第2話 リボンを結んで過ごす日々
2-1 リボンを結んで過ごす日々
「シタウ、出かけるわよ」
「……へ」
慕がフィデリオの下で生活することが決定した翌日。
朝食の席で開口一番、彼が口にした言葉を聞いて慕はぽかんとした顔をした。
場所はリビング。窓の外から見える空は明るく、開かれた窓から入り込んでくる空気は透明感に満ちている。生まれ育った世界とは異なるはずなのに、朝に感じる空気はよく似ていて、慕を少し寂しい気持ちにさせた。
そんなタイミングで聞こえた彼の言葉は、慕の胸の中にあった寂しさを一気に吹き飛ばし、かわりに強い戸惑いを植え付けた。
突然の言葉に処理が追いつかず、ぽかんとしたままの慕へ、フィデリオは二人分の朝食をテーブルに並べながら言葉を重ねる。
「朝食を食べたら行くわよ。食べ終わったら軽くでいいから準備しなさい」
「え、えと……その、あの……いきなり出かけるって、なんで……」
「決まってるじゃない」
戸惑いつつもフィデリオへ問いかければ、彼は当然といった様子で言葉を返した。
「あんたが生活するために必要なものを揃えに行くのよ」
慕が生活するために、必要なもの。
頭の中で何度もフィデリオの言葉を繰り返し、完全に理解する前にフィデリオの唇がさらに音を紡いだ。
「特に服とスキンケア用品ね。スキンケア用品はアタシのを貸してあげてもいいんだけど、合わなかったときが悲惨だからあんたの分を新しく選ぶことにしたわ」
「え、いや、あのっ……い、いいんですか」
ようやくフィデリオの言葉を理解し、慕は思わず声をあげた。
言葉がまとまる前に慌てて口を開いたため、とっさに上手く言葉が出てこない。声はしだいに小さくなり、最終的にはぽそぽそとした非常に小さな声になってしまった。
慕は身一つでこの世界にやってきた。現在着ている制服以外に自分の服はなく、愛用していたスキンケア用品も持っていない。それらを買ってもらえるのはありがたいが、同時にとても申し訳ない気持ちに襲われた。
いつか来る帰れるときまで、フィデリオの家に置いてもらえるのだけでも十分ありがたいのに。何も返せやしない身でこれ以上何かを求めるのは、なんだかいけないことであるかのように感じられたのだ。
おどおど視線をさまよわせる慕の様子をじっと観察したのち、フィデリオは自分の分のパンを口に運ぶ。ふわふわした食感と甘い小麦の味を楽しみながら、己の中で芽生えた言葉をまとめ、口を開いた。
「いいに決まってるでしょ、アタシが決めたんだから。それに、あんたに今のままでいられるのはアタシが落ち着かないの」
彼が口にした言葉に、慕はきょとんとする。
慕が今の状態でいるとフィデリオが落ち着かない――と確かにそういったが、何故なのだろうか。
彼と同じように朝食のパンを口に運びながら考えてみるが、いまいち理由がわからない。
内心首を傾げつつ、口の中のパンを咀嚼していると、フィデリオが深い溜息をついた。
「あんたの格好よ、格好!」
フィデリオが勢いよく慕を指差す。
気迫に満ちたその様子に、思わず慕は肩を揺らした。
「昨日最低限整えたとはいえ、手入れが不十分だって明らかにわかる髪! ボロボロの服! 手入れの足りなそうな肌! 全部が全部気になるのよ、あんた!」
「えっ……そ、そんなに気になりますか!?」
次から次に指摘され、慕の表情が引きつっていく。
着ている制服がボロボロなのは、昨日三足の鳥たちに襲われたせいでもあるので仕方ない部分がある。しかし、肌や髪の手入れは、想いを寄せていたクラスメイトに振り向いてほしい一心でこれでも気を使ってきたつもりだ。
現に、仲の良い友人からは綺麗な髪や肌で羨ましいと言われていたため、人よりはちょっと自信があったつもり――なのだが。
愕然とする慕の抗議を鼻であしらい、フィデリオは言う。
「確かに全く手入れしてない奴よりはマシだけど、あくまでもマシってだけ。アタシから見たらこれでもかってほど足りないわよ」
「そ、そんな……これでもまだ足りないなんて……」
わずかにあった自信が音をたてて崩れていくのを感じる。
本当に頑張っていたのだ。最終的には全て無駄になってしまった努力だけれど、なかなか自分に自信が持てない慕の中でささやかな自信になるほどには頑張っていた――それでも、まだ足りていなかったなんて。
ショックから思わず持っていたパンを皿の上に落としてしまったが、フィデリオの手がそれを拾い上げて慕の口へと突っ込んだ。
もが、と変な声を出しつつも突如口腔内へ入れられたそれを少しずつ咀嚼し、両手で支えて食べ進めながらフィデリオを見る。
至近距離にある彼の顔は、真っ直ぐ慕を見つめ返していたが、やがて猫のように目を細めて不敵に笑った。
「ねえ、シタウ。アタシはね、綺麗なものが好きなの。自分のテリトリーの中は綺麗なもので溢れさせておきたい。家具も小物も食器も、着るものもね」
フィデリオが紡ぐ言葉を聞きながら、慕は室内へ視線を巡らせる。
今、慕とフィデリオがいるリビングは、見える範囲でも綺麗に片付いている。テーブルの上には色とりどりの花をいけたおしゃれな花瓶が飾られており、食器棚もアンティークのような洒落たデザインのものが使用されている。その中にしまわれている食器も、現在使われている皿やティーセットも、高そうなものだ。
彼の言葉どおり、室内は目に見える範囲だけでも綺麗なものや高価そうなもので溢れている。
もちろんフィデリオ自身も、一瞬目を奪われそうになるほど綺麗に着飾っている。ジャボがついた上品そうなシャツに上質そうな布で作られたトラウザーズを身にまとい、上半身にはアルバートチェーンがついたベスト。
はじめて出会ったときは、ここにロングコートと装飾品で飾られたシルクハットを追加で身につけていたため、本当に物語の中に登場する貴族のようだった。
確かに、ここまで綺麗に整えられた部屋の中だと、今の慕の姿は浮いてみえるかもしれない。
ちょっと苦い気持ちになりながらそう考えたところで、慕の動きが一瞬止まった。
『自分のテリトリーの中は綺麗なもので溢れさせておきたい』
数分前に耳にしたばかりの言葉が、頭の中でリフレインする。
テリトリーという言葉は、領域や領分、縄張りを意味する言葉だ。彼がテリトリーとするものは、昨日慕が逃げ込んだエリアだけではない。もちろん、慕が今いる部屋の中も含まれているはずだ。
家具だけでなく、インテリアも普段使用する食器も、そして自分自身さえも美しく、綺麗に整える彼。そんな彼が浮いた格好をする生き物がテリトリーの中を歩き回るのを許すとは思えない。
なんだか少しだけ、嫌な予感がする。
己の口元がひくついたのを感じる。
そんな慕を見つめていたフィデリオが不敵な笑みを深め、それが慕の中に芽生えた嫌な予感を急速に成長させた。
「……あ、あの、もしかして……」
「勘づくのが思ったより早かったわね。賢い子は嫌いじゃないわ」
フィデリオの指先が慕の顎の下をくすぐり、くんっとわずかに押し上げた。
どんどん嫌な予感が強くなっていき、表情を引きつらせていく慕とは対照的に、フィデリオは心底楽しくてたまらないと言いたげな声で告げた。
「もちろんあんたにも綺麗でいてもらわなきゃ落ち着かなくて困るのよ。頭から爪先まで、アタシが綺麗に整えてあげるわ」
見事に嫌な予感が的中した瞬間だった。
もしかしたら、自分が転がり込んだところはただ優しいだけではない、少々厄介なところだったのかもしれない。
ほんのわずかな後悔が胸に芽生え、ほんの少しだけ乾いた笑いが唇からこぼれた。
「お……お手柔らかにお願いしますね……」
「嫌。アタシね、妥協は許さない主義なの」
覚悟しときなさい。
愉楽を滲ませた声で一言告げて、フィデリオは慕から手を離して食事を再開する。
それに従い、慕ものろのろとしたスピードで己の分の朝食を口に運ぶ作業を始める。
舌の上に広がるパンやスクランブルエッグの味はとても美味しく感じられたけれど、このあとに待ち受けていることを思うと少しだけ味が鈍く感じられた。
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