した笑いをこぼした。


「別に頭からバリバリ食われるわけじゃあないさ。食べられた感情がなくなっちまうってだけで、命にはなーんの悪影響もないにゃあ?」

「いや、感情がなくなるなんて大問題だと思うんですが」

「そう? 感情なんてなくなっても生きていけるだろうに。人間は本当に怖がりな種族だにゃあ」


 ことり。首を傾げてそう言ってのけたチェシーレには、なんともいえない不気味さがあった。

 慕は表情をこわばらせたまま、わずかに鳥肌がたった腕を擦る。

 なんとなく理解はできていたけれど、この世界に生きる人たちは慕とは大きくかけ離れていて、それが少しだけ怖かった。


「まあいいか、それも人間の面白いところだし」


 小さく呟いたチェシーレの目が、再びずらりと並んでいる商品たちへ向けられた。

 慕に必要そうな読み書きの本やフィアーワンダーランドの常識を記したものを選びながら、さらに言葉を続ける。


「ま、お嬢さんはそんなに怖がらなくても大丈夫だと思うけど。フィデリオの庇護下にある人間に手を出そうなんて命知らずは、人間にも魔獣にも心喰族にもいないはずだから」

「……フィデリオさんは、そんなにすごい人なんですか?」


 ふと感じた疑問を小さな声で呟くようにチェシーレへぶつけた。

 はじめてフィデリオと出会ったとき、彼は喋る鳥をいとも簡単に追い払ってみせた。

 チェシーレの口から語られたばかりの情報も、フィデリオが高い地位にいるかのような言葉だった。


 それらの言葉や事実は、フィデリオ・フォリルシャーポという人物がこの世界において強い力を持つ人物なのではと予想するのに十分すぎるほどの情報だ。

 数拍の沈黙ののち、チェシーレの唇から紡がれた言葉は、慕の予想を肯定するものだった。


「あいつの名前を知らない奴はいないくらいに有名だにゃあ。なんせ、フィアーワンダーランドを代表するくらいの魔法使い。一部の魔獣どもも恐れおののくくらいだにゃ」

「そんなに……」

「そうそう。だから、シタウお嬢さんはあいつと一緒に行動してれば安全。そんなに怖がらなくたって大丈夫」


 その言葉とともに、チェシーレは商品選びの手を止めた。

 部屋の端っこに置かれていた籠を拾い上げ、指先を動かし、浮かせていた本を籠の中へ次々に放り込んだ。ずっしりとした本の重みを感じられるそれを慕へ手渡し、チェシーレはスキンケア用品が並べられている棚を示した。


「私はそろそろ一度フィデリオの様子を見てくるにゃあ。化粧水とか乳液とか、スキンケアに必要なものはあそこにあるから自分に合いそうなものを必要なだけ選ぶといいにゃあ」

「あ、わ、わかりました。いろいろすみません、ありがとうございます。シーニャキャットさん」

「別にいいってことよ。子供を助けるのはいつだって年長者の役目にゃあ」


 重みのある籠を両手で持ち、慌ててチェシーレへ頭を下げる。

 チェシーレは、けらけら笑いながら片手を振って数歩前へ踏み出した。規則正しく聞こえていた足音は途中で途切れ、先ほどまでそこにあったチェシーレの姿は夢か何かであったかのようにかき消えた。


 一人残された慕は、周囲を見渡したのち、小さく息を吐きだした。

 今、自分が過ごしている世界のことや種族のことについて、少しでも教えてもらえたのは嬉しい。それから、フィデリオについても少しだけ教えてもらえたのも助かった。

 同時に、改めて思い知った。


「……私はフィデリオさんのことを、本当に何も知らないんだな……」


 まだ暮らし始めて日がとても浅い。つい最近出会ったばかりの相手のことを知らないなんて当然だ。

 けれど、そのことがなんだか少しだけ、心苦しかった。

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