2-2 リボンを結んで過ごす日々
「シタウ、準備はできた?」
「は、はい。なんとか」
自分を呼ぶ声に返事をし、外で待っている彼の下へ駆け寄っていく。
朝食後、どこに何があるか教えてもらいながら身だしなみを整えれば、慕の見目は多少だが見れるものにはなった。上から下までフィデリオに観察され、まあ朝よりはマシねという一言をもらった瞬間は、心の底から安堵した。
紅茶の香りで満たされた室内から外に出ると、森の爽やかな空気が慕を出迎えた。
昨日、目にしたばかりの森は少々不気味に見える。油断すると何かが襲いかかってきそうな雰囲気に慣れず、辺りを見渡せばフィデリオがくつくつ肩を揺らして笑った。
「そんなに警戒しなくても平気よ。アタシが一緒にいる間は、あんたにちょっかいかけてくる奴はそんなにいないわよ」
「た、多少はいるんですね……」
「そりゃあね。この世界には、アタシと対等に話せるくらいの奴もいるんだから」
これから行くところには、その一人がいるから今のうちに覚悟しておきなさい。
唇の端を持ち上げ、何かを企んでいるように愉楽を滲ませた顔でフィデリオが告げる。
フィデリオと対等に話せる相手がいる場所にいきなり行くと聞くだけでも、慕の背筋が伸びた。
まだ彼と接した時間はとても短いが、それでも十分わかるほどにフィデリオ・フォリルシャーポという人物には癖がある。そんなフィデリオと対等に話せるとなると、これから出会うであろう人物もかなり癖がある可能性が高い。フィデリオの言うとおり、覚悟をしておいたほうがいいだろう。
小さく息を吐きだし、慕は口を開く。
「ところで……フォリルシャーポさん、出かけるって具体的にはどこに行くんですか?」
フィデリオの口ぶりでは、どこか買い物ができる場所に出かけると予想できた。
買い物ができる場所といえば町だが、フィデリオが暮らしているのは深い森の中だ。徒歩で町に移動できるとはあまり思えない。
町以外で買い物ができる場所といえば店だ。しかし、こんな森の中に店があるというのも儲かりそうにないため、可能性は薄そうだ。
内心首を傾げつつ問いかければ、フィデリオは慕の肩に片手を置きながら口を開いた。
「一緒の空間で暮らすっていうのに、他人行儀な呼び方をするじゃない。フィデリオでいいわ、アタシもあんたのことを名前で呼んでるんだし」
「あ……は、はい。わかりました、フォリルシャーポさ……じゃなくて、フィデリオ……さん」
頷きながら、フィデリオの名前を呼ぶ。
フィデリオは満足そうに表情を緩め、慕の問いかけに答えるために言葉を続けた。
「で、どこに出かけるかって質問だけど。町に出かけるわ、アタシたちみたいなのが多く暮らしてる町があるの。あそこなら品揃えも豊富だから納得できるものを見つけられるはず」
「え、徒歩でいける範囲に町があるんですか?」
返ってきた返事を耳にし、慕は目を丸くした。
もう一度辺りを見渡してみるが、太陽の光を遮るほどに大きく成長した木々がずらりと並んでいるだけだ。足元に視線を落とせばある程度踏み固められた道が見えるが、この道が素直に町へ繋がっているともあまり思えない。もし繋がっていたとしても、かなりの距離を歩かなくてはいけないような気がした。
頭上に大量の疑問符を飛ばしていそうな慕の様子を少しだけ眺め、フィデリオは彼女の肩に置いていた手を動かした。
「さすがに徒歩では行けない。けどね、アタシには結構な距離をひとっ飛びできる手段があるのよ」
その言葉と同時に、フィデリオの手が慕の肩を強く引き寄せた。
突然のことに反応が遅れ、かけられた力に押されて慕の足元がふらつく。転倒を防ぐために数歩動かして体勢を整えれば、ふわりと紅茶の香りが鼻をくすぐった。
すぐ至近距離から感じられる体温と紅茶の香り。数拍遅れてフィデリオに抱き寄せられたのだと理解すれば、顔に熱が集まっていくのを感じた。
「しっかりくっついて、アタシにあわせて歩いて。いくわよ。……アン」
フィデリオの落ち着いた声が数を数え始める。
「ドゥ」
それにあわせて、彼の足も一歩ずつ前へ進んでいく。それにあわせて慕も足を踏み出し、一歩、一歩、前へ歩いていく。
「トロワ」
三つめのカウントと一緒に三歩目を踏み出す。
足の裏が地面に触れる直前、フィデリオの唇が数以外の音を紡いだ。
「《Invitation to the tea party!》」
彼の声が空気を震わせた瞬間、脳内で古い扉が軋んで開く音が聞こえた気がした。
ぶわりと風に似た力が背中を押す。同時に目の前の景色が歪み、風にさらわれるように切り替わっていく。またたく間に立ち並んでいた木々の景色は失われ、朝と夜が入り混じった不思議な色合いをした空が広がる空間へと変わっていた。
自分が立っている場所が急に切り替わった現実に声もなく驚いていると、頭上でフィデリオがくつくつ笑う声が聞こえた。
「間抜けな顔ね」
「い、いきなり目の前の景色が変わったら誰だってこんな顔になりますよ……」
フィデリオへ言葉を返す間も、慕の目は切り替わった景色へと向けられたままだ。
空は相変わらず朝と夜が入り混じり、奇妙だけれど美しい色合いを作り出している。足元は夜の色で染め上げられているが、かすかに光を放つ白い砂が道となっているため、迷う心配は少なそうだ。
周囲に建物はなく、かわりに懐中時計や壁掛け時計、扉などが浮かんで宙を漂っている。辺り一面、夜の色で染め上げられているが不思議と暗くなく、どこに何があるか明るい時間帯と同じように認識することができた。
あらゆる法則を無視した空間は、一種の夢の中のようだ。
「ここは……」
「ちょっとした近道よ。珍しいものがあってもアタシから離れないで、帰れなくなるから」
そういって、フィデリオは慕が問題なくついてこれる歩幅で歩き始めた。
帰れなくなる――彼が何気なく発した一言は、慕の中にある恐怖心を駆り立てるには十分すぎる力があった。
慕としても、こんな奇妙な空間ではぐれて一人置いていかれるのは拒否したい。こんなところで魔法も使えない無力な自分が残されたら、どうすることもできずに死んでしまいそうだ。
フィデリオにしがみついている手に力を込め、慕も一緒に白い砂の道を進んでいく。
二人の靴底が砂を踏みつけるたびに鈴のような美しい音が奏でられるのは、まるで元の世界にある鳴き砂を踏んだときのようだった。
「ここはね、時間と空間の隙間にあるって言われてる場所なの」
足音がわりの鈴の音だけが響いていた空間に、ふとフィデリオの声が混ざる。
その声につられ、慕は歩く足を止めずにフィデリオの顔を見上げた。
彼の視線は真っ直ぐ前へ向けられているが、口元だけは楽しそうに弧を描いている。
「ここは、時間や空間が存在する場所へ無数に繋がってる。でも時間や空間ってどんな場所にも存在しているでしょう? だから、ここはどんな場所にも繋がるしどんな場所にも行ける近道なのよ」
「すごい……文字通りの近道なんですね……」
「ええ。けど、便利なだけじゃないわ。アタシ、さっきも言ったでしょう? 帰れなくなるって」
帰れなくなる。
数分前、フィデリオは確かにそういっていた。
「この場所は誰でも気軽に来れるわけじゃない。凄腕の魔法使いでも、特定の条件を満たしてないとまともに歩けない。昔は、時間と空間の隙間を問題なく歩けるかどうかで魔法使いとしての腕がわかると言われてたらしいわ」
フィデリオの話に耳を傾けながら、考える。
誰でも気軽に来れるわけではなく、特定の条件を満たしていないとまともに歩くことすらできない場所。
この手の場所は、条件を満たしていない人が足を踏み入れると何らかのデメリットが発生するのがお決まりだ。
実際にはどうなのかわからないが、小説や漫画などの中ではそのようなデメリットがついていることが多かったため、慕の中にはそういったイメージがあった。
「条件を満たしていない人が足を踏み入れた場合、どうなるんですか?」
どうしても気になってしまい、慕はフィデリオへ問いかける。
帰れなくなるという言葉からいくらか予想はできるが、彼の口から一度聞いておきたかった。
慕へ視線をよこし、フィデリオが意地悪く笑う。
「急速に老いて死ぬか、生まれる前まで時間を巻き戻されて消滅するか。予測しない場所に放り出されて死ぬパターンもあるって聞いたことがあるわ」
運良く死ななくても出口を見つけられずに、ずっとここをさまよう可能性もあるそうよ。
意地悪い笑顔で告げられた言葉は、慕が予想していたものと近かった。
同時にだんだん恐ろしくなってくる。自分はどう考えてもこの道を通る条件を満たしていないが、本当に大丈夫なのだろうか?
芽を出した不安は急速に膨れ上がっていき、慕の心を丸呑みにする。思わずフィデリオのコートを掴んでいる手に力を込めれば、彼の大きな手がくしゃりと慕を撫でた。
「そんな怖がらなくても平気よ。アタシにしっかりくっついてれば、問題なく通り抜けられるわ」
「……絶対に離れません」
「そうしてくれると助かるわね。といっても、もう目的の場所に到着するんだけど」
その言葉の直後、フィデリオの足が止まった。
同じように足を止め、慕は彼にしっかりとしがみついた姿勢のまま、目の前にあるものを見つめた。
二人の目の前には、白い光を溢れさせる亀裂がある。亀裂からはほんのかすかに人の気配や声が感じられ、亀裂の先に生き物がいる場所が広がっていることを明らかにしていた。
「眩しかったら目を閉じてなさい」
慕へ一言告げてから、フィデリオが亀裂に触れた。
そのまま何かを裂くときと同じように亀裂を押し広げ、問題なく通れるくらいに亀裂を広げていく。
それに伴い、亀裂から溢れていた光や聞こえていた声もどんどん強くなっていく。
まぶしくて目も開けていられないくらいに強くなり、思わず目を閉じた瞬間。慕は、それまで感じていたものとは違う空気が己の肌を撫でていくのを感じた。
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