2-4 リボンを結んで過ごす日々

「ひや……っ!?」


 面白いくらいに肩が跳ね、反射的に振り返る。同時に足がその場から逃げ出そうと後ろに下がり、背を向けた机にぶつかった。机に積み重ねられていた品物が崩れ、派手な音を店内に響かせる。

 驚愕のあまり、足からは力が失われ、慕は己の視界が大きく揺れるのを感じた。続いて強い衝撃が尻から伝わり、鈍い痛みが広がった。


「ちょっと、シタウ!? 大丈夫!?」


 離れた場所にいたフィデリオがこちらへ駆け寄ってくる。

 すぐに大丈夫だと返事をしたかったが、机にぶつかったときの痛みと尻もちをついたときの痛みのせいで、慕の唇からは唸り声しか出なかった。


「あっはっはっは! 期待以上の反応だにゃあ!」


 痛みに耐える慕の耳に、自分のものでもフィデリオのものでもない、第三者の声が届いた。

 涙目になりそうなのを堪えながら顔をあげれば、視線の先には一人の子供がいた。


 全体的に毒々しい色合いを身にまとった、少年のようにも少女のようにも見える子供だ。肩まで伸ばされた髪はショッキングピンクで、毛先に近づくにつれて深い紫色へ変化している。猫のように細められた瞳はショッキングパープルに染まっており、猫を思わせる縦の瞳孔をしていた。頭部では、髪と同じ色をした大きな猫耳がふわふわ動いている。


 深い紫のワンピースに黒いショートパンツを身にまとい、一番上には大きすぎて指先が出ていない黒地に紫のボーダー柄をしたロングコートを着た子供は、楽しげな様子で口を開いた。


「いやはや、でもそんなに驚かれるとちょっと心配になるにゃあ? お嬢さん、そんな臆病さんで、よくこのフィアーワンダーランドで生きていられるにゃあ」

「チェシーレ」


 子供がそういってこてりと首を傾げた瞬間、フィデリオの声が空気を震わせた。

 慕のすぐ傍まで歩いてきたフィデリオは、冷たい目で慕を驚かせた子供を睨むように見つめている。吐き出された声からも冷たさが滲み出ており、恐怖と緊張で慕の心臓をきゅっと締め上げた。

 しかし、目の前の子供は全く動じておらず、にやにやと楽しげな笑みを崩さない。

 数分ほど子供を見つめたあと、フィデリオは深い溜息をつき、未だに床に座り込んだままの慕へ片手を差し出した。


「ごめんなさいね、シタウ。驚いたでしょう?」


 こちらに向けられる声は、慕がよく耳にしている優しい声だ。

 先ほどまでの冷たさが感じられないことに安堵しつつ、慕は差し出された手に己の手を重ね、彼の手を借りながら立ち上がった。


「正直、かなり驚きました、けど……だ、大丈夫です」


 心臓はまだ少しバクバクと音をたてているが、驚かされた直後に比べると落ち着きを取り戻してきた。

 フィデリオの目を見据えて答えれば、彼はほっとしたように表情を緩め、続いて鋭い目つきになると再び子供のほうを見た。

 子供はその場から動かずに、慕とフィデリオのやり取りをにやにやした笑顔のまま見つめている。


「ふぅーん、なるほど。その子、お前さんのお気に入りなんだにゃあ? 他人がテリトリーに踏み込んでくるのを嫌うお前さんが傍に置くとは、興味深い」

「シタウは訳ありなのよ。というかあんた、いるならアタシが呼んだときにすぐ出てきなさいよ」

「だって、すぐに出てきても面白くないにゃあ? それに、お前さんが人を連れてきた。それも小さくて可愛らしいお嬢さん。お前さんとお嬢さんだったら、お嬢さんのほうにちょっかいをかけたくなるのは当然だと思わない?」

「思わないわよ」


 本当に厄介な奴ね、あんたは。

 フィデリオは額に片手を当て、深い溜息とともにそう呟いた。

 言葉を交わす二人の様子は親しげで、古い仲であることが容易に予想できる。少々困っているようにも見えるフィデリオと終始楽しそうな様子を崩さないチェシーレと呼ばれた子供を交互に見つめたのち、慕はおそるおそる口を開いた。


「あの……フィデリオさん。この方は……?」

「ああ、ごめんなさい。まだ紹介してなかったわね」


 慕の声にはっとした顔をし、フィデリオは慕へと視線を移した。

 彼は小さく咳払いをすると片手を慕の肩に置き、もう片方の手で子供を示し、口を開いた。


「紹介するわ。こいつはチェシーレ・シーニャキャット。この店の店主で古い知り合いなの。さっきみたいに油断すると驚かしにかかってくるから、こいつと接するときは油断しないように。背後に気配を感じたら肘鉄を入れるくらいでちょうどいいわ」

「ええ……」


 フィデリオの紹介に、思わずなんとも言えない顔になった。

 親しいからこそできる紹介なのだろうが、本人の目の前で口にしていいのだろうか。

 頷くこともできずわずかに引きつった顔をしていると、慕の目の前にいるチェシーレもなんとも言えない顔をした。


「お前さん、私に対する扱いが雑なうえに悪意ある紹介してにゃーか? まあ別に構わなにゃーんだけど」

「アタシは一切嘘は言ってないわよ。……で、チェシーレ。この子はシタウ。迷夢蝶にさらわれて、アタシのテリトリーに迷い込んできた子よ。今日はこの子に合う服とかスキンケア用品とか……この子に必要なものを探しに来たの」

「こ、湖心慕です。よろしくお願いします」


 チェシーレへ向けられていたフィデリオの手が、今度は慕へと向けられる。

 反射的に背筋を伸ばし、慕はチェシーレへ深々と頭を下げた。

 チェシーレは目を丸くし、わずかに空いていた慕との距離を詰めていく。彼あるいは彼女の足を彩る赤いブーツが床を叩き、手を伸ばせば触れてしまえる距離まで詰めると動きを止めた。

 顔を覗き込んできたチェシーレの瞳が、至近距離から慕を見つめる。


「なるほどなるほど。迷夢蝶に誘われてきたとは、それはそれはずいぶんと不運な子だにゃあ。迷夢蝶に誘われたってことは、お嬢さんはフィアーワンダーランドの外の出身ってことであってるかにゃ?」

「え、ええと……は、はい。いつのまにかフィデリオさんの……えっと……テリトリー? の中にいたので」


 パーソナルスペースを完全に無視したかのような距離感に戸惑いつつも、チェシーレの問いかけに頷いて答えた。

 フィアーワンダーランド――というのは、おそらく慕が今立っている世界か国の名前を示す言葉だろう。慕の故郷は日本国だ。フィアーワンダーランドの出身ではない。


 慕の答えに納得したのか、チェシーレは数回頷いてから軽い足音とともに詰めていた距離を再び離した。

 一歩、二歩、三歩。三歩分の距離を離し、チェシーレは片足を軸にして身体ごと慕へ振り返った。


「この世界について、なぁにも知らない哀れで可愛いお嬢さん。ついておいで、買い物ついでにここがどんな場所なのか教えてあげる」


 チェシーレの指先がちょいちょいと慕を招く。

 素直についていっていいものか少々迷うが、慕が今立っている世界について教えてもらえるのは非常に魅力的だ。なんせ、今の慕は何も知らない赤子も同然。期間がいつまでになるかわからないが、生活する場所についての情報を何も持っていないのは危険だ。


「えっと……」


 迷った末に慕はフィデリオを見上げ、許可を求めた。

 視線に含めた問いかけにすぐに気付いたようで、フィデリオは慕の頭を一度だけぽんと撫でてからチェシーレを示した。


「行ってきなさい。アタシはアタシで、あんたに似合いそうな服を選んでおくから」

「あ、ありがとうございます。……ちょっと、行ってきます」


 頭を撫でてくれた手が背中を軽く押し、チェシーレについていくよう促してくる。

 優しく送り出してくれようとしている彼へ頭を下げたあと、慕は歩き出したチェシーレの背中を追いかけて店の奥へと向かっていた。

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