2-3 リボンを結んで過ごす日々

 もう目を開けても大丈夫よ。

 優しいフィデリオの声に誘われ、瞼を持ち上げれば慕の視界で無数の星が弾けた。

 目の前にガーランドが張り巡らされた賑やかな街の風景が広がっている。足元には可愛らしい色合いをした石畳が敷かれ、行き交う人々の足元でかつんこつんと歌を奏でている。


 立ち並ぶ建物は、童話の中で描かれているような可愛らしいデザインをしている。全体的にファンシーでメルヘンな印象がある町並みは、慕が生まれ育った世界では特別な場所でない限り目にすることができないものだ。

 行き交う人々も、故郷では絶対に目にできない格好をした人たちばかり。ふわふわしたメルヘンなワンピースを着た女性、フィデリオと同じような貴族と思わせる格好をした男性、頭に獣の耳が生えた子供たち――物語の中でしか描かれていない人々が目の前を歩いている様子は、慕の胸を踊らせた。


「どう? ここから見るだけでも大きな町ってわかるでしょう?」


 目の前に広がる景色を見つめたまま、慕は頷く。

 慕がフィデリオとともに立っている場所は、特に人通りが多い大通りから外れた横道の途中だ。建物と建物の間に伸びた道の中央から見える範囲でも、この町は賑やかだとはっきりわかる。


「シタウ」


 いつまでも町の景色を眺めていられる気がしたが、フィデリオに名前を呼ばれ、目の前の景色からすぐ近くにいる彼へ視線を向けた。


「珍しくていつまでも眺めたくなる気持ちもわかるけど、早く行くわよ。気に入ったなら、また連れてきてあげるから」

「あ……す、すみません」

「あと、今はそんなくっついてなくてもいいのよ?」


 あんたが甘えたい気持ちなら、もうちょっとくっついてても許すけれど。

 目を細めて猫のように笑い、告げられた言葉に慕は目をぱちくりとさせた。

 数分遅れて今の自分の姿勢がどうなっているか思い出し、かっと顔を真っ赤にする。

 あの不思議な近道を抜けた姿勢のまま――つまり、フィデリオにぴったりとくっついた姿勢のまま。年上の男性にくっついたままというのは、年頃の少女である慕には少々刺激が強かった。


「ご、ごめんなさい、歩きにくいですよね! 本当にすみません!」


 きっと、今の自分はフィデリオから見たら面白いくらいに真っ赤になっている。そう自覚できるくらい、顔が熱くて仕方ない。

 慌ててフィデリオの衣服から手を離し、慕は彼から離れすぎない程度に距離をとった。ずっと感じていた彼のコロンの香りや体温が離れて、ほんの少しだけ寂しいようなそうでないような気持ちが胸を刺す。けれど、寂しいからといってずっと彼にくっついているわけにはいかない。

 驚いた小動物のごとく、素早い動きで己から距離をとった慕の姿にくつくつと笑いながら、フィデリオは片手を差し出した。


「面白い反応するわね、あんたは」

「私は全然面白くないというか、心臓に悪い思いをしてるんですけど……」

「だってシタウってば、ちょっとオーバーなくらいの反応をするんだもの。見ててすごく面白いわ」


 そう言ったフィデリオの口元は、はっきりと弧を描いていた。

 心底面白いと言いたげな様子を隠しもしない姿に対し、慕は唇を尖らせる。

 そんな反応すら楽しいと言いたげに目元を緩め、フィデリオは慕へ差し出した手をひらひらと揺らしてみせた。


「ほら、迷子にならないように手を繋いであげるから。早く行くわよ」


 そんなに子供扱いされる年齢ではないため、この扱いは少々不満だ。

 けれど、右も左もわからない町で迷子になると困るのは自分というのもわかっている。

 自分よりも大きな手に己の手を重ね、慕はフィデリオに手を引かれる形で歩き出した。


 かつんこつんと二人分の足音が空気に溶けていく。賑やかな大通りから離れていくように横道の奥へフィデリオの足は向かっていく。

 鼓膜を震わせていた喧騒が少しずつ遠ざかっていき、かわりに静かな空気が慕とフィデリオの周囲を満たしていった。


 こんな静かで人通りの少ない場所に、買い物ができるような店はあるのだろうか。


 大通りとは対象的な静けさに少々不安になり始めた頃、規則正しく聞こえていたフィデリオの足音がふいに止まった。


「ここよ」


 その言葉に反応し、慕も足を止めた。

 フィデリオが足を止めたのは、小さな店の前だ。落ち着いた色合いのレンガで作られた壁にはツル植物が這い、色とりどりの花々が植えられた花壇や鉢植えが店先を賑わせている。それだけ見ると花屋のように見えるが、鉢植えの中には見たこともない特殊な花や植物が植えられているものもあり、花屋ではなく違う何かのようにも感じられる。


 視線を店の前に置かれている花壇や鉢植えたちから外せば、今度は店の横に積まれた木箱たちが視界に入る。木箱には側面に何らかのマークがついており、どこかの店から購入したものであると予想できた。

 今度は店の扉へと目を向ける。扉にはドライフラワーで作られたリースと木製のプレートが一緒に飾られており、扉の近くにはおしゃれな看板が設置されていた。

 プレートや看板には文字らしきものが記されているが、慕には読めなかった。


「ここが……買い物をするお店、ですか?」

「ええ。このクオーレカルティで一番の品揃えよ。どんなものでも置いてあるっていっても過言じゃあないわ」


 聞き慣れない単語が慕の鼓膜を揺らし、考える。

 クオーレカルティ――これまでしてきたフィデリオとの会話の中で、一度も出てきていない言葉だ。

 朝にした会話や道中で交わした言葉の内容を思い出しながら、考える。おそらく何かの名称だ。ここに来るまでに通った奇妙な近道が頭に浮かんだが、フィデリオは『この』クオーレカルティと言っていた。となると、おそらくクオーレカルティというのは、慕が今訪れている町の名称だろう。


 結論を出したタイミングで、ドアベルが鳴り響く。

 気付かないうちに、考え事に夢中になってしまっていたらしい。慌てて隣を見るがフィデリオの姿はそこにはなく、店の扉の前へ移動していた。

 扉を開きっぱなしにしたまま、フィデリオは慕へと振り返る。


「何をしてるの? 早く入るわよ」

「は、はい。すみません」


 慌てて頷き、慕はフィデリオへ駆け寄っていく。

 面倒を見ている対象である慕がすぐ傍に寄ってくれば、フィデリオは満足そうな顔をして扉の先へと足を踏み入れた。

 彼の背中を追いかけ、同様に慕も扉の先へと足を向け、中へと踏み込む。


 扉の向こう側に広がっていたのは、繊細な作りをしたランプが天井から無数に吊るされた不可思議な店内だ。ランプの中でゆらゆら揺れる明かりは薄暗い店内を優しく照らし出し、ミステリアスな雰囲気を作り出している。

 店の外と異なり、吸い込む空気にはハーブのような独特の香りが溶け込んでいる。人によっては苦手に感じそうだが、幸い慕には心地よく感じられる香りだった。


 背後で扉が閉まる音がする。店内の雰囲気が道中見てきた町の様子と大きく異なるからか、扉が閉まった瞬間、外の世界と切り離されたかのような気分になった。


「チェシーレ! チェシーレ、出てきなさい!」


 フィデリオは、誰かの名前を呼びながら店の奥へとどんどん進んでいく。

 慕もおそるおそる一歩を踏み出し、店内を歩く。

 店の中にある机や棚には、さまざまな品物がごちゃごちゃに詰め込まれていた。瓶詰めになったハーブや植物が植えられた鉢植え、さらには魔法陣が表紙に描かれた本や怪しい液体が入った薬瓶といったいかにもなものも置いてある。


「どうせいるんでしょう? とっとと出てきなさい!」


 店の奥へ呼びかけ続けるフィデリオの声を背景に、慕は机に積み上げられた品物の一つに目を止めた。

 真新しく見える鎖が絡んだ分厚い本だ。茶色の表紙には慕には読めない言葉で何か記されている。ボロボロの表紙はちょっと指で触れるだけで崩れてしまいそうなほどで、それを押さえ込もうとしているかのような鎖の輝きがひどくアンバランスに映った。


「こんなに古いの、売り物になるのかな」


 慕が生まれ育った世界でも、古い本を販売している店はあった。しかし、そういった店で取り扱われている本のほとんどは状態が良いものだった。

 素人判断なので実際のところはどうなのかわからないが、ここまで保存状態が悪いとどれだけ価値がある本でも売り物にはならないのではないか。

 心の中に浮かんだ疑問を小さな声で呟いた直後だった。


「おや、お嬢さんはそれにするのかにゃ?」


 すぐ耳元で、楽しげな高い声が聞こえたのは。

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